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2005.06.30

ゼリー

今日は住民基本検診を受けるために朝食抜きで過ごし、引き続いて買出しを済ませてから遅い時間に昼食をいただいたら、なんだか胃もたれしてしまった。 食欲が無かったので夕食は『ますたあ』の分だけ作り、私は横でビールを飲みながらホウレンソウのお浸しとシュウマイをちょっとつまむ。

早朝はどしゃ降りの雨、出かけるときもまだ降っていたのに、検診を受けている間に青空が出ていた。 じりじりするような夏の陽射しが照りつけ、あっという間に汗びっしょりだ。 天気も食事もなんだかペースが乱れて、落ち着かないような変な一日。

ちゃんとリセットして、すっきりと明日を迎えたい所だ。

ここ暫くの間、どういうわけかずっとゼリーなどのプルプルしたおやつが食べたくて仕方が無い。 何だかんだで実現できていないから、余計に食べたい気持ちだけが募っている。 明日こそ作ろうかな、と、目論んでいるが、計画どおりにゆくだろうか?

・・現在、殺人を犯している青年たちの親は、私と同じくらいの世代だ。 上手く言えないが、社会のあり方のいろいろなことに責任を感じながらニュースを聞いていた。 頭の中で、ゼリーがプルプル揺れる感じと、青年たちの不安定な心理状態のイメージが重なっている。

やっぱり明日、ちゃんとゼリーを作って食べよう。 どうしても食べてすっきりして、自分のすべきことをクリアにしなくてはならないような気持ちがしている。

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2005.06.29

梅シロップ

3週間寝かせて仕込んでおいた「梅シロップジュースの素」が完成! ペーパーフィルターで濾してから、清潔なボトルに移し変える作業で、午前中の時間を費やす。

私は梅シロップには砂糖しか使わないので、念のためボトルの内部を消毒用エタノールで殺菌し、紛れているかもしれない酵母の繁殖を抑える意味で冷蔵庫に保管している。 なんだか怪しい予感がする時には、一度煮沸してからボトル詰めするが、どうしても香りが飛ぶので(非常にマイルドな、市販品の梅シロップに近い感じになる。)その手はあまり選ばない。 それでも冷蔵庫で保存しておけば発酵したことも今の所無いので、それで良し、という感じだ。

出来上がったばかりの梅シロップはうっすらと麦わら色で、はっきりと主張するような味がする。 それが半年も経つと、何がどう変わるのか、色も濃くアンバーになってきて味も香りもマッタリと角が取れてくる。 時間の作用は本当に不思議だ。

今年の梅は鮮度が高かったし、果肉も厚みがある立派なものだったから、おかげさまでジュースもたっぷり採れた。 私が頭の中で考えていた出来上がりよりも、酸味の強いものに仕上がったみたいだ。 お客様のオーダーに、自分達の夏ばて防止に、カクテルの材料に、デザートや料理の素材として、活躍してくれることと思う。 自然の恵みに感謝!

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2005.06.28

不愉快の理由

はじめに断っておく。 私は個人として脳死判定後、または死後、臓器移植のドナーになることを希望している。 ドナーカードを持ち歩いているし、アイバンクや脳下垂体バンクへの登録も済ませてある。 私の臓器の状態が移植に適さない場合は、献体として扱われることを希望しており、どうなるかわからないがパートナーにもその意思は伝えてある。 臓器移植医療については、今のところ肯定的に捉えている。 最終的に人が死ぬか生きるかは人が決めることではなく、病状に係らず生かされる人は生き、あの世に招かれる人は死ぬ、そんな風に位置付けている。 だから、できるできないは別として、生きている人はなるべく完全に健康状態に近づける価値があると思う。 そこには個人の考えや医療の存在が活用されるべきとも思う。

昨夜、お風呂上りに何気なくつけたテレビで、臓器移植しか残された道の無い重い心臓病の女性への寄付金を募っていた。 渡米し治療を受けるのに9500万円必要だという。 この手の話題は時々メディアを賑わせる。 テレビでの募金活動も目にする機会がそこそこある。 しかし、私はどうも腑に落ちない。 どちらかといえば不快なのだ。 この独特の不快感は一体どこから来ているのか、自分でもよく判らずに曖昧にしてきたのだが、真正面から暫く考えてみようかと思い、不快な気分を受け入れてテレビを見ていた。

私の元には時々ユニセフから募金を要請する手紙が届く。 季節のご挨拶に使うポストカード等で、ユニセフの通販を利用しているからだ。 ふと思い出して、つい最近送られてきた手紙を見直してみた。 そこには、ユニセフにいくら募金したら、そのお金で何ができるかが書かれている・・ 13円でポリオ予防ワクチン1回分、64円で 1錠で4~5リットルの水を浄化できる浄水剤50錠、1284円で緊急事態下の栄養不良の子どものために特別に開発された高カロリービスケット20箱(包み)、64万2000円で緊急保健キット1キット。1キットの中に、緊急時に必要とされる医療用品・器具1万人分(3カ月)が入っている。

女性一人の最新医療のために9500万円かけるのと、ユニセフが戦渦の子供たちに与える最低限の医療で9500万円使うのと、どちらが優先されるべきなのだろうか。 ・・私には何も言えない。 比べてはいけないことなのかも知れない。

でも、メディアに取り上げられて共感を集め、すぐに何千万もの寄付金が集まってしまう人もあれば、地道に真っ当に生きながらも、お金が足りないばかりに移植を受けられない同じ病気の人もいて、もっと言うと地球のどこかでは戦争や日本で暮らす人にとっては「なんでもない感染症」で、たくさんの人達が亡くなっているのも、また事実なのだ。 この差はなんだ?、誰が決められるのか、誰が選べるというのか。

幸せも生きることの価値も、他人と比べることはできないだろう。 ましてやそれすら人が築き上げてきた「お金」というものに支配されているとすれば、空しくて哀しいことだと思った。 お金を寄付することの裏に、どういう意味があるのかを考えて募金している人が、果たしてどのくらい居られただろうか。

貨幣経済を否定する気は毛頭ない。 私だってお金によって暮らし続けている。 ただお金によって人の命が左右されている現実をどのように捉えればいいのか、途方に暮れているだけなのだろう。 意図は無いにしても、善意という大義名分でお金を簡単に集めてしまうメディアの力も恐ろしいし、その力もお金で買えることがもっと恐ろしくもある。

簡単に結論はまとまらないが、自分なりにテレビを見ながら考えたことを書いてみた。 清水貴美子さんというシナリオライターをなさっている方のブログに、私が見たテレビ番組のことが書かれていて、「この方のような感覚がどう考えても一般的な共通認識なのだろう。」と、つくづく・・。 やっぱり私は冷酷な人間かも知れない、と思った。

