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2006.02.27

オカマのミカさん

友人のサイトに『文庫占い』のリンクが張られていたので、ついクリックしてしまった。 どうやらこの占い、結果の最後に「○○さんの本当のお母さんは・・」という文面が出てくるのがお決まりのようだ。 本当のお母さんというのも妙な話だが、言いたいことは「スピリチュアルなつながりのある方は」ということなのではないかと、勝手に解釈した。 で、私の結果によれば、母は西新宿をさまよいながら私の名を呼んでくれているらしい。 それを読みながら、思わず吹き出してしまった。 西新宿には、若い頃お世話になったバーがあった。

そのバーのママはオカマだった。 とあるレコード会社の方に誘われて訪れたのが最初のこと。 食事の後に「若い女性はオカマバーにはなかなか縁が無いでしょ? そんなに同性愛のアクが強くなくて、気さくなママがいる店だから大丈夫。 連れて行ってあげるよ。」と、いうことになったのだった。(彼が同性愛者だったのかどうかは、解らずじまいだ。) オカマと聞いて、私はママへのご挨拶に、駅の地下街の夜店で小さなバラの花束を作ってもらって(ママの好みについては彼に教えてもらった)、店に行った。 10人も入れば満席になるようなこじんまりしたお店で、決して新しくは無い様子だったけれど、清潔に整えられて居心地の良い空間に見えた。 ママはバラを大変喜んでくれて、彼に「新しいカノジョさん?」と、尋ねながら色っぽくウィンクした。 「いえいえ、社会勉強のご接待を受けている者です。」と、私が慌てて否定すると、「あらぁ、残念ねえ。 たまには良い話も聞かせて頂戴。」と、甘~く言い残してバラを生け始めた。 私は、このなんとも言えない色気を見せてもらっただけでも、この店に来た甲斐があったな、と、内心思ったものだ。 ママは多分当時で35歳くらいだったんじゃないかと記憶している。 バラと同じ色の真っ赤な口紅が、薄暗い店内に鮮やかだった。

私達がカウンターで飲みながら話をしていると、先客だった常連らしい若いサラリーマン風の男性が、会社の愚痴をこぼし始め、やがて深酒も重なって管を巻き始めた。 あまりにくどくどとぼやくのと、私がお酒の席での対応の初心者だったのもあって、やがて私が「いい加減にしてよ。 落ち着いて酔えないじゃない!」と、怒鳴りつけてしまったのだ。 若い男性はろれつの回らない舌で私のことをけなしながら、店を去っていった。 店内の客が私たちだけになり、静けさが訪れた途端、私は強い自責の念に駆られ顔面蒼白になっていたらしい。 私を誘った方が「大丈夫?」と、気遣ってはくれたが、そのまま私はトイレで吐いた。 酔うほどには飲んでいなかったから、精神的なものだろう。 落ち着いてからカウンターに戻って、ママに「ごめんなさい。」と、だけ謝るのが精一杯だった。

ママはにこやかに「あんたが怒鳴りつけてくれなかったら、アタシがぶち切れているところだったわ。 助かったわよ。 さあ、乾杯しましょう!!」と、高い高いブランデーを注いでくれた。 そして、帰り際に言った。「あんた、女だけど気に入ったわ。 またお店に来て頂戴。」

それから、しばらくの間、私は月に何回かそのお店に通い、お酒の飲み方や恋愛のこと、人生の機微、オカマ独特の社会なんかも教えてもらった。 ママの恋は同性愛者だけに滅多に成就することは無い。 しかし、そこにこそ「見返りを求めない本当に純粋な愛」があると、学んだのだった。 だから、私は今でも同性愛者の人を、ある意味において尊敬している部分がある。

何年かの後、バーのあった場所は再開発のために立ち退きを余儀なくされ、店は無くなった。 「もう十分やったから、田舎に戻って少しのんびりするつもり。」、そういって福島に帰って行くママとは、そのままになってしまっている。 恋愛の成就は難しいかもしれないが、どこかで穏やかに暮らしていて欲しいなあ、と、思う。

彼(彼女?)の源氏名は、たしか『ミカさん』だった。 「あの西新宿のオカマバーのママ、ミカさんは、もしかしたらスピリチュアルな母だったのかしら??」、真っ赤な口紅の色を思い出しながら、占いの結果を面白く眺めていた午後だ。 今日はウグイスの初鳴きを聞いた。 ママの所にも素敵な春が来ていると良いのだけれど。  

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2006.02.26

蒸し器

スチーマーと呼ぶよりも、昔ながらに蒸し器と呼んだほうがしっくりくるのは、やはり年齢的なものだろうか。 久しぶりに棚から下ろして使った。 蒸したのは市販品の中華まん。 いつもはラップして電子レンジで「チン!」なのだけれど、何故だかふと、わざわざ蒸し器で蒸したい気分になったのである。

雫だれの防止のために蒸し器本体と蓋の間にかけた布巾の隙間から、ホカホカと湯気が漏れて登る様子を、野菜を切る横目で眺めていた。 湯気って何となく食欲をそそるものだ。 中華街の道に面した店先で、点心を蒸かしているのを見つけると、ふらっと引き寄せられるよな引力を感じるし、イタリアンのオープンキッチンなどでも、厨房のコンロで大きな寸胴鍋から湯気が上がっているのを見ると、それだけで嫌がおうにも期待が高まってしまう。 コンビニでレジ待ちをしている時、たまたま前にいた他のお客さんが中華まんをオーダーして、店員さんがスチーマーの扉を開けた瞬間、もわーっと湯気の上がるのが見えたりすると、自分もあんまんの一個ぐらい食べておかないと損したような気分になるし。 この辺りの温泉饅頭屋さんでも、たとえ『水蒸気を見せる機械』を使っているのがミエミエだとしたって、湯気が上がっているのといないのでは雰囲気がだいぶ違う。 お菓子やパンを焼く時にオーブンから流れ出てくる匂いも大きな魅力だが、湯気は視覚に訴えてくる分だけインパクトが強い感じだ。 特に冬は、温かいイメージと重なって余計に魅力的。

