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2006.04.30

ものは言いよう

昼食は「ベーコンと水菜のパスタ」。 食べながら『ますたあ』と、昨夜放映されたTBSの料理番組の話になる。 番組でゲストと堺巨匠が作っていたのは「春野菜のパスタ」だった。 美味しそうな緑がお皿の上で踊っているような季節の一皿、とでも言ったら良いか。

「考えてみれば、リーボーが作るパスタは昨夜の『春野菜のパスタ』的なものが多いよね。」
確かに塩味系のパスタに野菜をたっぷり使うと、出来上がりの系統は自ずから似通ってくる。 それに、パスタはどうしても塩味(アンチョビやベーコン系)・トマトソース系・ホワイトソース系・和風系の4つが主な分類で、また、それらが小麦粉の味に良く似合って美味しいのだから仕方が無い。 細かくネーミングを付ければ「○○と●●のパスタ」となるが、それはイコール「冷蔵庫にあったあり合わせの季節の野菜がたっぷりのスパゲティー」でもあるわけで、なーんだ同じことじゃん!、とも思うのである。

ただ、何も頭を働かせずに二つの名前を聞いた時に、受け取るであろうイメージには、大きな差があるのも事実。 前者は小洒落たイタリアンのお店で書いてありそうで、明るい日差しが差し込む店内で、ゆっくりと食べるのに相応しく、可愛い器でちょびっと盛り付けてあって、デザート付き1500円といったところか。 一方、後者は、社食でいつものオバチャンが、いつもの器で「アイヨ!」っと出してくる感じだし、「オマケで大盛りにしてあげる」みたいな、パスタもすっかり伸びきっているような・・。 さもなくば、賄い食のいずれかである。

わざと人なつっこいイメージを与えるために、家庭的な雰囲気のイタメシ屋さんで、後者のようなメニューをひとつだけ混ぜておくことはあるにせよ、本当のことをそのまま曝け出して表現するのは、なかなか難しいものなのだ。 例えば「シェフのおすすめ系」または、「シェフの気まぐれ系」及び、「シェフにおまかせ系」は、その冴えたるものに間違いない。 オススメと言われれば聞こえは良いが、これは作る側にとっては至って都合が良い表現で、例えばトマトが安かったらそれを使えばよいのだし、トマトを使い切ってしまったら鮮度が落ちてきたキュウリを使っても良いし、隣のテーブル同士で内容が違ったって、「これがオススメなんですよ」と言ってしまえば、全て丸く納まってしまう、正に虹色の名文句。 でも、「シェフのおすすめ」と言われたら、なんだか美味しそうだし頼んでみたくなるでしょ?? 外食産業を運営している以上は、不味くはない程度の最低限のレベルみたいなものが存在しているから、いくら「おまかせメニュー」でも、ハチャメチャなものは出してこないと思うけれど、(いや、思いたいが、)その裏事情は案外気付かれないものなのかも知れない。

ためしに、なんでもない普通の晩御飯のメニューを、巻紙風の和紙に毛筆で縦書きして、「一、地場産独活 料理上手な奥様こだわりの信州味噌を添えて」、なんて書いてみると、それはそれは凄いメニューが出来上がるはず・・。 奥様同士のちょっとしたおもてなしにも、すぐに使える手だと思う。

雰囲気も美味しさの内、なのだろう、きっと。

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2006.04.28

どうしてか分からないが

今日の『LP→CD作業』はカーペンターズ。

明るい日差しの窓辺で、木漏れ日のゆらゆらなんぞを見ながら、カーペンターズばかり聴いていたら、なんだかホットケーキかクッキーでも焼かなければならないような気分になってきた。

どうしてなのかは、自分でも謎。

いえ、結局焼かずに、午後のお茶の相棒は手持ちの黒かりんとうでした。
(なーんだ・・)