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2005.06.27

お茶漬けの素で

義父の元に届けられる「季節のご贈答品」の中に、毎回決まって海苔セットを送ってくださる方がある。 箱を開けると3つのアルミ缶が並んでおり、ひとつは焼き海苔、ふたつめは味付け海苔、そして残りのひとつが海苔茶漬けの素だ。 焼き海苔と味付け海苔はなんだかんだと食べる機会が多く、あっという間になくなってしまうのだが、お茶漬けの素だけはどうしても残ってしまい、次の贈答品が届いてから「ありゃ、前回のもまだ手付かず・・^^;」などということもあって困っていた。 こうなったら積極的に使うしかない。 お茶漬けが嫌いな家族なら、お茶漬けじゃないものを作れば良い。 そう覚悟を決めていろいろ試してみた。

一番のお勧めはクリームチーズと合わせてディップにする方法。
お茶漬けの素を小皿にあけて少し面倒だが「あられ」だけ別皿に取り分ける。(お箸やスプーンではなく乾いた指でやるのが最も効率がよい。) クリームチーズを室温に戻すか、若しくは短時間電子レンジにかけて柔らかくしてから練り、そこにお茶漬けの素を混ぜ込む。 クラッカーやパンに載せてカナッペに、またスティック状にした野菜ですくいながらいただく。 食べる直前に分けておいた「あられ」をトッピングとして使えば無駄なしだが、時間が経つとフニャフニャになってなんとも情けない感じになるので注意。 これは一見、何を混ぜ込んだかわからない一品になるので、来客のちょっとした前菜に使うとウケが良いみたいだ。

二番目は前述の応用編。
クリームチーズを適当なサイコロ状に切り、表面にお茶漬けの素をまぶしつける。 すぐに食べてしまう時や家族でいただくのなら、これで充分。

三番目はジャガイモに合わせる。
粉吹き芋、またはジャガイモを適当に切って油で揚げてフライドポテトを作り、どちらも熱いうちにお茶漬けの素を上からかけてよく混ぜる。 粉吹き芋の方は時間が経つと味が染み込んで馴染むし、余分な水気も吸い取ってくれるからお弁当にオススメ。 多分お年寄りにも楽しんでもらえるような味。

四番目はパスタ。
パスタ(ショートも普通のスパゲティ―でもなんでも大丈夫!)を茹でて、オリーブオイルとお茶漬けの素で和える。 他の余計な具は使わない方が美味しいように思うけれど、栄養的にはかなり偏るので副菜で工夫を。

五番目は好き嫌いが分かれるかも知れないが・・。
タラやエビと合わせる。 生タラの切り身、背わたと殻をとったエビにお茶漬けの素を振りかけて、冷蔵庫で30分ほど馴染ませてから、バターを引いたフライパンでソテーする。 湿った「あられ」がソテーされると妙に香ばしさを発揮して、なかなか面白い仕上がりになる。 どこかで食べたことがあるような「市販品おそうざいの味」に近い気もする。 タラなら二切れで一袋使用。 ちょっと多めに使ってゆくのがコツ。 食べてみて塩味が足りなければ卓上で醤油を。

当分はいろいろ実験するチャンスがありそうなので、また何か美味しい物ができたらアップします。

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2005.06.25

負荷

整形外科を受診する度に医者が「太っていたらこんなに早く治らなかったですよ」とか「痩せるための指導が必要ないだけありがたい」などと言う。 こちらとしては思いのほかの長患いになってしまったように感じているので、これ以上スローペースの回復など本当に御勘弁願いたいのが、正直な気持ちだ。 その感じ方のギャップが興味深いので突っ込んでみると、膝関節にトラブルを抱える患者は痩せさせることが必須であるとのこと。 「それが簡単にできれば苦労は無いんですがねえ・・」などと苦笑なさっていた。

立っている若しくは歩いている時、自分の体重は膝が支えていると言っても良い状態だそうで、二本足だから50パーセントずつの分散。 つまり片側の膝が支えなくてはならない重さは、体重の半分と考える。 それが膝の許容範囲を超えると何らかのトラブルの元になる。 膝が支えられる重さにまで体重を減らせば、それだけでかなりの原因が解消されるという訳だ。

私自身でも現在の状況で、厨房で牛乳の1リットルパックを2本抱え込んだりすると、それだけで怪我した方の膝がカックンとなるのを自覚する。 たかが2キログラムの負荷をかけただけでそんな調子だ。 それに引き換え2キログラム分体重が増えることなんて、そんなに珍しいことではないし、ちょっとおやつの量を増やせばあっという間。 10キロ太ったときのことを考えたら、どれだけ膝が悲鳴をあげるか、容易に想像がついてしまう。

歩けないのは困るから太らないように自己管理しなくては・・と、肝に銘じつつ、帰ってきた。

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2005.06.24

鰹の相棒

近年はカツオの出回り時期も長くなってきたように感じられる。 初鰹から戻り鰹、それに冷凍物まで含めると、「えっ、こんな時期に鰹?!」ということもある。 カツオは香りが強いので、好き嫌いがはっきり分かれるようだ。 食べる時の相棒も選び方が様々。 普通の刺身のようにワサビ、他にニンニクやショウガ、和辛子ということもある。 醤油、ポン酢醤油もそれぞれ。 それに生臭みを打ち消すための薬味・・大葉、茗荷、青ネギ、俗に言う香味野菜。

好みはいろいろだろうが、侮れないのがタマネギとの相性だ。 普通の刺身は大根のツマと盛り合わせることが多いが、私はカツオの時は晒したタマネギのスライスと合わせる。 ちょうどこの時期は新タマネギが出回っているので、たっぷり使って。 タマネギそのものも個性が強いので、強い物同士相殺されるのかも知れない。 タマネギの甘味が活きて食が進む。 私は普通に醤油でいただくことが多いが、ポン酢醤油でも良いと思う。

タマネギはたいていの家庭でいつでも持ち合わせがある野菜のひとつだろう。 他の香味野菜をたまたま切らしていた時に使ってみたのがきっかけだったのだが、今ではウチの定番に納まっている。 手ごろな価格でたっぷり食べられるカツオ、是非新タマネギと一緒にどうぞ。

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2005.06.23

昔のケーキ

私がまだ幼かった頃、世の中には今のようにたくさんのケーキ屋さんがあった訳ではなかった。 どこの街にも、駅前商店街に一軒か二軒・・しかも、和菓子屋さんが片手間にショートケーキを作っているようなことも多かったし、第一、ケーキを食べるなんてそんなに頻回なことではなく、家族の誕生日やクリスマスなど出番はかなり限定されていたように記憶している。 生クリームも今ほど香り高い洗練されたものではなかったし、バタークリームもたくさん使われていた。 そして、ケーキ全体のデザインや素材の取り合わせ、味や香りのコンビネーションが、今のケーキのように凝った物ではなく、シンプルイズベストを地でゆくような商品ばかりだった。 イチゴの乗ったショートケーキ、モンブラン、オペラ、フルーツ入りのババロア、サバラン、スフレチーズケーキ、エクレア、カスタードプリン・・このあたりが主なラインナップで、名前を見ても味の見当がつかないようなケーキは皆無だったのではないかと思う。