すっかり中心まで温まった中華まんは、蒸気をたっぷり含んでフワフワに膨らんでいた。 皮が乾燥することも無くつやつやの仕上がりで見るからに美味しそうだったし、実際食べてみても電子レンジで温めるより、格段に美味しかったように思う。 そう言えば鶏や魚も蒸すと美味しいんだったな、と、大切な事をすっかり忘れていた気持ちになった。 いい機会だしせっかく棚から下ろしたのだから、ちょっと意識的に、蒸し器に働いてもらうメニューにしてみようかと考えている。

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2006.02.24

虫の居所が悪い

低くどんよりした雲の中に閉じ込められているような日。 とりあえず雪にならなくて、助かった。

CD録音の作業は、機材の向こう側に窓の外を眺める感じで続いている。 ルートサービスの車も通らず、もちろんグランドに人の気配もなく、いつもは賑やかな野鳥たちでさえ、どこかで雨宿りしていると見えて姿が無い。

こんなに広い場所に誰も居ないなんて、なんだか不思議だ。 ここまで徹底して誰も居ないと、通常ではありえないもの、例えば天使とかUFOとかが降りてきそうな気がする。 って、その二つを並列に扱うのは失礼か。 どっちがどっちに? まあいいや。

トリノのオリンピックも、国会で騒がれたメール事件も、もうどうでもよくなってしまった。 このけだるさはなんだろうと思う。 お金優先の価値観、汚職、誹謗中傷の数々、恋愛とセックス・・人間なんてずっと昔から何も変わってはいないのだ、きっと。 日常の中で使う道具が時代によって変化しても、それを使いこなす人間が同じだから、問題の根本は何も解決されない。 宗教観の違いで未だに殺し合いをしているような人間が、莫大なエネルギーを持った「情報網」なんか、安全に使いこなせるわけがないじゃないか。 時代の中で思い出してみたらいい。 汽車だって自動車だって、電話だってPCだって、そしてインターネットだって、一部の知識とお金のある人々だけにしか使えない状況にある内は、滅多に問題なんて起こらない。 自分たちにしか使えないことへの自負や誇り、責任やプライドがあるから、事故を起こさない自浄作用が働く。 ところが、それが末端に広がってみんながみんな使い出す様になると、必ず問題が露出してくる。 同じ割合で事故が起こるとしたら、母体数が増えれば増えるほどに、事故の件数も多くなる。 同じ割合で無責任な人がいたら・・。 当然のことだし、な。

あんまりいろいろなものを否定すると、生きるのが辛くなるので、ある程度のところで「おバカなふり」をするのが正解なんだろうけれど、こんな静かな日には、ついつい愚痴りたくなってしまう。 今日は虫の居所が悪いか?、私。   

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2006.02.23

実食

義父の入院しているリハビリ病院の売店で、「天狗のおでん缶」を見つけた顛末は、過日に書いた。 で、やはりどうしても気になってついに買ってしまったので、後日談としてご報告させていただこうと思う。

ネットでの情報では一番人気とされる、「牛すじ入り」を狙っていたが売り切れで、しかも、「大根入り」も「さっき売れちゃったんですよー。」と、言われ、残っていた「つみれ入り」を購入。 そのまま家に持ち帰ってきた。 夕食のおかずと一緒に食卓に並べる事にしたが、ここで缶の中身を器にあけて電子レンジで温めたのでは、すっかり興ざめだろうと考えて、わざわざ小鍋に湯を沸かし、時間をかけて湯煎して温める。 「何やってんだ、あたし??」という声が頭の中で聞こえた気がしたものの・・やっぱり、「おでん缶」は缶のまま食べてあげないと、ね。 本当は立ち食いしてあげても良い位だが、家の中で立って食べるのもあまりにマヌケなので、それは断念した。 ほんわかと温まった缶を食卓でパッカンと開けて、『ますたあ』と二人で覗き込む。 前評判通り、沈まないようにコンニャクに刺してある竹串を目の前にして「おおっ!」と感動。 気分はすっかり田舎者だ。

味は、想像していたよりも美味しかった。 チクワが煮込まれすぎですっかりふやけてしまい、ふにゃふにゃに情けなかったことを除けば、良く出来たおでんそのものだ。 まあ、缶詰だから仕方ないだろう。 もし、天災か何かで避難場所に寝泊りしていた時に、この「おでん缶」とおにぎりが配られたなら、私はそれだけで幸せになれると、そんなことを想像しながら、美味しくいただいた。 ダシもしっかりしていたし、塩味が濃すぎることも無い。 携帯性を備えている事を思えば、一缶210円は決して高くない値段という結論に。 自分の家の災害備蓄のために、いくつか手元に置いておいても良いかも知れない。

これで悔やまれる事も残っていないので、いつ春になっても満足だ。 ああ、なんて単純なこと・・とほほ。

 

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2006.02.22

Back to 80’s

LPを保管していた箱の片隅から、ビデオテープが2本出てきた。 インデックスを読むと、どちらも1982年にテレビで放映された番組をSonyのBeta hi-fiで録画したものだ。 録画した直後は何度か再生したのだろうと思うが、とりあえずここ15年間は、完全に放置されていたはずで、箱の中に保管されていたとはいえ、表面には埃が膜を作っている。

果たして再生が可能なのか、恐る恐る老体のBetaのビデオデッキに入れて、再生開始。 すると、予想を裏切って、とても良好な状態の画像がモニターに映し出されてきた。 「すばらしい! さすがはベータマックス!!」と、感激して、思わずそのまま見入る。