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2006.04.26

情けは人のためならず

ここ数日は、義父と接しながら妙に疲れを覚えてしまい、他の事にまわす気力が無くなってしまったような状況だった。

歳をとってくると誰でもそれなりに我侭が出てくるものだが、その部分が強調されてしまっているようだ。 部屋のドアを開けたり、車椅子の方向を変えたりといった自分でできることまで、こちらに「やって」と言うし、リハビリ訓練も「面倒くさい」と言い出したり、挙句の果てに自分で動かせる車椅子での移動さえも、「(車椅子を)押して」、と、きた。 体の調子が良くないのかな、とも考えたのだが、食欲はかえって旺盛だし、「なにか寂しいとか、リハビリの達成感がないとか、気分が乗らないのか?」、と心配すれば、そうでもないようで、結局、以前と比べたら身体的な回復に自信が付いてきたお陰で、気分的に余裕が出てきたという状況と思われ・・。 彼にとっては、歩行器を使って歩行することだけが『大事なこと』なので、それ以外はやりたくないのかもしれない。 回復した証と見れば、ありがたいことなのだけれど、こちらは少々困惑気味だ。

俗に言う「平均寿命」もとっくに過ぎて、もう充分にご長寿なのだし、これから先に社会活動に復帰することももう無いのだから、好きなように甘えさせれば良いじゃないか、と、ひとりの私が言い、もうひとりの私は、いやいや生きている以上は持っている能力を衰退させて良い筈が無いのだから、当然できることは自分でやってもらわなくては困る、と言う。 この二人がいつもせめぎ合っている感じで、気力を消耗してしまう。

仕事として病人に接しているならば、凛として譲らずに自分でできることは自分でやってもらうのに、妙な気遣いや余計な優しさが私の中に出てきて災いする。 困ったものだ。 割り切ればよいのに・・。

多分彼にとって、私は今「いじわるな嫁」だ。 可愛そうだけれど、「情けは人のためならず」、と、自分に言い聞かせているところ。 いろいろと勉強になる。

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2006.04.23

群発地震

伊東市の沖合いの海底で群発地震が起きているせいで、この辺りでもそこそこに揺れている。 あまり大きな地震ではないから、昼間にパタパタ動いている時にはほとんど感じないのだが、夜になって布団の中で横たわっていると、ちょっとした揺れでもちゃんと感じて目覚めてしまう。

何かの用事で夜中まで起きているときには、それなりの覚悟みたいなものがあって、「自分は寝てはいけないのだ」、と、強く思っているから、寝不足でもそれなりの対応ができるのに、不意をつかれた目覚めが続くと、想定外の出来事なので寝不足が堪える。 一度地震で目覚め、ウトウトした頃にまたゆさっと地震が来る・・悔しくてイライラしてくるのが、実は一番のダメージなんだろうと思う。

そんな夜が二日続いていたせいもあって、今日の午後は久しぶりに昼寝。 雨でグラウンドが静かだったので、昼間から熟睡してしまった。 頭もスッキリ楽になった気分。

おかげで温泉が沸いて、楽しませてもらえたり、経済活動させてもらっている地域なわけだけれど、やっぱり地震は嫌なものだ。

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2006.04.20

相棒はドミグラス・ソース

タケノコは色々な料理で楽しめる食材だが、目先を変えてのご提案をひとつ。

実はドミグラス・ソースと相性が良い。 手短で最も端的に楽しめるのがハヤシライスだ。

ハヤシライスは素材の歯ごたえを楽しむために、煮込んで味を出すためのタマネギとは別立てで、仕上げにシャキシャキにソテーしたタマネギを、二段階で使ったりもするけれど、タケノコにそのシャキシャキ部分を担ってもらう。 当然、根元に近い部分(下の部分)を使って、繊維に沿ってスライス。 下茹でしてある素材だし、味を染み込ませなくてもドミグラス・ソースがまとわり付いて美味しくなるから、どの段階で加えようが出来上がりに大きな差はない。 多少えぐ味が強いタケノコであっても、ソースの味が濃いのでそこそこ紛れてしまう。 逆にそのくらいの『強いタケノコ』の方が、いかにもタケノコ入りです、という感じで大人の味だ。