あの頃のケーキには独特の味の濃さとフレーバーが存在していた。 現在の潮流のような「素材重視」ではなくて、どっしりと甘く、バニラもレモンも素材を使わずにエッセンスで香りをつけるような作り方。 たくさん食べたら飽きてくるくらいに存在感があった。 ケーキバイキングなんてもってのほかのような濃さが、身上だったのだろうと思う。

・・どうしてこんなことを思い出したかというと、実は今日、上で述べてきたような「昔のケーキ」に再会してしまったのだ。 「いまどきこんなケーキを作れる人が居たのか!」と、いたく感動してしまった。 あの濃さ、あの甘さ、あのフレーバーの使い方、奇をてらわないストレートな重たいケーキ。 決して流行りの味ではないし、決してたくさんは食べられない。 でも、一口食べた瞬間に懐かしい記憶が一気に押し寄せてくる味だった。 「ますたあ」も私も一瞬顔を見合わせて黙ってしまった。 「うわー!!こりゃ、ある意味凄いや。」 それだけで充分だった。 流通している冷凍ケーキではなく、ちゃんと厨房で作っているのが判る。(いや、トレンドを追いかける冷凍ケーキの会社が、こんな味をフィーチャーするはずもないだろうが。) 「どんな職人さんが作っているんだろう?」 「すごい年配の方かもよ。」 「レシピ、知りたいくらいだね。」 「あたし、この味のケーキを作れって言われても、きっと作れないと思う。」 「現在の素材を使ってこの味を作り出すのは、逆に職人技だよね。」 いやはや、脱帽であった。

お店の名前は「Sundorian(サンドリアン)」、沼津にあるベーカリーレストラン。 パスタやピザなどをメインにしたお店で、パンが食べ放題(こちらはあまり特筆すべきものではなかったが)、ドルチェはワゴンサービスから好きな物3種を選ばせてくれた。 お昼時の店内は奥様方のランチ需要で賑わっており、そこそこ年配の方が目立っていたような気がする。

甘いものにうるさい方には、「昔のケーキ」の勉強にぜひ一度お勧めしたい。   

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2005.06.22

さすがは「おフランス」

以前にも書いたが愛用している万年筆はWATERMAN社製である。 単語の字面だけ見ると英語圏の国のように見えるWATERMANは、実はパリの会社だ。 今朝ちょっとメモ書きしようとしたらインクが出ない。 カートリッジを覗き込んだらすっからかんだった。 そのままインクカートリッジだけを差し替えても良かったのだが、気が向いたのでペン先をきれいに洗うことにした。

ペン先と本体の細い隙間には、どうしても汚れがたまる。 多分埃がインクで濡れてこびりついてくるのだと思う。 大方の汚れを蛇口の下で洗い流した後、こびりついた汚れを緩めるために、パイレックスのガラスの計量カップに水を入れて沈めておいた。 さて、昼食を作ろうと厨房に行くと、ペン先に残っていたインクが滲み出て、水の色がきれいに染まっている。 なんともいえない深みのある赤紫色。 しかも透明感があって、何も知らなかったら「とっても美味しそうな色」だ。 ガラスの容器に入れておいたから、余計にそう感じられるのかも知れない。 しばらく窓にかざしてウットリ見とれてしまった。

私が普段使っているのは黒のインクだ。 子供の頃から黒インクが黒色だけで出来ているのではない事は知っていた。 例えば水性のサインペンで紙に何か書き、それを霧で湿らせると(簡単なペーパー・クロマトグラフィーですな)、全く別のいくつかの色が現れてくる。 主に藤色、オレンジ色、ちょっとピンク色、そして黄色。 これらが混じり合って「黒に見えている」だけなのだ。 以前、日本のメーカーの万年筆を愛用し黒インクを使っていた時も、ペン先を水に浸して洗ったことがあったが、その時は穏やかな青に近い藤色だったのを記憶している。 WATERMAN社製の黒インクは、それに比べたら赤い色の成分が多いのだろう。そして全体が暗くどっしりとした重たい感じだ。

「これは、赤ワインの色にかなり近いぞ」と、思いながら、計量カップを覗き込んでいた。 さすがはフランス、ワインの国だ。 色彩感覚ひとつをとっても、まるで身体の中を巡っている血のように、ワインが染み込んでいるお国柄なのかも知れない。 さすがだな・・と、フランスの底力を見たような気がして、唸った。

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2005.06.21

ちょっと海まで

かなり久しぶりに海を見てきた。 いや正確に書けば、訪れた先の建物がいきなり海に面していたのだ。 毎年この時期に開かれる食中毒防止の為の講習会。 今までは地元の湯ケ島地区で開催されるものに参加していたが、今年は開催日が膝の受診日に重なってしまったので、一足早く西伊豆の土肥(とい)地区のものを受けることにした。 会場を囲む道路に、駐車場とも路上駐車ともつかないような微妙な雰囲気で縦列駐車して、ふと視線を上げたら、防波堤の向こうにいきなり海が広がっていてびっくりした。

曇っていたせいか海は青とグレーを混ぜたような色。 あまり遠くない所に漁船が何艘か出ていて作業をしている姿が見える。 防波堤では釣り糸を垂れる親子連れ。 海沿いの遊歩道に架かる橋の下では、ツバメが子育てをしているらしく頻回に出入りしている。 夏は海水浴で賑わう土肥も、オフシーズンには趣ある漁港だ。 べたべたするような海の匂いの風に包まれながら、ぼんやり景色を眺めていた。

足がこのような調子だから、入口に近い場所に駐車させてもらうつもりで、時間より早く到着できるように家を出てきた。 時間つぶしの本も助手席にスタンバイしてきたのだが、そんなものは何だかどうでも良くなってしまった。 きらきら光る海面が眩しい。 波の音、風の音、鳥の鳴き声。 窓を下げてハンドルに覆い被さるようにして、ぼんやり過ごしていた。 とりとめもなく心に浮かんでくる小さな記憶の断片を手繰り寄せるようにしながら。

ちょっと峠を越えればすぐだというのに、「いつでも行けるから」と甘えて、実は海に出かけることが滅多にない。 山あいの風景に慣れてしまった身には、この海独特の開放感が新鮮に感じられる。