番組そのものの懐かしさもさることながら、使われている電話機やオフィスの様子、着ている洋服のデザインやブランド、町並みの様子、走っている車、写されている全てが時の流れを感じさせるものばかり。 番組の中に挟まっているCMも、またスゴイ。 ちょうどパーソナル・コンピューターを売り出し始めた時期らしく、「PCを使えばこんなことも、あんなことも出来ます。 ほら、すごいでしょ?! あなたもいかがですか?」みたいな切り口で、見るからに古ーい感じのPCのコマーシャルが続く。

25年近い昔の映像。 四半世紀前のもの。 毎日少しずつ変わってゆく中に生活していると、何も感じないくせに、昔の時点をポンと見せられると、こんなに変わったのか、と、愕然とする。 こうして夜中にPCでブログに書き込んでいる姿を、25年前の私が想像している筈も無いだろう。 本当に不思議なものである。

あっという間に90分の再生は終わってしまった。 今普通に流れているテレビ番組も録画しておいたら、25年後に見た時には、すごく興味深いものとなっているのかも知れないな、と、そんなことを考えた。 もう一本残されているビデオテープは、教育テレビで流された当時の学生の座談会・討論会のような番組を録画したものだ。 そちらからは、ものの考え方とか、若者の価値観とか、会話に使っている日本語とか、そんなものを見て取れるのではないかと、楽しみに期待している。

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2006.02.21

広いような、狭いような。

すっかり春めいてきた、なんて気を抜いていたら、冷たい雨が降り続き、今日だって立派に寒い。 昨夜は思わず「寄せ鍋」を作ってしまったり、一度しまい込んだ湯たんぽを引きずり出してきたり、すっかり冬に逆戻り。 庭のフキノトウも冷え冷えと見える。

数ヶ月前に何気なく見つけた、西麻布のタロットバー「Rosy」のママさんが書いておられるブログを、自分の「お気に入り」に入れてチェックしていた。 マメに更新しておられるし、タロットワークに対する姿勢や、取り上げられているちょっとした日常の光景が、何となく以前のメモリアのバーカウンターと共通するものがあって、勝手に且つ一方的に新しい友達を見つけたような気分になっていたのだ。 当然まだお店に伺ったこともないし、ママさんにお目にかかったことも無い。 でも、東京の中心部だし、いつかは機会があるかもな・・そのくらいの気持ちだった。

ところが、である。 先日そのブログに「友人が来店」という内容があって、なんとそれは、私のお知り合いであるNさんのことだったので、ひどくビックリ!! 「なんでなんで?? どういうご関係で?」、と、声に出した挙句、横に居た『ますたあ』に何が起きたのかと突っ込まれる始末。 慌ててNさんにメールしてみると、どうやらバーのママさんとNさんの間にも、『並々ならぬ偶然』がたくさん重なっているらしく、聞けば聞くほどビックリなのだ。

メモリアのバーカウンターでも、お話を伺ううちにとんでもない繋がりが見つかって、驚かされることが多かったが、どうやら「Rosy」でも全く同様なことが起きているらしい。 一人の人間が一生の内に知り合う人の人数がどのくらいになるのか、そこから統計学的に導き出して、知り合いを辿ってゆくと数名を介しただけで特定の人物に繋がる、という社会学者の実験結果を見たことがあるけれど、まさに、世の中は案外狭いものなのかもしれないと思う。 かと思えば、自分がきっと全く知らないまま一生を終えるような仕事や世界も、必ず存在しているのだろうし、広すぎて得体も知れぬように思えることもあるし。 本当に不思議だ。 逆もまた真なり、とは、こういうことを指すか。

個人的には運命があるのか無いのか解らないので、否定も肯定もしていなくて、「あっても不思議じゃないな」ぐらいの考えなのだけれど、偶然を必然にするのもしないのも、結局は自分次第なのだと思う。 で、私は春になったら、是非一度「Rosy」に行ってみたいと目論んでいる。 偶然の糸を手繰り寄せてみるのも面白いではないか、そんな気持ちで。
 

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2006.02.19

高菜漬から漬物談義

過日に高菜漬の大きなパックを買った。 我が家では毎日漬物を食べる習慣が無いので、他所のお宅に比べても、多分漬物の出番が少ない。 実は高菜漬を買う際も、「こんなにあっても困るか?」、と、正直かなり迷ったのだが、高菜はあまり見かけないことと、漬物の中ではそのまま食べる以外にも活用しやすい事もあって、「エーイ、買っちゃえ!」、と、なったのである。

で、そのまま漬物として食べる分を小分けにキープし、その外は積極的に料理の素材として楽しんでいる。 豚肉と一緒に高菜炒め、お昼ごはんに高菜チャーハン、細かく刻んでからマヨネーズベースに混ぜてタルタルソース風、白身魚の上に乗せて翁焼き風・・気がつけば結構楽しんで使っている。 おかげで余ることを心配せずに済みそうな勢いだ。

キムチブーム以来、漬物を料理に活用する機会が世の中に増えてきた気もする。 良く出来たキムチチゲや、キムチビビンバの美味しさは、わざわざここで触れる必要も無いほど日本人にとってもご馳走。 唐辛子の辛さを強調する・しないの差はあっても、古漬けをつかって冬の野菜不足に対応していた雪国の生活文化と、全く内容は同じである。

私がまだ幼かった頃、実家の母は毎年、庭の物置小屋の片隅で白菜漬を作っていた。 今でこそ信じられないような気持ちだが、まだ東京でもそんな時代だったのである。 仕込みの日は子供ながらに半干した白菜に昆布を挟んだり、塩を振ったり、毎年恒例行事のように楽しんでいた。 浅漬ならサラダ感覚だし、寒さが厳しくなるにつれて熟成して塩味も馴染んでくる。 甘いものが多いお茶菓子の隣に白菜漬の小鉢が並んだり、ご近所の頂き物のお返しにちょっと配ったり。 ビニール袋に4つ割の白菜漬を入れて、一緒に漬け込んだ昆布や唐辛子も入れて、口をゴムでぎゅっと縛ったその姿は、私にとっては「おつかい」の象徴で、幼少時代を代表する画像のひとつだ。 やがて、春の足音が聞こえ始める頃には、乳酸発酵も進んで酸っぱくなってきて、色もだんだんあめ色に濃さを増す。 こうなったら、待ってましたとばかりに炒め物や煮物、鍋物に使い始める。 シンプルな寄せ鍋などでは、白菜漬を入れるのと入れないのとでは大違いで、一気に味に深みや旨味が増すので、生の白菜とは別に、わざわざ漬けた白菜も入れていた。 鍋全体がまとまるというか、他の具材の美味しさを引き出すというか、そんな役割があったのかと思われる。