もちろんビーフシチュウの具にしたり、千切りにしてドミグラス・ソースと合わせてからハンバーグにかけてもグッド。

お手元にタケノコがあればお試しを。

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2006.04.19

筍は一斉に広まる

とある方から、立派な筍をたくさん届けていただいて2日間。 その間の出来事はなかなか面白いものになった。

筍が近くで採れるような所で暮らしたことのある方は、お解かりになるだろう。 筍は一斉に生え始め、一斉にみんなが収穫する。 そこそこの竹林があれば、何本も採れる。(厳密に言えば、筍を採らないと竹林が荒れてしまうそうで、採らざるを得ないのだそうだが。) それで、お知り合いの方々に配ることとなるのだが、みんな一斉に配りまくる状態だから、既に「ごめんなさい。 ウチにもう有るのよ・・。」、なんて言われてしまうことも多くあり、まだどこからも筍が届いていないお宅を見つけるのが一苦労なのだ。 それにも増して、筍はどんどん鮮度が落ちて「えぐ味」が増してしまうから、まさにスピード勝負。

とりあえず、距離が近いご近所から当り始めたものの、なにせ田舎なので、ご近所だってそこそこの移動距離だ。 大きな筍をいくつも抱えて、汗をかきながら配ってゆく。 今年はラッキーなことに、この段階で約半数が捌けた。 一巡した所で、覚悟を決めて茹でることに。 持っている一番大きな寸胴鍋にたっぷりの米ぬかと唐辛子。 大きな筍の先を、気合を入れてスパッと落とし、切れ目を入れて次々に鍋の中へ。 そこから一時間くらい炊き続ける。 折りしも初夏の陽気で、厨房の中の気温も上がって、いつの間にかまた汗をかいている。

焚いている間にやや離れた所にお住まいの何軒かのお宅に、「筍はいかが?」、と、電話してみる。 一軒のお宅で貰って下さることになり、アクが抜ける明日届けることが決定。 筍に竹串がすっと通ったところで、火を落としてそのまま冷ましてゆく・・熱い鍋があるおかげで、厨房は暑いくらいだ。

次の朝、鍋から筍を取り出して、外皮を剥いてぬかを洗い流して掃除してから、きれいな水に移してゆく。 食べられない外皮だけでも、集まるとシンクにいっぱいの量だ。 一時間ほどかけて剥きまくり、一息入れてから、ジッパー付きのビニール袋に2本ずつ収めてきれいな水を注ぎ、空気を抜いてゆく。 約束をしたお宅に配りに行く前に、昨日お留守だったご近所の数軒に、もう一度電話して確認して、二軒受け取り手が見つかった。

配り終えて、手元には筍と引き換えにいただいた食品がたくさん・・。 新ワカメ、茹でたイカ、菜花。 フレッシュな香りのピーチ・ティーをご馳走になったりもして。 春を配って、春をいただいてきた、そんな感じだ。

山桜の花びらが散る中で、春があちこちで行ったり来たりしている。

手元に残された筍は、手始めに「たけのこごはん」と煮物になって、いただいてきたご馳走と一緒にテーブルに並んだ。 そして、今日のお昼には、塩味の焼きそばにもたっぷりの筍。 きっとこの辺りのご家庭では、どこでも「たけのこ料理」が食卓に上がっているはずだ。 みんなに一斉に春が広まっているみたいで、なんとなく楽しい。

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2006.04.18

ワイルドにいこう!

