2012.03.03

せめぎ合い

まだ雪かきの後の筋肉痛が体のそこかしこに残っている。 花粉症もそこそこ。 微熱を抱えてみたり、なんだかちょっと気分不安定になったり。 冬と春のせめぎ合いだ。 気候も体の中も。 毎年同じにしらっと変わらない姿のお雛様が、対照的に安定さの象徴に思える。

過日、輸入食品を扱うお店で、インドネシアの「パーティ用トマトソース」を安売りしていたので、レトルトのパックをひとつ買ってみた。 袋には英語で『茹でたパスタの上に、温めてかければ、子供も大好きなパスタ料理がすぐできる!』的なことが書かれていたので期待していたのだが、色はともかく味のほうはどこがトマトなのかよく分からなく、妙にスパイシーで、その上思いっきり砂糖甘い。 とてもパスタにかける勇気は持てず、そのまんま冷蔵庫でお休みいただいた。 今夜は「ひな祭りメニュー」を全く無視して酢豚を作る予定だったので、ふと思い出して使ってみることに。 酢やケチャップを足し、鶏ガラスープの素と紹興酒で割って、醤油を垂らし、なんとなく酢豚っぽい味になってきたところで、後は素材を加熱しながら勘を頼りに微調整。 出来上がりだけを食べたら、それなりの出来栄えではあったが、なんだか作る段階でくたびれてしまい、自分の中では美味しさも半減したようだった。 まだ、冷蔵庫にたっぷり休んでいる「パーティ用トマトソース」・・さて、何に化かすべきか。

庭にはまだ「吹雪饅頭」程度に雪が残っている。 晴れないばかりでなく、気温が低くて湿度も高いから洗濯物が乾かない。 予報では、すっきりするにはまだ数日かかりそうだ。 そんな簡単には冬は去らないということなのだなあ、と、妙に納得してしまう。 

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2012.02.27

学ぶこと

明け方、ウグイスの初鳴きの声で目を覚ます。 なかなかオツだな、と、予定より早い時間に起こされた事に対して頭にくることもなかった代わりに、冷え込みの強さに怯んで毛布の中に潜り込んだ。 今期の寒さは手ごわい。 

それでも、立春を過ぎたらちゃんと花粉は飛び始めたようで、春は近づきつつあるのだなあ、と、実感させられる。 薬もだいぶ進歩したみたいで、体の奥で「無理して押さえ込んでいる感」のちょっぴりを除けば、副作用も殆どない上、薬効持続時間も延びて、ありがたい限りだ。 嫌なものは嫌に違いないけれど、この程度ならばなんとか一緒に生活していってもいいかな、という、ぎりぎりの辺りまでは持ちこめている。

去年NHKのドラマで司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」を、うっかり連続して見てしまい、「ひえぇ、私、日露戦争のこと何にもわかっていない!!」、と、焦りまくってから、実家の父が持っていた全6巻を取り寄せ、暇を見つけては読んでいる。(別にこちらの図書館で借りてもよかったんだけど、いろいろな意味で古い本で読みたかった。 活字のフォントひとつとっても現在のものとは全く違っているし、なにせ私が幼児だった時代の代物なので、紙もそれなりに黄ばんでいるし。 それがまた、本の内容の古さとマッチしていて良い感じを醸し出している。 こういうのを電子書籍で読んでしまうのとは、何か違ったものを余計に受け取れそうな気がした。)

それがまた、たくさんの意味で私にとっては衝撃的で、目から鱗がぽとぽと落ちまくっている。 私が戦争に向かうロシアと日本の過程から学ぶという、ひどくお粗末なレベルであることはさて置き、「戦争」というものを形成するありとあらゆるパーツが、俗に呼ばれる「戦争」とは全く違う分野のどこかのパーツと、必ず類似形をしていることが驚きだ。 つまり、人間がやってきた(いる)最大の過ちとされる「戦争」のパーツは、現代社会でも全く同じように存在し、それを利用して人間は社会活動を続けていることになる、ということに繋がった時のショックたるや、久々の衝撃だった。 本の中の「えっ?そうだったの?」が、本質だけ見れば朝刊のニュースとあっさり重なってしまう怖さ。

「戦争」に対しての個人的誤解もたくさん見つかって、司馬氏の書いた本からの見方と比べるだけでも、そのギャップはたくさんの箇所に及ぶ始末で、今まで自分が如何に歴史というものを軽視してきたか、今になってツケがまとめて回ってきた感じだ。(受験歴史と言えば年表を覚えることが、まず第一だったので、そんなものは必要なときに調べればわざわざ覚える必要はないと、勝手に解釈し続けて生きてきた結果がこれだ。 起きた史実の本質を抽出することにその意味があったなんて、最初の段階でどうして気づけなかったんだろうか。 自分に呆れる。)

機会があればもう少し具体的に説明しながらここに書くこともやぶさかではないけれど、現代社会のあまりに広範囲の内容に類似形のパーツが分散している為、どこから手を付けたらよいものか気が散ってしまい、やがて、いちいち説明するのが億劫になるという負の連鎖が続いている。 本の主人公の一人であり、やがて海軍で活躍する若かりし日の秋山真之氏ではないが、どうも自分には愚直にコツコツと続けてゆくのが苦手な部分があり、それも私の人生に災いしているのかもしれない。 ある意味要領が良過ぎるのだ。

とにもかくにも、もうちょっと日本史や世界史をちゃんと勉強しておけばよかったと、今更ながらに反省しきりの早春。

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2012.02.14

妙な当事者意識

震災をきっかけにしてずっと持続的に考えてはいるのだが、どうもどこから手をつけてよいものか、未だに困っていることがある。

東京電力にも、政府にも(国にも)、マスメディアにも、たくさん思うところはある。 その多くは文句とか苦情とかクレームで、要するに私にとっては「気に入らないこと」だ。 頭にきたり、呆れたり、怒ったりさせられたことである。

それらを書いたり発信したりする自由は、当然私にもあると思っているのだが、その次にはかならず「じゃあ、あなたはどうだったの?」という問いが待ち伏せているように思えて、今のところその自由を謳歌できていない。

原子力発電所で放射能漏れの重大な事故が起きている、そのことに文句をつければ、「あなただってその電気の恩恵を受けて、ぬくぬくと好き勝手に快適な生活をしてきたじゃないの!」、と、なる。 国や政治に文句をつければ、「その政党や議員さんたちを選んだのは、選挙で投票したあなたでしょ。」、だし、マスメディアに文句をつけたら、「誰だって自分の番組のコマーシャルを買ってくれているスポンサーの悪口は言えないでしょ。 そんなの当たり前じゃないの。」、だろう。

世の中の全ての物事は、辿ってゆけば必ず繋がっていて、間接的には自分も当事者なのだ。 かと言って、自分にはその組織を直接仕切ることもできなければ、何かの決定権を持っているわけでもなく、とてもあやふやな存在であることは確かなのだが。

現状の問題点に対して対策を考えようとしたり、自分の考えを確立しようとする際に、この妙な当事者意識は非常に邪魔であるばかりでなく、思考を停止させようとする。 どこかに繋がっているということは、全ての人や組織が背景として何かのしがらみを持っているということにもなり、全ては影響を受けたり操作されたものということになる。 そういうことで、合っているのか? 残るはパワーバランスだけで物事は決まってきて、これからもそのようになってゆくのか?

自分を縛っている妙な当事者意識の呪縛から、どうやって自分を解放するか、今の私の課題だ。

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