« 欲 | トップページ | Day by day »

2005.04.04

日常になるということ

どんなアブノーマルな事柄でも、それが毎日続いていたら、やがては日常のことになる。 変化に適応するというのは、言い換えれば、日常になるということなのだろう。

家族が入院して、病院にお見舞いを兼ねて洗濯物を引き取りに行く。 普段通らない道に車を走らせ、行き帰りで3時間近くの時間を消費する。 そのために自分達の夕食時間もずれ、お風呂や就寝時間も押されてずれ込む。 洗濯機を回す回数も増えるし、干し方も変わる。 そして、仕事は仕事として周辺の状況と無関係なまま淡々と存在している。 はじめの2日間ほどは、ひどく疲れた。 全てにおいてペース配分が狂ったからだ。 いつ何がどうなるか予想できない状況の中では、常にある程度の緊張を強いられ、交感神経優位の時間が続いてエネルギーを浪費する。 当然のことだ。 でも、だんだんと「それが普通」の状況ができて来ると、どこでどのようにリラックスすれば良いのか覚えてくるので、緊張すべき時間とそうでない時間の配分が可能になる。

倒れた父も、初めの半日ほどは自分の麻痺の具合が理解できずに混乱していたようだが、とりあえず半身は自由に動くこと、尚且つ食欲もあることが判るにつれ、少しずつ客観的になっていったみたいだ。 年齢的なことがあるので、変化への適応に要する時間は長いとは思うが、この状態が日常にさえなってしまえば、もうさほどの混乱は来たさないのではないかと見ている。 次に憂慮すべき予測される変化は、退院してきてから直後のことになるだろう。 入院生活が日常のことになってしまうと、今までずっと暮らしてきた家でさえ非日常と化す。 我々の生活も変化するだろうし、お互いにその状況に慣れなければならない。

まあ、一歩一歩ということなんだろうな。 (・・と、自分の中でちょっとした総括。)

庭の山桜がポツリポツリと開き始めた。 病院への道の途中には満開のソメイヨシノの木も見て取れる。 それに昨日はパパ様(ローマ教皇ヨハネパウロ2世)が昇天された。 あれだけの活躍なさったお方だから、神様もご自分の近くに呼び寄せてお仕事をさせたくなったに違いない、と、そんなことを考えていた。 自分達に何があるとか無いとかに関わらず、同じ速さで淡々と時が流れてゆくことが、なんとなくありがたいことのように感じられている、今日この頃。 春のせいか疲れがあるのか、少し眠い。 

|

« 欲 | トップページ | Day by day »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 日常になるということ:

« 欲 | トップページ | Day by day »