スーパーで買い物をしていたら、カートに小さな男の子を座らせた親子連れが居た。 ヨチヨチ歩きくらいの子供でも、カートの上に座らせてもらえば、目の高さが1m近くにまでなるから、いろいろ見渡せて楽しいのだろう。 男の子は常にお母さんを気にしながらも、キョロキョロと嬉しそうだ。

たくさんの野菜がうず高く積まれた売り場に来て、若いお母さんはキャベツを選んでいた。 ちょっと目を放した隙に、男の子はすぐ近くにあった大きなブロッコリーに手を伸ばした。 ひとつを鷲づかみにすると、ブロッコリーの柄の部分を握り、いきなりガブッとかぶりついたのだ!! 「あっ!」・・お母さんと私が声を出したのが同時だった。

男の子の顔ほどもある大きな緑色のブロッコリー。 その中に埋もれるように満足そうな小さな目が笑っている。 なんだか急に可笑しくなって、二人の大人は笑ってしまった。 「○○ちゃんのせいで、ブロッコリー買わなくちゃならなくなっちゃったじゃないの。 もぅ~。」、と、お母さんは照れくさそうにしていた。

生で食べられるのか?、とか、美味しくないだろうに、とか、洗わなくて大丈夫か?、とか、冷静に思えば色々と頭をよぎったのだけれど、そんなことを吹き飛ばすくらいに、彼のワイルドさがキラキラと輝いていて、潔かった。 今時、こんなにワイルドな子供が居るんだと、単純に嬉しかった。

子供って、いいよなぁ・・。

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2006.04.17

ちょっと同情する

リンク: @nifty:NEWS@nifty:桜盗んだ調理師を取り調べ(共同通信).

気持ちは解ります、とっても。 でも、盗んじゃダメでしょ・・。

京都だそうだし、日本料理店じゃあ尚更に『季節の小物』は大事なのだろう、と、思う。 料理に添えるちょっとした飾りや季節感を上乗せする花や枝・木の実なんかは、立派な商品として取引されていて、ちゃんと買えばそこそこの値段がする。 土がコンクリートに覆われているような都市部では、私の住んでいる山とは違って、ちょいちょいと摘んでくるわけにもゆかないだろうし、都市部のお店に足を運ぶ人こそ季節感を求めているような気もするので、お店側としては大変だろうな。

今日はたくさんの筍を下茹でした。 泥の付いた筍の皮をバリバリと遠慮なく剥きながら、思い出した。 数年前のこの時期に、団体のお客様が連泊したことがあった。 昼食も希望されたからイレギュラーで承って、筍ご飯を炊いた。 他のおかずと組み合わせて、偽ものの懐石風膳に。 その時にふと思いつきで、剥いた筍の茶色い外皮の上に、筍ご飯を盛り付けてみたら、これが大好評だった。 わざわざ取り上げることもないほどの、なんでもないこと・・それでも、ちょっと盛り付けに遊び心を活かすと、料理は美味しくなるものらしい。

盛り付けの一工夫や、華を添える一枝などは、料理人の心の中に余裕がないとできない。 忙しくて調理に追われていると、それどころではなくなってしまうからだ。 それこそがセンスであり、料理の仕上げでもあるだろう。 ある程度の料理の技量が身についたら、普段から料理以外の見聞を広めておくことが必要とされるのかも知れない。

きれいな桜を見て、お客様を喜ばせたいと思った料理人の心意気が立派だっただけに、余計に残念な気持ちでニュースを読んでいた。

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2006.04.16

レシピのオリジナル性

料理というのは不思議なもので、レシピ通りに作ったからといって、同じものはできない。 作り手によってちょっと違うくらいならまだしも、「これが同じ料理とは到底思えないレベル」の違いまでもが生じ得る。 調理の技量が問われることは当たり前だが、素材の見極めや調達能力まで含めたら、もうどうしようもない。 レシピに鶏肉と書くのは容易くても、その鶏肉をスーパーの安売りで買うのか、こだわりの地鶏を買うのか、フランス産の冷凍輸入鶏肉なのか、全く出来上がりは違ってくるし、もっと極端に言えば、鶏の個体差だって大きいのだ。

