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リーボー
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収穫したばかりの瑞々しい野菜をたくさんいただいた。 包丁を入れるとピシッと音を立てて割けてしまうようなキュウリ、ほくほくの大きなジャガイモ、しゃきしゃきと甘いインゲン、鮮やかな緑色のモロッコインゲン・・どれもこれも野菜の内部に、はち切れんばかりの「勢い」が貯め込まれている感じで、うかうか料理しているとこちらが負けてしまいそうだ。 完全無農薬での栽培だそうだ。 趣味の域をとっくに通り越している出来栄えに、思わず「御商売でも始められそう」などと、余計な冗談が出た。
少し前、地域のJAが経営する農作物直売所へ行ったら、隣の建物がプロユースの農機具や肥料などを扱う購買所になっていた。 一角に農薬のコーナーがあり、当然農家用なので日曜菜園用と違って販売単位も大きい。 そこの壁にでかでかと『農薬の使用は消費者のために』という文字が掲げられていたのを、同行者が見たとのこと。 「ために必要です」なのか、「ために少なくしましょう」なのか、で、大違いになるな、と、聞きながら思ったのを覚えている。 でも、JAは農薬も売る側の立場だから、あんまり購買意欲を削ぐようなポップは掲げないような気もするし?・・真意の程は謎である。
届けられた野菜の作り主が「御商売でも始められない」のは、それがシスター(修道女)だからだ。 自分達が修道院で食べる野菜の一部を、修道院の庭で作っている。 それも、私が暮らしている場所なんかよりもよっぽど都会の街中で。 伺ったこともあるが、畑にはちゃんと虫も集まり、それを餌にする小鳥達もたくさん鳴いていて、タヌキなんかも集まってくるそうだ。 「こんな街中にこんな自然豊かな環境があるなんて!」と、本当に驚かされた。 自然は隠れているだけで、その気になればちゃんと正体を現すのだという底力が、心強くもあり、それを押さえつけて抑制している人間の存在が怖く感じられもした。
今年はその修道院の庭の木にカラスが巣を作ってしまい、花壇の手入れをしていたシスターが襲撃を受け、頭から血を流す事故が起きているらしい。 役所に依頼して巣を取り除いてもらうべきか、子育てが終わるまで近寄らずにそっとしておいてあげるべきか、思案中とのことだ。 自然との共存は、口で言うほど生易しいものではない。 結局は「生きるか・負けてつぶされるか」なのだという部分を、隠し通すことはできない。
自然と人間の生活、生産者と消費者・・どこまでの線でどちらがどこまで妥協するのか、どこまで我慢できるのか。
冷蔵庫にたっぷり詰まった、元気満ち溢れる野菜たち。 新鮮なうちに食べてあげなくては・・という大きなプレッシャーも感じつつ。 食べ物から元気を貰って、じめじめの鬱陶しい時期を乗り切ろう。
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しばらく前に何気なく見ていたテレビで、「うちでは納豆にチーズを入れて食べます」、と、言っている人がいた。
納豆にチーズ?・・と、怪しく思いつつも、納豆にキムチを入れても美味しい(と個人的には思う。)のだし、学生の頃の友人の中には、納豆にプレーンヨーグルトを混ぜて食べるのが好きというのもいた(これについては、個人的には同意しかねたが、まあ食べられないというほどのひどいものでもなかった。)くらいだから、発酵食品同士ならさほど問題も無いのかな、と、思い、早速やってみる。
3連パックの納豆ひとつに、プロセスチーズを1枚、大豆の粒と同じくらいの大きさに切って混ぜるという。 ご飯に乗せて食べると、「・・ん??」。 チーズの味がしない。 口の中でチーズの存在が判らない。 違和感が無いレベルを通り越して、入れてある意味が無い、という状態。 私の味覚がおかしくなったかと思って、『ますたあ』の反応を見るが、「完全に埋没しちゃってるね、これは。」
チーズ嫌いの方がチーズを食べる為の方法としてはお薦めできるが、チーズが好きな人にはチーズが勿体ない。 例えばブルーチーズとかウォッシュタイプような癖の強いチーズを選んだら、違う結果になるだろうか。 そのうちやってみよう。
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久し振りに街へ出てゆき、学生時代からの友人とビールを飲みながらみっちり話をしてきた。
普段の社会生活の中で特別な意識もせずに採用されている方法やルールの中に、「やっぱりそれは、人間としておかしなことなんじゃないか?」、ということがたくさん隠されているという話をして、「そうだよね、間違っていないよね、この考え方。」、と、確認し合う。 飲み込まれそうな毎日の濁流の中で、この感覚を共有できるだけでもどれだけ心強いことか。
寝転がるドランカー、公園でひたすらハトにパンをちぎって与え続けているスーツ姿の男性、客寄せのチラシを配る人、街頭演説で声を枯らす某政党の議員、濡れながらギターを掻きならすストリート・ミュージシャン、弦で指を切らなければいいけど。 ・・駅前の雑踏の景色に、たくさんのイメージの断片が浮かんでは消えしていった。 社会に対して自分の中でもうとっくに諦めた筈のことと、まだ諦めきれずにいることの境界線が雨に滲んで揺らぐ。
昔からの友人達はいつも私に「つまらない大人に落ち着くなよ!」という無言のエールを送ってくれる。 正義感を思い出す『復元ポイント』のような存在なのだろう。 みんなそれぞれがそれぞれの場所で、社会の何かと毎日小さな戦いを続けているみたいな、一種の連帯意識が不思議だ。
学生の頃に抱いていた大人のイメージと、今の自分は、だいぶ違っている。 このギャップの正体はなんなんだろう?
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