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2005.06.17

捧げるということ

以前に勤務していた病院は、キリスト教の信念に基づいて運営されていた歴史のある病院だった。 各セクションの責任者は修道女だったし、神父が毎日入院患者の元へ病棟訪問していた。 だから入院患者にも信者さんが多く、初めの内は慣れない宗教上の習慣に戸惑ったものだ。 もちろん信者でない入院患者もたくさん居られて、カルテにあるパーソナルデータを見なければ、ぱっと見は区別がつかない。 その中で決定的に信者とそうでない人を区別する「ある特徴」に気付いたのは、病棟実習が盛んになる看護学校の2年生になってからだった。

病気になると多くの人は落ち込んだり暗くなったりする。 慢性疾患だったり、残念ながら完治の見込みがなかったりすれば、余計だ。 最も顕著に表れるのは末期癌のような場合で、日々増してゆく苦痛と対峙するための精神力は、もう言葉にできないほどに大変なもの。 そんな時でも信者は妙に明るい。 身体は相当に苦しいはずなのに、また、実際に相当痛いと言いつつも、訝しいほどに明るい。 このギャップは一体何なのか、私はかなり怪しんでいた。 片や信者でない場合は、もう本当に苦痛こそが自分の全てだと全身で表現する。 顔を歪め、うめき、話す余裕すらなく、看護婦や家族に当り散らし、ただただ痛み止めの薬に頼る。 こちらの表現形のほうがよっぽど自然で正直で客観的に納得できるのに、信者の持つあの明るさは一体何なのか、本当に理解不能だったのである。

ある時、たまたま受け持った患者さんが進行した癌で、深くいろいろなお話を聞く機会が与えられた。 その時に私は思い切ってずっと疑問だったことをぶつけてみた。 つまり、「あなたはそんなに大きな苦痛の中で、どうしてそこまで余裕が持てるのか?」ということだ。 その方は間髪を入れず、ストレートに教えてくれた。 「罪もないキリストが十字架にかけられて殺されたのは知っていますね。 それだけの苦しみを神に捧げて、おかげで私達は救われました。 その時のキリストと同じように、私は死に達するまでの苦しみを神に捧げています。 痛みが強ければ強いほど、捧げ物も大きくなる訳です。 つまり、私が苦しむことは神に捧げ物をしているのと一緒ですから、非常に意味があることで、価値があることで、苦しむことで神を賛美しているのです。 神をたたえることは喜びです。 だから身体は苦しくても、気持ちは喜びで満たされています。」 これは当時無宗教だった私にとっても、相当なインパクトだった。 逆転の発想とでも言おうか、起死回生の逆転ホームランを打たれてしまったような気分だったのを覚えている。

さて、今夜は、とある方のお通夜に参列させていただいてきた。 臨済宗のお坊様が読経の後で、その教えについて少し解説をしてくださったのだが、その中で「布施」という言葉が出てきた。 自分にできる形でできる物を、周囲の人に捧げることが、その本意だということであった。 優しい言葉、微笑み、お金、時間、労働、思いやり・・すべてお布施に値するのだという。 宗教は違っても、祈りの形態や言葉は違っても、人間が取るべき行動についての教えは同じであるように思えて、興味深かった。

お亡くなりになった方が入院し苦しんでおられた様子を、断片的にご家族から聞いていたので、ご本人もご家族もさぞや辛かったんだろうな・・と、複雑な思いで通夜に向かったのだったが、ご家族が「本当に辛い思いを通り過ぎた方だけが経験できる、ある意味吹っ切れたような穏やかな表情」をなさっているのを見て、なんだか私もホッとした気持ちになった。 全ての苦しみや辛さを捧げ尽くして、全身全霊で自分の神を賛美して、旅立たれたのだと思った。

家に戻ってから静かにもう一度、亡くなった方とご家族のことを祈りながら、「捧げる」ということの神秘について黙想した。

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