だから、レシピなんて「有っても無いような物」くらいに考えた方が無難だと、個人的には思っている。 自分が作ってみて美味しかったものを見つけたら、私は平気でこのブログにアップしてしまう。 読んだ方がその通りに作ってくださったとしても、それはもう既に、その方のオリジナルだろう。 私から飛び立って、どこかで育ってくれたのだから、それはそれで私にとっても嬉しいことなのだ。

最近、ブログやホームページ、投稿されたレシピを集めたポータルサイトなどで、他人のレシピを勝手に転用して自分のものとしてしまうようなケースが、多々問題になっているらしい。 料理という分野の特殊性を考えると、こうした問題が起こっても当然とも言える。 一生懸命作ったレシピを無断で「良いトコ取り」されたら、そりゃあ良い気持ちはしない。 でも、ある程度覚悟の上でアップ・公開しないといけないものなのだと思う。 どうしても許せない人は、公開する方法を工夫しなくてはならないだろう。 有料サイトにするとか、出版物にするとか、だ。

だから言って、何でもありというのも、おかしい。 他人様のものを勝手に無断で自分のものにすることが、常識として許されるはずもない。 それは、「法律」の問題ではなく、そんな価値観が間違いだと教えなかった「教育」の問題!

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2006.04.13

春のバランス

久しぶりに軽いめまいがする。

昨日から耳の奥がぼんやりしているような独特の感覚があったので、ある程度の覚悟はしていた。毎年このくらいの時期から内耳の調子が単発的に悪くなり始めて、ゴールデンウィーク明けに最も不調になるのが恒例だ。 「来たな、来たな!」、という、季節の風物詩のようなものである。

よっぽど日常に差し支えれば、耳鼻科でステロイド剤を集中的に使ってもらう方法が残されてはいるものの、なるべく避けたいのも事実で、去年は鍼治療を併用していた。 どちらも一時的には効果があるが、長い目で見ると一長一短な感じ・・。 今年のゴールデンウィークはメモリアが休業だから、ある程度マイペースに必要最低限の自分達の生活をしてゆけば良いので、疲れを貯めないように気をつけながら、なんとかこなしてゆきたい所だ。

暮らしている山の桜の木もようやく満開になって、強い風が吹くとどこからか花びらがヒラヒラと流されてくる。 ここ数日の雨で一斉にみどりが芽吹き始め、ソメイヨシノはピンクに、山桜は白に、広葉樹の枝先は黄緑に、地面は穏やかな緑に、それぞれパステルカラーに染まっている。 なんとも穏やかな風景。  ウグイスがきれいなさえずりを披露してくれたりすると、もうドラマのワンシーンみたいに見事な春爛漫! いい景色だねぇ・・。

お気に入りのバンド「SCRIPT」のワンマンライブを、今回は見送っておいて、体調的には正解だったかもしれないと思う。 何かを我慢して、他の何かにハッピーを見つけて・・何事もバランスが取れるようにできているものなのかも知れない。

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2006.04.12

独活(うど)の皮

独活を一本買ってくると、立派な芽がついてくるし皮も楽しめるしで、なんだか得をした気分になる・・のだが、一度に集まる皮の量が少ないのが悩みだ。 二人分のご飯で一回に使う独活はせいぜい10センチ分くらいで、そんなに独活づくしというわけにもゆかない。 独活の皮は油と相性が良くて、キンピラやかき揚げの材料として利用するのが常套手段。 でも、たった10センチ分の独活の皮をキンピラでは、ほんの一口で終わってしまうし、天麩羅の油をわざわざその為だけに熱するのも無駄が大きい。 剥いた皮をラップに包んで冷蔵庫に保存すると、酢水に漬けた後でもアクで茶色になってしまうし。 美味しいと知っているのに、中途半端で困る微妙な量だ。