漬物は身近な存在で、活用価値も広く、発酵食品として日本人の健康を支えていたのだろう。 塩分の過剰摂取が問題にされてから、すっかり主役の場を退いてしまった感があるけれど、上手に使えばとても魅力的な食品であることに間違いはない。

私が成長して中学生になる頃から、母は白菜漬を作らなくなった。 仕込みの手間が面倒くさいのも然ることながら、真冬でもカビが付いたり、小バエが来たりして、管理が思うように出来なくなっていったことが、どうやら背景にあるようだった。 今になって思うと、その頃が、まさに東京のヒートアイランド現象や、地球温暖化の始まりだったようにも思えるのである。

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2006.02.17

只者ではないとお見受けした

ある日、眼科にかかって帰宅した『ますたあ』が、「今度リーボーにも見せたい人を見つけた」と、言った。 「会わせたい」のではなく「見せたい」とは?と、話を聞いてみたら、小さな調剤薬局のオヤジが独特の雰囲気を醸し出しているらしい。 「一度見てみる価値がある」とまで言う。 ならば是非とばかりに、二人で出かけた日に点眼薬を受け取りに行くことにして、私も店内に入ってみた。

よくある調剤薬局で、小さな待合室の向こうにガラス張りの調剤室。 その向こうでは白衣姿の若い薬剤師さん数名が、手際よく作業をしているのが見える。 入り口の真正面には、患者に薬を渡したり、説明したり、代金を受け渡しする低いカウンターがあって、そこに噂の人が座っていた。 見た途端に「『ますたあ』が言っていたのは、この人だな!」と、疑いようも無いすごいインパクトである。

何がすごいって、多分70を越えているような痩せ型の男性、端的に言えばおじいさんなのだけれど、白髪の髪を肩まで伸ばし、白衣を着て、眼光鋭く店内を見渡している感じ。 威圧感とまではいかないながら、「自分には自分の世界があります」みたいな圧倒的な存在感を放っている。 長髪だが不潔ではなく、薬剤師さんらしい雰囲気だと言えなくも無い。 背筋をまっすぐ伸ばして、椅子をカウンターに対して斜めに置いて、片方の腕をカウンターに乗せ、まるで、バーカウンターと勘違いしているような座り方。 全体から受ける印象は、古くから漢方薬局を営んでいるオヤジだ。 やった人にしか解らない書き方をすると、『ハッピー・ホテル』という名前のホテル経営シミュレーションゲームに登場する、上海の市場の漢方薬屋の主人に瓜二つである。

とにかく、何も知らない人がドアを開けた途端、正面にその人を見つけたら、思わず帰ってしまうかも知らない、と、私は本気で心配した。 しかも、店内のテレビモニターには謎めいた環境ビデオが流され、手書きのポップ(例えば『足がつって眠れない方、ご相談ください』とか『冷え性には○○』とか。)も、上手いとはいえないが毛筆の肉筆。 新築の薬局にありがちな、明るいクリーム色の壁紙や採光も十分な店内のイメージとは逆行するような、なんとも言えない違和感・・。 思わずキョロキョロしてしまって、落ち着かない。

そんなこんなで、期待を裏切らない噂どおりの人で、『ますたあ』と私の間では、ちょっとした有名人に成り上がってしまっていた。

ところが、先日またその薬局に薬を取りに行った『ますたあ』が、なんと、彼の指定席であるカウンターの奥に、フォークギターを発見して帰ってきた。 「あそこに置くってことは、アノ人が弾くんだよね、きっと・・?!」 私の頭の中では、例の長髪のおじいさんが、サイケデリックな色使いの服を着て、バンダナをはちまきのように巻き、フォークギターを抱えて歌う様子が浮かんでくる。 まるで、アイフルで「間違えた~♪」といっている彼のように。 

「レゲエとか似合いそうではあるけれど。」
「ジャマイカで朝からラム酒飲んで、歌ったり踊ったり・・ちょっと『いっちゃってる感じ』??」
「でも、あの年齢だとフォークソングだよね、きっと。」
「歌声喫茶系か。」 
「薬局の待合室で、お年寄りがみんなで歌ってたら怖いかも。」
「昼休みとかに、やってるのかな?」
「若い薬剤師さん達、聞かされちゃってたり?」
想像は果てなく・・。

あの風貌といい、フォークギターといい、きっと只者ではないとお見受けしているのだが。 さてどうやって確かめれば良いか? 直接尋ねるほどの勇気もまだ無く、困っている。 

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2006.02.16

タイミングが悪かった

髪、切ってきたんですけどね。

ええ、伸びまくってしまって、ずっと気になっていたもので。
花粉が飛び散る前に、なんて思ってて。
やっと行けたんですよ。

そうしたら、この寒さじゃないですか。
朝から雨だし、出かけたらどしゃ降りになっちゃって。
帰ってくる頃には、風も吹いちゃって大荒れで。
ジーンズも濡れちゃうし、霧で体中しっとりしちゃうし。

寒くって、ホント、遭難するかと思いましたよ。
・・って、大袈裟すぎました。

夕飯にあったかーいクリームシチュー食べたら、だいぶ落ち着いたんですけど。
今、ニット帽かぶってます。
なんだか頭がスースーしちゃって。
帽子ってこんなにあったかいものだったんですね。
知らなかった。