たまには良いものだな。 また夏が終わった頃にでもぼんやりしに来てみようかな。 そんなことを思いながらの講習だった。

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2005.06.20

キッカケは吉田健さん

フジ系列でオンエア―されている「新堂本兄弟」という番組で結成されているバンドが、野外ライブをやることになったらしい。 わざわざ伊豆から駆けつけようとも思ってはいないが、もし、東京に住んでいたらチケットの申し込みをしているかも知れないな、と考えるくらいにはグッときている。

理由はそのバンドのメンバーだ。 ご存知無い方は見ていただきたい。 DOMOTO BROS.BANDというのが正しい名称らしいが、私にとっては堂本・・つまりKinKi Kidsのおふたりにはあまり関心がなく(失礼)、問題はベーシストだ。 そう、吉田健。 あの吉田健氏が現役のジャニーズアイドルとバンドをやっているなんて!!である。 録画してまでチェックしてはいないものの、何かの拍子にチラッと見かける度、未だに信じられないような不思議な気分に陥ってしまう。 いやあ、こんな好々爺に(見えるほどに)落ち着くなんて、当時の誰が想像出来ただろうか。 うっかり「時の流れは早いものだ」などと口にしてしまいそうになる。

しかも、見ていただいた通り、他の面子もある意味において濃く、アルフィーの高見沢さんは居るは土屋公平さんは居るは、おまけにドラマーはポンタさん! 何がどういう風になってこんなメンバーが集まったのか、未だに不思議である。

何かの機会があれば、吉田氏のあの弦さばきと、ポンタさんのスネアさばきを生で自分の目で見たい、いや、耳で聴きたいものだ。

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2005.06.19

呆れている

知りたくもない他所様の家庭の事情を強引に見聞きさせられる当方としても辛いので、「若貴騒動」の話題になるとすぐにチャンネルを切り替えている。

今更この話題には触れたくなかったのだが、一度だけどうしても突っ込ませてください。

「貴乃花親方、そのパーマはどうよ??!」

・・・

あー、スッキリした。

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2005.06.18

黒みつ

今夜のお客様のデザートは、サツマイモのパイ、新茶を使ったアイスクリーム、そして果物が3種、以上を盛り合わせたものだった。 手持ちの美味しそうな素材を使って、あまり考えずにそれぞれ作ったたおかげで、この組み合わせの皿にどんなデザートソースを合わせようかという段になってから、はたと困ってしまった。

自分の中ではいくつか格言があり?、それによれば「困った時にはアングレーズソース」なのだが、あまりにも安直な印象になってしまいそうだったので、ちょっと頭の片隅に寄せておいて、代役が見つからなかったらアングレーズソースにしようと思った。

チョコレートソースも美味しそうだが、アイスがいつもより甘い出来上がりになっているので、重たくなりそうだし、フルーツ系のソースだとお茶の苦味とはミスマッチになりそうだし、と、ここまで考えて、今夜の組み合わせのネックは新茶のアイスクリームなのだと気付く。 お茶味に相性が良いソースにすれば他は何とか丸め込めそうだ。

迷った挙句最後に選んだのは黒みつだった。 サツマイモのパイのフィリングに三温糖を使っていたことも幸いし、いい感じでまとまってくれた。 隠し味と言うか「隠し香り」で、ほんのちょっとのシナモンを黒みつに混ぜて、奥行きを追加。 洋とも和ともつかない面白い出来上がりになって、作っているほうも楽しかった。 これを機会に和の素材をフィーチャーしてゆくのも、良いかも知れない。 夏が来る前にちょっと遊び心でいろいろやってみようかな、と、思っている。

ちなみにアングレーズソースは、いろいろな素材をアクセントで追加すると、バリエーションが広がって面白い。 抹茶やミントリキュール、コーヒーなど手元にあるものでもずいぶん変化がつけられる。 先だって黄な粉を入れてみたが、これは黄な粉の香りが活きなくて失敗だったので、ご参考まで。 

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2005.06.17

捧げるということ

以前に勤務していた病院は、キリスト教の信念に基づいて運営されていた歴史のある病院だった。 各セクションの責任者は修道女だったし、神父が毎日入院患者の元へ病棟訪問していた。 だから入院患者にも信者さんが多く、初めの内は慣れない宗教上の習慣に戸惑ったものだ。 もちろん信者でない入院患者もたくさん居られて、カルテにあるパーソナルデータを見なければ、ぱっと見は区別がつかない。 その中で決定的に信者とそうでない人を区別する「ある特徴」に気付いたのは、病棟実習が盛んになる看護学校の2年生になってからだった。

病気になると多くの人は落ち込んだり暗くなったりする。 慢性疾患だったり、残念ながら完治の見込みがなかったりすれば、余計だ。 最も顕著に表れるのは末期癌のような場合で、日々増してゆく苦痛と対峙するための精神力は、もう言葉にできないほどに大変なもの。 そんな時でも信者は妙に明るい。 身体は相当に苦しいはずなのに、また、実際に相当痛いと言いつつも、訝しいほどに明るい。 このギャップは一体何なのか、私はかなり怪しんでいた。 片や信者でない場合は、もう本当に苦痛こそが自分の全てだと全身で表現する。 顔を歪め、うめき、話す余裕すらなく、看護婦や家族に当り散らし、ただただ痛み止めの薬に頼る。 こちらの表現形のほうがよっぽど自然で正直で客観的に納得できるのに、信者の持つあの明るさは一体何なのか、本当に理解不能だったのである。

ある時、たまたま受け持った患者さんが進行した癌で、深くいろいろなお話を聞く機会が与えられた。 その時に私は思い切ってずっと疑問だったことをぶつけてみた。 つまり、「あなたはそんなに大きな苦痛の中で、どうしてそこまで余裕が持てるのか?」ということだ。 その方は間髪を入れず、ストレートに教えてくれた。 「罪もないキリストが十字架にかけられて殺されたのは知っていますね。 それだけの苦しみを神に捧げて、おかげで私達は救われました。 その時のキリストと同じように、私は死に達するまでの苦しみを神に捧げています。 痛みが強ければ強いほど、捧げ物も大きくなる訳です。 つまり、私が苦しむことは神に捧げ物をしているのと一緒ですから、非常に意味があることで、価値があることで、苦しむことで神を賛美しているのです。 神をたたえることは喜びです。 だから身体は苦しくても、気持ちは喜びで満たされています。」 これは当時無宗教だった私にとっても、相当なインパクトだった。 逆転の発想とでも言おうか、起死回生の逆転ホームランを打たれてしまったような気分だったのを覚えている。

さて、今夜は、とある方のお通夜に参列させていただいてきた。 臨済宗のお坊様が読経の後で、その教えについて少し解説をしてくださったのだが、その中で「布施」という言葉が出てきた。 自分にできる形でできる物を、周囲の人に捧げることが、その本意だということであった。 優しい言葉、微笑み、お金、時間、労働、思いやり・・すべてお布施に値するのだという。 宗教は違っても、祈りの形態や言葉は違っても、人間が取るべき行動についての教えは同じであるように思えて、興味深かった。