これからゆっくりお風呂であったまろうと思います。
みなさんもどうか風邪に気をつけてください。

じゃあ、また。 リーボーでした。

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2006.02.15

おからを炊く

たまに思い出して食べたくなるものの代表選手が、私にとっては「おから」だ。 少し甘さを強めた味でじっくりと煮ると言うか、炒ると言うべきか。

おから自体は大変安く手に入るものだが(産業廃棄物扱いで揺れた裁判もあったっけ)、一緒に合わせる具材はダシが出るものをたっぷり使わないと美味しくならないので、結果としてそこそこの材料費がかかってしまう。 しかも、なるべくたくさんの種類の具材と合わせるのがポイントのようで、庶民的なイメージとは裏腹に、実はなかなか贅沢なおかずだ。

実家の母の作るおからには、決まってアサリの剥き身が入っていた。 手に入らない時はアサリの水煮缶を使うこともあったものの、とにかく「おからにはアサリ」だった記憶がある。 結婚してから、自分でもいろいろ実験してみると、アサリでなくてもホタテとか海老やイカとか「海系のもの」、それも俗にシーフードと呼ばれるような素材とは相性が良いみたいで、冷凍庫に余らせていたシーフード・ミックスなど入れると、格段に美味しくなる。 これは具材を細かく切る手間も省けるので一石二鳥。

最近ではマーケットの惣菜コーナーでも、食べきるくらいの量でパックに詰めたおからが売られている。 伊豆に来てから何回か市販品を利用したことがあったのだが、何か自分が作るのとは違う香りがして、「これは何を入れているのか?」と、ずっと疑問に思っていた。 昨日、買い物に出かけた時に生のおからを買ったのだが、私のすぐ後ろでやはりおからを買っていたオバサンが、一緒に買い物していた人と「おからだから、サバも買わなきゃね。」と、会話しているのに遭遇。 ん?おからにサバ?・・そーっと後をつけて行ったら、缶詰のサバの水煮に手を伸ばしていた。 騙されたと思って、私も一缶買ってきて早速トライ。 結果、「この辺りでよく遭遇する味」に仕上がって、長年の謎がひとつ解決された。

水煮のサバは汁ごと加え、他の具材やダシと合わせていつもの味付けに。 しゃもじでかき混ぜているうちに、サバの原型はすっかり消滅して、おからと一体化してしまう。 渾然一体となる気合の入った仕事っぷりが潔い。 なかなかこれも美味しかった。

ちくわやかまぼこ、ねぎ、人参に椎茸・・いろいろ贅沢に使って丁寧に煮上げてゆくのも、幸せなひと手間なのではないか。 市販品も便利だけど、たまにはいかがです?


山下達郎氏のアルバムをCDに落としていたら、B面最初の反戦歌で、苛立ちをぶつけられたように録音レベルが思いっきり振り切れた。 ぼーっと聴き入っていた中での思わぬ出来事に、なんだかハッとさせられた。 季節外れの暖かさ。 生ぬるい風が日々の生活に重ね合わされて、憂鬱な気分を運んできた。

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2006.02.13

勝ち負け

日曜日の午後は、テレビでスポーツ観戦をしていた。 と、言ってもトリノのオリンピックではない。 ラグビーの日本選手権の2回戦だ。 トヨタ自動車と早稲田大学の試合。 学生王者となった早稲田大学が、社会人トップリーグの第4位となったトヨタ自動車に、どのように挑むのかが注目されていた。 何せこの18年間は学生チームが社会人チームに勝てていない事もあって、また、今期の早稲田の『佐々木組』が完成度の高いチームに成長した事もあって、社会の関心も強く、秩父宮ラグビー場の観衆の大半は、早稲田大学を応援していたのではないかと思われるほどの大歓声に包まれていた。 ラグビーの試合でこんなに盛り上がるのも、かなり珍しいのではないかと思う。

私はたまにスポーツ観戦をするが、特定の人やチームを応援している事は稀で、そのほとんどは「流れ」や「経過」といったプロセスを楽しんでいる。 しかしながら、グランド上の選手たちが、こんなに勝敗に拘っている試合を見せてもらったこと自体が、とてもとても珍しいように感じられて、なにか胸の奥でグッと来るものがあった。 最後の10分間など、壮絶の二文字が相応しいような試合だったし、「スポーツたるもの、こうあるべき!」とでも表現すべき印象だった。

結果は僅差で早稲田大学が勝って、また日曜日、今度は3回戦で名門東芝府中との試合に進むことが決まった。 トヨタ自動車の外国人助っ人選手が、早稲田の選手に思いっきりパンチを食らわせた挙句シンビン(イエローカードで10分間の退場処分)を喰らっていたことだけが、爽やかな気分に水を差していたけれど、そうして発散しなければやりきれないほどに、助っ人選手をイラつかせていた早稲田陣の名誉と考えられなくも無く、まあご愛嬌という事にしておきたい。

日本選手権はシーズン最終を飾る大舞台であり、特に4回生を有する大学生チームにとっては、そのチームとしての最後の試合だ。 その上、監督を務めていた今やカリスマ的存在の清宮克幸氏が今期限りで退任することもあって、まさしく後が無い状況である。 そのことがより結束を強め、勝つ事に繋がっていったのだと思う。

「勝たなければいけない試合」とは良く耳にするフレーズながら、「勝たなければいけない試合で勝つとは、まさにこのような状況を指すのか!」と、抱き合って喜ぶ早稲田大学の面々を見ながら思っていた。

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2006.02.11

Bitterish

溜まっていたLP盤をCDに落とし込む作業は、そこそこ順調に進んでいる。 家事が一段落する午後の時間を利用して、一日3枚ペースで片付けてゆく。 デジタル信号を記録しているはずなのに、買ってくるCD-Rによって出来上がりの音にもの凄い差が生じるのは、どうも納得ができないのだけれども。

LPを買っていた時代は、一枚新譜を買うとその月のお小遣いがほとんど費やされてしまうような状況だったから、本当に欲しいものしか買えなかった。 なので、買ってくるとまずカセットテープに録音して、それを大事に聴き込んでいるものばかりで、おかげで今でも暗譜で口ずさめるものがほとんどである。 鼻歌交じりでのゴキゲン作業だ。 一方、「うわっ、ここのベースラインはこんな風になっていたのか?!」とか、『このピアノのフレーズ、かっこいいなあ』と、誰がバックで弾いているのかクレジットを読み直して、「え?松任谷正隆さん?!」なんてびっくり仰天したり・・当初予測されたとおりに、感性の一部が全開になって気持ちの上ではなかなか忙しい。

そんな状況下に身を沈めているうちに、心の奥で何かを思い出したような気分になってきている。 ・・・これらの曲を聴いていた頃は、ずいぶんと『尖がった生き方』を選んでいたように思う。 自分にも厳しかったし、他人にも多くを求めた。 何事にも気を抜くのが嫌で、ぎらぎらした眼をしていたかも知れない。 近くに居た男性には強い女と見えただろう。 一言で若かったから、と、要約することもできるだろうし、自分が弱い分だけ突っ張っていたんだ、というのも正しいはずだ。 その時代から20と数年余りを経て、いつの間にかずいぶん角が取れてしまった。 余裕ができたのかも知れない。 包容力とか総合力が身について、視野が広がったのかも知れない。 甘える技術を学んだのかもしれない。 それはきっと否定すべきことじゃなくて、人間としては正しい経年的変化なのだと思うのだけれども、あの頃の『尖がった感じ』をもう一度自分に使えないか、とも、思う。 どちらも経験した上で、もう一度エッジを立てたら、この先にもう少し進めそうな気がする。 この10年間が『優しい私』だったとすれば、ここらでまた『尖がった私』になってみたくなった、そんな感じかも知れないのだが。 これは、単に無いものねだりと呼ばれる、終わりの無いサイクルなのであろうか・・??

庭の片隅についにフキノトウが2個、顔を出した。 早速収穫して田楽味噌に混ぜて、フキ味噌に仕立てる。 水彩絵の具の「きみどり」と「しろ」を3対1で混ぜ合わせたような柔らかな淡い色とは対照的に、苦味も香りも立派に自己主張しており、何気なく味見した私の方が「はっ!」とさせられる始末。

晩酌に何となく選んだギルビー社のジン。 間違えてトリプルセックを注いできたかと思うような甘い柑橘系の香りと、びりびりするような辛さ。 いつも飲んでいるゴードン社のとは全く違う、この裏切られる感じがやけに楽しい。

全く違う事柄から、心にも味覚にもたくさんの苦味を抽出して感じ取っている私。 なんだか不思議な気分だ。 この春からは、自分も「ちょっと苦い感じ」でいってみようかな。 できるのかな?

 

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2006.02.10

こんな所でお目にかかるとは

気分転換でも・・と、入院中の義父の車椅子を押して散歩に出かけた。 そんな遠くまでではなく、せいぜい駐車場や中庭、裏の川沿いの小道だ。 庭の陽だまりには水仙が細い茎をすっと伸ばして、もう花をつけている。 リハビリテーションの専門病院なので、歩行練習を兼ねて散歩する患者さんも多く、段差が無いように道が整備されていたり、そこかしこにベンチが配置されているのもありがたい。

建物の裏側にある通用口から屋内に入ると、すぐに売店だ。 小さな病院だから売店もこじんまりしている。 「何か気が向けば、義父におやつでも。」と、覗き込むと、レジ横に缶飲料用のウォーマーがあって、コーヒーやココアやコーンスープなど、おなじみの顔ぶれが並んでいた。 車椅子を正面に向けて、「温かいコーヒーでも飲む?」と、義父に話しかけた時、とんでもないものを見つけてしまった。 「あれ?、この缶は確か・・?!」

そうだ。 紛れも無く、一躍アキバの名物となってしまった『天狗のおでん缶』である。 何でこんな所で売られているのかびっくりして、思わず手に取ってしげしげと。 しかも、ちゃんと3種類揃っているではないか。 色違いの大きめの缶が、コーヒーなどに混じって温められている光景が、やけに新鮮な感じで目に映る。

まあ、本来の『おでん』の立場からすれば、お弁当やご飯の友と同様に病院の売店に並ぶのも自然なことなのだが、こちらとしては『あのアキバのおでん缶』というイメージがあまりにも強烈なわけで、最近は自販機のおでん缶もあっという間に売り切れで、その上量産できないので自販機を増やせない、などという話を聞くと、ますます、こんな山間のマイナーなリハビリ病院に並んでいる姿が、神々しく思われるのであった。

今度面会に行ったら買っちゃおうかな、と、ミーハーな私はついつい目論んでいる。

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2006.02.09

もうすぐバレンタインデー

14日が近いこともあって、世の中は何かとチョコレート絡みの話題が多いようだ。 ラジオから「日本人が一年間に消費するチョコレートの20%は、バレンタインデーのために購入される。」との話を聞き、そりゃ凄いことだな、と、単純に驚く。 寒い時にはチョコレートの甘さが嬉しいから、バレンタインデーをこの時期に設定したことも、それにチョコレートを組み合わせたことも、バッチリのコンビネーションなんだろうな。 誰かに想いを伝えることを差し置いても、この時期のチョコレートはそれだけで十分に嬉しい。