お亡くなりになった方が入院し苦しんでおられた様子を、断片的にご家族から聞いていたので、ご本人もご家族もさぞや辛かったんだろうな・・と、複雑な思いで通夜に向かったのだったが、ご家族が「本当に辛い思いを通り過ぎた方だけが経験できる、ある意味吹っ切れたような穏やかな表情」をなさっているのを見て、なんだか私もホッとした気持ちになった。 全ての苦しみや辛さを捧げ尽くして、全身全霊で自分の神を賛美して、旅立たれたのだと思った。

家に戻ってから静かにもう一度、亡くなった方とご家族のことを祈りながら、「捧げる」ということの神秘について黙想した。

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雨合羽

雨の日が続く。 リスクを回避するためと、余計には歩かないように指導されているためもあって、雨の日はわざわざ出歩かないようにしている。 でも、どうしても生鮮品の仕入れは自分の目で確認してから買いたいし、ちゃんと自分で選びたいので、一定期間で外出の計画を立てることになり、その日がたまたま雨降りだったとしたら、それはそれで仕方がないと諦めるしかない。 まだ杖を離せないから片手はふさがっている。 傘をさせば両手はそれでおしまいだ。 これでは何かあった時に対応できない上、何よりも不便極まりないので、今まで滅多に袖を通さなかった雨合羽(ポンチョ)を着ることにした。

すっぽりとフードを被ってしまえば、顔の真正面から風を受けない限りそんなには濡れないし、梅雨時の肌寒いような風もシャットアウトしてくれて、考えていたよりも快適だ。 視界も確保されて視野も明るい。 こんなに便利な物だったかな、と、内心驚いている。

雨が降りかかると、私の頭に雨粒のポツンと落ちる感覚が伝わって来る。 柔らかい雨、大きな粒、早い粒、霧のような穏やかな雨・・一言で雨といっても本当にいろいろ。 自然現象と一体化しているような不思議な快感があって、とても楽しい。 ツバメがスイッと目の前をかすめて飛んでいったりすると、思わず振り返って視線で追いかけてしまうくらいに、雨の中を楽しんでいる自分が居た。

怪我のおかげで見つけた雨降りの意外な楽しみ方。 どうしても塞ぎがちな気持ちになっていたので、なんだか得したことを見つけたようで嬉しかった。

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2005.06.15

ラム酒で梅酒

とある方から「ラム酒をベースにして梅酒を漬けたら美味しいでしょうか?」との質問を受けた。 (正直に白状すれば、内心「えっ?何でわざわざそんな勿体無いことを・・?」などと思ったのだが、それぞれのご家庭にはそれぞれの事情があるだろうから、突っ込みはしなかった。)
「梅酒用のブランデーで作った梅酒は飲んだことがありますか?」
「それなら、あります。」
「いかがでした?」
「んー・・あんまり・・」
「あれが嫌いな人なら、ラム酒の梅酒はお勧めできないように思います。」

個人的な感想だが、ラム酒は包容力の少ないお酒だと思っている。 結論から言えば、そのまま飲むのが一番美味しい。 薫り高いし、後味もどことなく甘くて飲み口が良いのは確かだが、何かと合わせようとすると相当相手を選ぶ。 カクテルベースとして使うなら、思いっきりラム酒の割合を高くするか、またはほんのちょっと使うか、極端などちらかにするのが良いように感じている。 これも好みの問題なので、いろいろご意見はあるかと思いますが。

最近チョーヤさんから「黒糖梅酒」が発売され、ビンをよく読むと原料としてラム酒の表示がある。 確かにまったりと甘く間違いなく美味しいお酒だが、これは黒糖とラム酒と梅の味の三位一体のバランスが良いから美味しいのであって、梅の味とラム酒が合っているわけではないと感じた。 実際、私がホワイトラムで梅酒を漬けた時も、「来年も作ろう」とは思わなかった。 何故かラム酒は何年経ってもラム酒のままで、梅の味と一体化した印象が極端に少なかったからである。

ラム酒と梅の味を合わせるならば、梅シロップを作りそれをラム酒と合わせて、カクテルのようにして楽しむのがお勧めだ。 例えばバカルディーのように、きりっとしたタイプのホワイトラムとなら、美味しく楽しめると思う。 ダークラムが相手だと、梅の酸味が際立つ印象で邪魔をする。 ダークラムならコーラで割ってキューバリブレを作り、そこにアクセントとして梅シロップジュースを少し入れると良い。 これははっきり言ってジュースのような出来上がり(個人的にはこの手のものを「おもちゃ味」と呼んでいるが。)だが、間違いなく美味しいし、お酒の苦手な方にも充分楽しんでいただける自信がある。

どうしても梅を漬け込む時にラム酒を使いたいなら、ホワイトリカーに何割か混ぜてみたらどうだろうか? これはまだ試したことがないのでなんとも言えないが、1~2割程度ならそれほど邪魔はしないのではないかと思う。 私の場合はラム酒を持っているとそのまま飲んでしまうので^^;、なかなか試す機会がなさそうだ。 どなたかトライなさったら教えてください。

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2005.06.14

知り合い その2

例えば誰かさんのことを「知り合い」という表現で紹介する時、そこには独特の距離感がある。 「友達」ほど親しくもなく、「仕事関係の人」ほど具体的でもない。 自分からは相手に踏み込んでゆかないけれど、顔と名前は一致していて挨拶や軽い立ち話くらいはする・・そんな距離だろうか。

5月の連休が終わった後で、珍しく友人から電話がかかってきた。 彼女は私が教育実習に行った先の生徒だった人で7歳も年下なのだが、なんだかんだと今でも交流が続いている。
「ねえ、ご主人に元カレだった人を説明する時に、どう言いますぅ?」
彼女が連休にディズニーシーに家族で出かけたら、ばったり昔付き合っていた人に遭遇してしまったらしい。 アトラクションに優先的に乗れるチケットを、家族に先回りして取りに来た元カレが、声を掛けて来たとのこと。 気を利かせた彼女のご主人が、子供ポップコーンを買いに連れ出してくれたので、少しの間立ち話をすることが出来たらしい。 家族の元に戻った彼女に、ご主人は当然「さっきの人、誰?」、と、尋ねた。 その瞬間に彼女はどう説明すべきか言葉に詰まってしまったらしいのだ。