実は思い出してみると、私はバレンタインデーに告白したことが無い。 既に付き合っている状態の相手に、チョコレートをプレゼントした記憶ばかりなのだ。 自分でもちょっと意外な感じがしてよくよく振り返ってみると、クリスマス前をきっかけに親密になることが多くて、2月にはもうステディの関係が成立してしまっている。 だから、相手の趣味や雰囲気を考えてプレゼントを選ぶことばかりで、告白のためのチョコレートは経験が無いのだった。 個人的にはどちらかと言えば、バレンタインデーには「フレンドリーな親密さ」とか、「日頃のありがとう」を伝えるような意味合いで利用していることが多かった。 だから、義理チョコとまではいかないけれど、気軽な感謝の気持ちで、負担にならない程度のチョコを比較的多く配っていたかもしれない。 で、本当の彼氏にはチョコだけではなく、何か別のプレゼントもあげていたような・・。

社会人になって数年経った頃、学生時代からの男友達と飲む機会があり、その席で「バレンタインデーにくれたチョコが、実はとても嬉しくて、それ以来ずっと気になっていたんだ。」などと、言われてしまった時、内心冷や汗をかいた記憶もある。 そういう深い意味ではなかったと、今更ながら弁明するわけにもいかず、ありゃぁ本当に参った。 若い頃は、なかなかその辺りのバランスが難しい時もあるものだ。

女性からチョコレートをもらったこともある。 当然「サンキュー・チョコ」だと思ってありがたく受け取ったら、実らない結果を知ってはいるけれど・・との、本気の熱い熱いラブレターが現れて、対応に困り果てた。 海外有名ブランドの高級チョコレートだったのだが、さすがに手を付けることができなくて家族に食べてもらった。 どういうわけか、チョコをもらった私のほうも、ひどく落ち込んだのを覚えている。 ・・彼女は今頃、どうしていることやら・・??

『ますたあ』は甘い物好きで有名だが、バレンタインデーにはガールフレンド達に、「義理チョコでいいから、大きいのをちょうだい!」と、リクエストしていたそうである。 結果、笑えるほどの大きな板チョコをもらったり、定規型をしていて何センチ食べたか判るように目盛りがついているものなど、十分にチョコレートを満喫できていたらしい。 びっくりするやら、呆れるやら、「そういう手もあるのか・・」と、笑ってしまった。 バレンタインデーのチョコレートは、甘いものが好きな男性にとっては、この上ない習慣だろう。

それぞれに、それぞれの意味のチョコレート。 平和な感じがして、いいんじゃないだろうか。

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2006.02.08

梅便り

買出しで足を伸ばし、大仁(おおひと)の町へ。 

駐車場に車を置いて、銀行や本屋などに立ち寄りながら歩いていたら、ちょっとした商店街の電柱にひとつずつ、30センチほどに筒切りにされた青竹が無造作に括りつけられている。 何かと思ってよく見たら、その青竹を器にして梅の枝が生けられており、小さな蕾が膨らんでいた。 白梅、紅梅、八重のもの・・いろいろだ。 今日は冷たい北風が強く吹いていたが、梅の枝の周りにだけぽっかりと春の空気が漂っているようで、ふいに心が和んだ。 商店街にはポスターが貼られており、来週には地域で梅祭りが行われるらしい。 みんなで春を待っているような、不思議な連帯感を微笑ましく感じる。

お菓子屋さんの店先には「うぐいす餅」の手書きの文字。 お習字の見本のように半紙に墨で書かれて、ポップも色使いも無い力強い文字。 その飾り気の無い無骨さが、職人技を象徴しているようにも思われて、内心「うーん」と唸る。 和菓子も文字も、春を呼び込んでいるみたいだ。

車に戻る途中では、小さな陽だまりに紅梅が満開になっているのを見つけた。 強く冷たい風の中、凛と背筋を伸ばして咲き誇っている姿に、思わず足を止めて見入ってしまった。

春はきっと、もうすぐ・・のはず。

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2006.02.07

疑うわけじゃないんだ

寒風吹きすさぶ中、玄関のチャイムで呼び出された。 見ると警察の方。 「どうも、駐在です。」 ほぼ毎年この時期、新しい駐在さんが勤務に着くと見えて、一軒ずつ巡回しながら様子伺いに来てくださる。 もうちょっと暖かくなってからでも良いのになぁ、などと、恐縮するような気分で自然と頭が下がる。 本当にご苦労様だ。

田舎の人は、権力や体制に逆らう事をよしとしない風習が強いので、お巡りさんの格好をしている人が玄関先に来たら、何の疑いもしないで、相手が欲する情報をペラペラと話す。 別に悪い事では無い。 権力や体制に逆らわない、多分そうなのだと思う。

でも、私は身構える。 何か後ろめたい事を隠しているからでないのは、当たり前の事である。 そうではなくて、街で育ってしまった私は、警察官の制服も、ぱっと見、本物と区別できないような警察手帳も、何処ぞのお店に行けば簡単に買えることを知っているし、そういった物を使って犯罪に及んだ人のニュースも知っているから、身構えてしまうのだ。 その癖が抜けない。 ほとんど習慣化してしまっている。 まして、バイクで巡回してくださる駐在さんが、ヘルメットをかぶって、初対面だったらなおさら、一瞬身構える。

「ごめんなさい。 身分証明書を提示して、名乗っていただけますか?」 ・・おずおずとお願いする。 こんなことをこんな地域でお願いしているのは、きっと私だけに違いない。 お巡りさんもちょっと戸惑っているのが、見て取れる事が多い。 別に反抗しているわけではないし、協力を拒んでいるわけでもない。 でも、一応確認させてもらわないと怖いのだ。 疑っているんじゃなくて、確かめておきたいだけ。

多分、田舎には田舎の「信用の仕方」とか「人間関係の作り方」があって、未だに私はそこからは浮いている。 頭ではわかっているのだが、身に染み付いた癖は簡単には抜けてくれない。 こんな事に遭遇する度に、何となくちょっと自己嫌悪を抱いてため息が出る。 私は不快感を与えてしまっているのだろうか? 

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2006.02.04

立春は雪の一日

毎晩PCの電源を落とす前に、翌日(もう当日になっている場合も多い。)の天気予報を確認するのが習慣化している。 洗濯や布団干しなどを中心として、家事の中には天気に左右されるものが少なくない。 昨夜はどこの情報でも「晴れるが寒い日」ということになっていたので、朝の冷え込みには覚悟して、ついでに湯たんぽまで抱えてから布団に入った。 ところが、何を間違えたのか、朝から雪。 しかも、うっすらと積もっている。 おいおい、こんなはずでは・・、と、身震いして、また布団に潜り込んでしまった。 結局15時近くまで降り続き、なんだかスキー場近くのペンションみたいで、思わず苦笑。 このところ気温の高い日が続いていたので、寒さが身に沁みる。 春はまだ暦の上の話みたいだ。

寒さしのぎに甘酒を煮た。 昨日も書いた酒屋で、静岡にある造り酒屋の酒粕を売っていたので、何となく買っておいたのだった。 小さくちぎって水でふやかしてからゆっくり煮て、砂糖を少々。 麹で作った甘酒とは違った濃い感じがして、こちらはこちらで魅力がある。 厚手の鍋の中でゴトゴトと煮える音がするのも、冬の風情っぽくてなかなかオツな感じ。 熱々のところを火傷に気をつけながら飲むと、しばらくの間は冷えた体が温まって身動きが軽くなる。

CDレコーダーとアンプとレコードプレーヤー、それからスピーカーを『ますたあ』がセッティングしてくれた。 見慣れた空き部屋が、ちょっとした「俄かレコーディングルーム」に。 試しの音流しをしながら、どのLPからCDに落とそうかとジャケットをぱらぱら。 どれも懐かしいものばかりで、なんだか泣きそうだ。 この調子では作業中も聴きふけってしまいそうで、先が思いやられる。

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2006.02.03

ビールとレコードと

酒屋さんを覗いたら、面白そうなビールを見つけたので買ってみた。 アサヒから発売されている「酵母ナンバー」という限定品らしい。 醸造過程で使われている酵母の種類を示すナンバリングを、そのまんま商品名称としているストレートさもさることながら、デザインも色使いもすっきりしていて、実にビールらしい好い感じだ。

私は若い頃から、実はアサヒのビールのファンだった。 しかし、スーパードライがどうしても嫌いで、それがアサヒを代表する銘柄になり稼ぎ頭になってしまって以降は、すっかりご無沙汰。

今回の「酵母ナンバー」は、麦芽100パーセントなこともあって「不味かろう訳が無い」と踏み、即購入決定。 早速一缶だけ「787」というヤツを飲んでみたが、ウマーイ!! 全く期待を裏切らないビールで、思わずニンマリ。
「やればできるじゃん。」とか、「こういうのを作って売って欲しいんだよね。」とか、ぶつぶつ言いながら、非常に満足度の高いビアタイムを満喫することができた。 他の種類にも期待が高まっている。

ビール好きの方は、お近くの酒屋さんに残っていたら即買いを。


お昼前、注文しておいたCDレコーダーが届けられ、取扱説明書に一通り目を通す。 これからLPレコードをCDに落とす作業を進める計画だ。 暖かくなる前にコツコツと進めてゆける事を期待しているが、予定通りに行くのかどうかは、若干不安な気持ち。 とりあえずアナログの音源を一度デジタル化しておけば、そこから先は形態を変えるにも作業が早いだろうと思うので、重い腰を上げる運びとなった。(って言うか、LPが収納場所を喰って邪魔なんですけどね。) 良い音がするのはよーく解っているのだが、レコード針ひとつとっても入手が面倒だし、社会の潮流に取り残されてしまう方式だと、どうしても活用の機会が減ってしまい、宝の持ち腐れと化してしまう。 それだったら、多少音に不満はあっても身近に聴ける方を選ぶべきだろうという結論だ。

良いものが売れるとは限らなくて、売れたものが良しとされる時代だ。 ビールにもレコードにも同じものを見出して、ちょっぴり悲しい。 

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2006.02.01

あんみつもどき

提供してくれるお店が無いなら、自分で作るしかない・・こちらで暮らすようになってから、すっかり口癖になってしまった言葉である。 おかげさまで、買えば済んでいた食べ物の作り方を身に付ける事が出来たり、かなり安上がりで、尚且つ自分好みの味や量に加減する事が出来るようになったりして、長い人生の中では良い訓練になったと思う事にしておこう。 根本の部分で、暮らしている者が利用したいと思える外食店が無いのに、観光客に利用していただける訳が無いだろう!、なんていうツッコミ所はあるけれど、それには触れないことにしておきたい。

さて、あんみつを作った。 厳密に書くと「あんみつもどき」だ。 塩茹したえんどう豆も求肥もなし。 その代わり餡の横にバニラアイスをのせてクリームあんみつ風に。 抹茶茶碗を出してきて、西伊豆の天草で作った香り高い寒天は大きめのサイコロ切り。 薄切りのリンゴと洋ナシ、キーウィーフルーツも添えて、黒蜜をたっぷり。 十分満足できるものに仕上がった。 材料費は2人前で400円足らず。 しかも人件費も場所代もタダ。 外でいただけば一人前700円くらいに設定できそうな仕上がりに、内心ニンマリする。

お昼ごはんは、水菜とベーコンとゴボウのパスタ。 ガーリックをきかせて仕上げにちょろっと醤油を回しかけて、全体のバランスをまとめてもらった。 ゴボウはベーコンと一緒に加熱し始めて柔らかい感じに、逆に水菜は余熱でしんなりさせるくらいでシャキシャキ感のコントラストをつける。 ヨーグルトを添えてテーブルに。 食後にはミルクティー。

カレンダーを一枚めくって、どしゃ降りの音を聞く冬の午後。 食べものが充実するのは、最も手っ取り早く手に入る幸せのひとつかもしれない、ということを考えていた。

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