「えっ? 元カレとか昔の彼氏とかって言えば良いんじゃない?」
「ストレートに言っちゃいます?」
「だって他に言い様がないじゃない。 それに今更その相手とどうこうってことも無いんだし・・。」
「主人が嫌な気持ちにならないかな?って考えちゃったんですよね。」
「現にご主人と結婚して子供もいるんだから、そのくらいの事は平気でしょ?」
「ウーン、そうだとは思うんですけど・・。」
「で、なんて説明したわけ?」
「『ちょっとしたお知り合い』って。」
「(笑)それ、余計に怪しくない??」
「そうかなぁ・・」
「だってそれじゃあ、何も具体的になってないじゃん。」
「言われてみれば、そうかも・・」
「私だったら余計に気になっちゃうよ、どこのどんなお知り合いかって。」
「確かに主人も訝しげな顔してたかも・・。」
結局そこでは子供が手に抱えていたポップコーンをこぼすアクシデントが発生し、ご主人による詳しい詮索は回避されたらしい。

元カレだって知り合いには違いないけれど、元カレの奥さんに自分のことを『知り合い』と紹介されたら、私だったらちょっと寂しい。 少なくとも当時は相手のことが好きで、付き合えるくらいに解りあえる仲だったのだから、単なる知り合いとして遠ざけられてしまうのは哀しいし、自分も相手を遠ざけてしまうのは勿体無いようにも思う。 その後の関係の持ちようによっては、かなりお互いのことを理解し合える友達になり得ると思うのだが。 これは単に私が都合が良いだけだろうか?

「お知り合いねぇ・・。」 彼女からの電話を切った後で、しばらく「知り合い」という言葉から受ける冷たい感じについて思いを巡らせていた。

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2005.06.13

知り合い その1

サッカーの日本代表チームが、次回のワールドカップへの出場権を獲得した次の日のことだ。 何気なくつけたテレビで、おそろいの青いユニフォーム姿で応援していたサポーター達が、喜びに興奮している様子が放映されていた。 何人かへの短いインタビューがなされ、顔がアップになった瞬間、「あれっ?この人、知り合いだ!」と、気付く。 誰だったっけ?・・しばしの間考えて思い出した。 中学校でクラスメイトだったW君だ。 間違いない。 「へー、サッカー好きなのか。 熱心なサポーターをやっているんだな、ふーん。」 そんなに親しかった訳でもなく、卒業してからもそれっきりで、残念ながら連絡をとっている仲ではない。 当然お互いがどこでどんな風に生活しているのかも、まったく知る術がない。 でも、確かに知り合いで、顔と名前は一致するし、当時のシャイで寡黙な感じも手に取るように思い出せる。 そんな相手の現在の一瞬を垣間見て、妙に恥ずかしいような不思議な感覚を覚えた。

これだけたくさんのメディアに囲まれていると、予期せぬ瞬間にいきなり知り合いが登場することがあって驚かされる。 知り合いの中には一躍有名になってテレビで見かけない日はないくらいに登場し、挙句の果てに高額納税者の仲間入りを果たしてしまった人もいて、(その人の場合は、知り合いと言うよりももうちょっと近い関係ではあるのだが。)そこまでくると、テレビで見かけたからといってもう驚くこともないが、タレント業や芸能人等プロではない、一般の知り合いの場合は逆にインパクトが強い。

今までで一番びっくりしたのは、「TVチャンピオン」に出場していたH君を見つけた時だ。 正確なタイトルは忘れたが「汗かき王選手権」みたいなもので、要するに大汗をかいたものが勝つという内容。 自分の身体から滴り落ちる汗で、ろうそくの炎を消してゆくという、こちらから見たら超人的な競技をしていた。 そこに小学校の同級生が選手として出ていたのである。 確かに当時からふくよかな体形ではあったが、まさかこんな場面でお目にかかるとは・・と、呆気にとられてしまった。 当然立派な社会人だし、それなりの年齢にもかかわらず、やはり顔つきや喋り方は当時の面影を強く髣髴とさせていた。 応援して良いのか、どんな気持ちで見ていれば良いのか、小さな混乱の内に、結局彼は予選落ちしてしまった。

あるときからスパッと途切れてしまった知り合いとの縁を、再び繋ぎ直そうとも意識しないけれど、例えばふと年賀状が届けられたりしたら、途切れた瞬間にタイムスリップしたように何かを分かち合うこともできるのかも知れない。 そこに踏み込むかどうかは、自分や相手が意識的に選択しているのだろうし、タイミングみたいな物も存在するのだろう。 今まで生きてきて、自分はどれだけたくさんの人と知り合いになったのだろうか。 そう考えると、なんだか不思議な気がする。


ちなみにお知らせが少々。
14日、9時から15時までシステムのメンテナンスにより、この「リーボーですよ!」に、コメントの書き込み・TBの設定などが出来なくなるそうです。 ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。 (最近、あまりに重くて使い勝手が悪いので、何とかなっていただけると良いのですが・・^^;)

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2005.06.12

気にする

おとといに仕込んだ「梅シロップ」、出来上がるまでには3週間近く要する予定だ。 砂糖に触れている梅の実から徐々に脱水が起きて、ビンの底に果汁が溜まり始めている。 当然ながらジワジワと染み出ている訳で、見ている傍から水面が上がってくることはない。 でも、朝起きてビンを覗くと「おっ、よしよし!」と思うくらいに量が増えている。 厨房に行く度に、なんとなくビンを覗き込んだり揺すってみたり・・。 ついつい気になってしまうのだ。

これは、子供の頃に擦り剥いて膝小僧にできたかさぶたを気にして、治りきる前に剥がしてしまっていた感覚に近いか。 大人になってコントロール出来るようになり、実際にいじることはなくなったけれど、心のどこかで気になって仕方ないのだと思う。 「変わっていないものだな」と、自分で笑ってしまう。

しばらく見えない所に隠しておいた方が良いかな・・。

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2005.06.11

なんでもないことに感謝する

大腸で育ったポリープをいくつか除去してもらってきたばかりの『ますたあ』に付き合って、刺激のない、食物繊維の少ない食事を食べている。 いつもの癖で肉や魚を扱うと無意識にペッパーミルに手が伸びるところを、「おっとっと・・」と慌てて戻す。 さほど厳密にする必要はないのだが、こんな機会もあまりないので、それとばかりに楽しんでいる感じに近い。

普段は頻回に利用するきのこ類や海藻類をおあずけにすると、なんとなく彩りが足りないような、材料が一品足りないような、どことなく物足りない印象があって、脇役の大切さを意識させられる。 野菜類も大根や人参、タマネギなど繊維の少ないものを選ぶと、組み合わせに悩んだり、味の変化のバリエーションが減ったりと、普段なにげなく「なんでも食べていること」のありがたさが身に染みる。

おかげさまで今のところ『ますたあ』は、何の変調もきたしていないようなので、明日からは少しずつ普通の食事に戻してゆくつもりだ。 手元にあるのに避けてきたゴボウやヒジキ、自然薯などにも出番が回ることと思う。 持っている素材で、ささっと思うままに作れるということは、ありがたいことなんだな。 感謝しなくては。

梅雨に相応しい雨の一日。 やっぱり雨が降ると膝の調子が格段に悪い。 ・・心情的に認めたくないので「そんなことないやい!」と強がりつつも、「昔、おばちゃんが言っていたのは、こういうことだったのか」と、やっと理解した気持ちにもなり、複雑な気分だ。 こんな風に年取ってゆくんだな・・あーあ。

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2005.06.10

梅雨入りに青梅

予想はしていたものの、伊豆に帰ってきたら雨が降っていた。 車の助手席でラジオから梅雨入りのニュースを、やっぱり・・という気持ちで拾う。 窓をわざと下げて、昨日の夜に何気なく思い出したいくつもの大切な思い出が、なされるがままに再び胸の奥にしまい込まれたことを確認しながら、まとわりつくような湿った風に包まれていた。

地元の月ヶ瀬梅園で梅の実狩りが始まったので、ちょっと遠回りして早速行ってみた。 新鮮な梅が安く手に入り、メモリアでも梅酒や梅シロップジュースの材料として使わせてもらっている。 昨年は不作で仕込みできなかった経緯があり、その上地元に人気が高いから、早めに行かないと良い実がなくなってしまうのだ。 ただし、この状態の足では急斜面の梅の実林を移動したり、自分で実をもぎ取ることは不可能なので、生産者組合の方が予めもいでくれた実を買い取ることに。 自分でもぎ取る実を買うよりもキロ当たり50円高くつくものの、それでも市場の一般価格から比べてこの品質なら充分お釣りが来る。

実が新鮮なうちにと、疲れていたががんばって梅の実を洗い、水分を丁寧に優しく拭き取って、半分は梅酒に、残りは梅シロップを仕込んだ。 ぴちぴちと真っ青にきれいな梅の実。 見るからにたっぷりと果汁が取れそうで楽しみだ。 厨房で梅をいじりながら、もう日常の中にしっかり組み込まれている自分が頼もしくもあり、どこかほんのちょっと時間の無常を寂しくも思い・・。 

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2005.06.08

こんな使い方も?

ちゃんと定期的に駆除しトラップをかけていたって、どうしてもたまにはゴキブリに遭遇する。 以前にも書いたが、この辺りではゴキブリも野生の昆虫の一種だから、普段は庭の枯葉の下などを歩いている。 それが何かのきっかけで屋内に侵入すると、何故か厨房には近付かずに不釣合いなボイラー室などで過ごし、やがて餌も水もないまま干からびてしまう・・まったく何のためにわざわざ入ってきたのか、理解に苦しむ相手ではある。

さて、昨夜お風呂上りに洗面所に行ったら、一匹居た。 まだ幼虫の明るい茶色をした小型のゴキブリ。 はっ!!と敵に気付くとゴキブリは必ず立ち止まる。 こちらもアッ!!と立ち止まる。 双方ともじっと動かずに様子を見ている、妙な一瞬だ。 例えばここで殺虫剤を取りに歩き出せば、必ずゴキブリは逃げて居なくなってしまう。 さて、どうしたものか・・と考えていた次の瞬間、ほぼ反射的にゴキブリの真上から、使っている杖で押さえつけた私が居た。 ここで力を入れて潰してしまったら、決してお互いのためではない・・辛うじてそれだけ考えて、潰れぬように生かさぬように微妙に押さえつける。 ぴくぴくしながらももう前へ進めないゴキブリを粘着テープで絡めとり、処分した。 リノリュ―ムの床は汚れずに済んだが、一応雑巾で拭いておいた。

いきなり真上から押さえつけられて、ゴキブリは逃げる間もなく捕獲されてしまった。 振動を与えずに遠隔操作のように杖を伸ばしたのが、効を奏したのだと思う。 敵もこんなはずではなかったに違いない。 これは「使える手」かも知れない。

しばらくして、杖の先端に滑り止めのために取り付けられている黒いゴムを洗いながら、やはり「使える手」だとしても使いたくは無いな・・と、思い直していた。  

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2005.06.07

低調な日のメニュー

別に何があったわけでもなく、昨日からやる気が出ない。 かと言って落ち込んでいるわけでもなく、単に低調なレベル。 女性の体特有のリズムによるものかとも思うので、低調さにも逆らわずにあるがままでいる。

低調な時は食事のメニュー立てが面倒くさく感じられる。 非常に保守的且つ伝統的な、オーソドックスな献立になりがち。 きっとその辺りのメニューは「深く考えなくても思い付く」し、その位に血に染み込んでいるということなのだろう。 日本人だなあ・・などとしみじみ感じ入ってしまうのも、そういったメニューが並んだ食卓でのことが多い気がする。

冷蔵庫の中身を思い出しながら、ぼんやりと何を作ろうか思い描いてみた・・焼いた魚に煮物・菜っ葉のお浸し・ご飯・味噌汁、典型的な日本の食卓になりそうだ。 このままもうしばらくボンヤリ加減を楽しませてもらうことにしたい。

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2005.06.05

すっぽ抜け

外食は嫌いではない。 美味しくてもそうでもなくても、他の人が作ってくれた食事はそれだけで基本的に「美味しい」し、必ず自分が作るのとは違った部分があるので、感心したり楽しんだり勉強になったりする。

外食をする際どんなメニューを選ぶかは、当然その時の気分やお腹の空き具合、体調や一緒に食事をする相手によっても異なるが、無意識に「普段から自分で作って食べているもの」は選ばないことが多いようだ。 その結果、非常に一般的なメニューを外食で食べたことがないという、妙な構図が出来上がっていることに、最近ようやく気付いた。

事の発端は「親子丼」である。 ある日の昼食に食べていたら、『ますたあ』に「リーボーの親子丼は美味しいけど、普通の親子丼とは違うよね」、と、言われた。 私は当然ながら自分の作る親子丼が普通の冴えたる物だと思っていたから、正直びっくりした。 「普通の親子丼って、どんなの?」、慌てて尋ねる。 『ますたあ』は一生懸命説明してくれているのだが、なんだかピンと来ない。 首を傾げていると、「外で親子丼食べると、自分で作るのと違うって思わない?」、と、尋ねられてはっとした。 「・・私、外で親子丼食べたことが無いかも・・」 「えー??それは珍しい人だよ!」 そこから付随していろいろ思い出してみると、実は外食では食べたことの無いメニューが非常に多いことが判明した。 それも、メニューとしてはかなり一般的なものばかりである。 例えば「豚肉の生姜焼き」 「野菜炒め」 「オムライス」 「クリームシチュー」などなど。

「要するに、オヤジ的なランチ定食の外食経験が、すっぽり抜け落ちているという事だね」、と、『ますたあ』は言う。 指摘されれば確かにそんな気もするのだが・・。

昨夜、某料理番組で「ポーク・ジンジャー」を作っているのを見た。 私はその番組を見るまで、「ポーク・ジンジャー」イコール「豚肉の生姜焼き」だと思っていたのだが、実際は大違いのようだ。 「豚肉の生姜焼き」は薄切り肉で作られることが多く、お箸で食べるような和食の分類で、「ポーク・ジンジャー」のほうは厚切りまたはやや厚切りのしっかりしたロース肉を使い、バターもたっぷり使って洋食屋さんで提供されるものらしい。

どうやら私は、今までとはもうちょっと違うアプローチで外食経験を積む必要がありそうだ。

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2005.06.04

分速10メートル以下?

毎日のトレーニングによって膝の可動域は確かに広がりつつあるものの、日常生活においてはまだ、膝が曲がらないように固定するプロテクターをはずさないように指示されているので、歩く様子にさほどの進歩は無い。 杖を使いながらヨチヨチ移動しているし、階段や段差は半歩ずつ進む。 元来さっさと足早に行動するタイプなので(だからこそ怪我したとも言えるのだが。^^;)、思うような速さで物事が進まないストレスには、未だに慣れることができずにいる。 こういう性格なのだから、ある意味においては仕方が無い。

お昼前に雨の晴れ間を見計らって、卓上花に使う素材を集めるために庭に出た。 この時期はほとんど雑草と化している野生の植物に、小さな可愛らしい花が咲くので、適当に見繕って一輪挿しなどにちょいと挿し、館内に飾っている。 観賞用に育てられた花屋さんの花とはまた違った「飾らない素朴さ」があって、お客様方も歓迎してくださっている。(みたいだ。)

庭は砂利若しくは土、一部簡易舗装状態なので、凹凸があるしバランスを崩しやすい。 しかも、傾斜も多いので転ばないように注意しながら進む。 普段は5分もあれば花を集めて戻ってくる所を、えらく時間を費やしてしまう・・予想はしていたものの効率の悪さにちょっとイライラしていた時、歩道に覆い被さるように伸びている木の枝からウグイスが鳴いた。

頭の真上、ほんの1メートルも無いような所から、朗々と見事な鳴き声が響いてくる。 こちらがゆっくり歩を進めても、飛び立つ気配すら見せずに鳴き続けている。 よく耳を澄ませば他の野鳥たちも、さほど距離の無い場所で鳴いたり、何かをついばんだり、それぞれの時間を過ごしている。 私が歩いていたって何のお構いも無しだし、警戒する時の鳴き方に変えたり逃げ去ることも無い。 「なるほどね」と気付いてそういう目で見れば、大きなアゲハチョウもクマンバチも私を恐れて慌てて避けること無く、マイペースの軌道で飛んで行く。 おまけに杖を握る拳に蚊がとまって、歩いても離れない。 これには苦笑し、手で追い払ったが。

つまり、このくらいの速度ならば、野生の小さな生き物たちの時計と同調できるということなのだろう。 私の存在を脅威と感じさせずに済むのだろう。 普段と違う視点を教わったような気がした。

人間の時計は勝手に早くなり過ぎたのかも知れない。

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2005.06.03

大胆に、繊細に。

よく「(料理を)たくさんまとめて作ると美味しくなる」と言われる。 果たして本当にその通りなのかを、頭の片隅で昔からずっと考え続けている。 確かにそういうものもある。 お米を炊くとき、筑前煮に代表されるような純和風の煮物を作るとき、カレーやシチュウを作るとき、コンソメやブイヨン、フュメなどを引くとき、そしてインスタントコーヒーでさえも人数分まとめて作ると香りが全然違う。

ところが、ある量を超えるとその効果が一気に無くなる。 例えばサラダをドレッシングで和えるとき、どうも美味しくできるのは4人分くらいまでだと思うし、炒めご飯や紅茶の抽出は2人分までか? オムレツに至っては一人前ずつが原則だし・・。 器の容量と中身の量との兼ね合いかとも思っていろいろ試してみるが、どうもそれだけでは説明できない何かが存在しているみたいだ。 つまり、料理によって美味しくなる量はほぼ決まっているような気さえする。

繊細に加減を調節しながら作る料理では、どうしたって一度に作ることのできる量は限られる。 逆にたくさんの量を一気に作ることによって、素材からの旨みが集まってお互いを引き立てることもある。 パーティー料理に向くか向かないかは、そんなところで決まってくる場合もあるだろう。

繊細さと大胆さの使い分け、とでも表現すれば良いのだろうか。 料理もどこか人間関係に似ているのかも知れない。 人間が作っているのだから、当たり前かな。


 

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2005.06.02

物相(もっそう)

物相などと書かれても、ご存知無い方のほうが多いかもしれない。 和食の調理人が使う「ご飯抜きの型」のことだ。 会席料理や洒落たお弁当などをいただくと、ご飯や混ぜ寿司が10センチ程度の梅や桜などの形に抜いてあることがある。 あれを作るときに利用する。 私が持っているのは扇の型。 結婚して一年経った頃にちょうど叔母に会う機会があり、何かプレゼントしてあげると言われたのでリクエストした。 何種類も持っていたってそんなに使う物ではないから、どんなシーズンでも使える型にしておくのが無難だろう、という話になり、一般的な花型ではなく扇型にした記憶がある。

型で抜いたご飯ものは、普通に盛り付けるのとはまた違う美味しさを持つ気がする。 例えばオムレツの下になるケチャップライスやチキンライス、押し寿司など、キュッと締まった感じが美味しい。 ご飯茶碗にふわっと盛り付けるのとは、別の種類のご飯と呼べるくらいに大きな差がある。 抜くのとは違うが、おにぎりも締まっている意味では同様で、「ひと手間かけました」とでも言ったら良いだろうか・・。 洋食でもソースに絡めて食べてもらう意味で、サフランライスなどをプリンカップで抜いて、煮込み料理に付け合せたりする。 あれもまた嬉しいものだ。

たまに予約をした上で昼食を摂りに来てくださる年配の方々などが居られるのだが、「年なもので若い頃のようにはたくさん食べられません」とおっしゃる。 そんな時にいろいろな種類を少しずつ盛り合わせて洋食の懐石料理風に仕立て、ご飯を物相で抜く。 ご飯の量そのものは、コース料理でお皿に盛り付けるのと対して変わらないのに、案外ペロリと平らげてくださることが多く、不思議だ。 印象の違いなのだろう、きっと。

物相なんて持っていないからと言って決して不便するような道具ではないけれど、時々使ってみると「料理の楽しさ」を思い出させてくれるような気がする。 木製ではなくステンレス製を選べば、手入れの心配はほとんど無用だ。 ひとつ1000円もしないので、何かの機会にでもおすすめしたい。

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