昨日はスティック状に切った独活に、シンプルに味噌を付けながら食べた。 上品で歯ごたえも楽しい春のごちそう。 で、問題の皮。 今が旬の鰆(さわら)を焼こうと思ったので、何とか使えないかと一工夫してみることに。

鰆は淡白な魚なので、ちょっとパワーのある味付けが合う。 独活の皮を長さ2センチくらいの細切り。 細く細く「白髪ねぎ」くらいの感じに刻む。 マヨネーズ2に対して味噌1くらいの割合で、一人前小さじ2ほどに出来上がるように混ぜ合わせ、そこに、生のままの独活の皮を和えるように混ぜる。 手早くやればアク抜きも不要。 鰆を焼いて、ほぼ火が通ったら、この「独活入りマヨネーズ味噌」を田楽のように平らに塗りつけて、軽く焦げ目が付くまでもう一度焼く。 これで出来上がり。

シャリシャリと独活の皮の歯ごたえが面白く、香りも立っていい感じに仕上がった。 冷めても美味しかったので、大人向けのお弁当にも向いていると思う。 私はオーブン用ペーパーを引いて、オーブントースターで焼いた。 もちろん魚焼きグリルでも。 焦げ目は付かないかもしれないが、フライパンや焼き網でもそれなりにできるはずである。

もしかしたら、白く上品な中身より、皮のほうが美味しいかもしれない、と、そんなことを思いながら食べていた。 捨てずにエコ料理、なんて言えば聞こえはいいが、要は食い意地が張っているだけかも、と、厨房でひとり苦笑しながら・・。 

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2006.04.10

その3 (大きなお世話だな)

私は実際に大田原牛を食べるまでは、「一体どんなボッタクリ商売をしているのか?!」、と、思っていた。 しかし、これだけの牛肉を仕入れて、それを熟成させて売っていることを目の当たりにすると、自分の拙い知識を持ってしても、原価率は逆に高い(つまり、儲け歩合が高くない)くらいだと予測された。 大黒屋総本家さんの商売のポイントの一つは、「高くても良いものを買ってくれる上客を、全国から自分の元に集めたこと」だろう。 いくら扱う肉が最高級レベルだといっても、それを買い取ってくれる上客の絶対数は、100グラム200円前後の牛肉を買っている一般客に比べて、圧倒的に少ないはずで、薄利多売の真逆をゆく商売をしなくてはならない。 そのために全国区のテレビメディアを上手に利用して、「あそこの肉は美味しい」という事実を広めたのだ。 そうすれば、料理店が「お宅の肉を使いたい」と買い入れを希望するようになり、食肉卸としての商売が広がってくる。 大田原のお店は、テレビ取材の際に使われるスタジオ代わりに利用できれば良く、そこではほとんど趣味のレベルで個人客の相手をしてゆけばよいのだ。

大黒屋総本家さんのもう一つのポイントは、登録商標をしっかりと獲得していることである。 実は「那須牛」という名前も、当然「大田原牛」も、そして「牛超BMS12」も全て、大黒屋総本家さんが持っている。 つまり、何処ぞの旅館もレストランもこれらの単語を使って商売をする場合には、大黒屋総本家さんにロイヤリティーが戻ってくるのだ。(女将さんいわく、「那須牛」という名前については、そこまで厳密に取り締まれないし、訴訟を起こして争う気もないから、ほとんどは見てみぬ振りをしているそうだが。) これは、ボディーブローのようにじわじわと「後から効いてくる」種類のインカムで、大田原牛がその美味しさで有名になればなるほど、有利に経営できるシステムの基盤になり得るであろう。 しかも、この希少価値が幸いし、「高くても欲しい、使いたい」上客には、儲け分の上積みを大きく設定することだって、やろうと思えば可能なのである。

新たなブランドを作り出し、それを使って経済的な優位に立つ、そこには知的財産権の存在が欠かせない。 現在の世の中の常套手段がしっかりと存在しているところが、まさにご立派だ。

いくつか懸念されることがあるとすれば、まず一つは、最高級の和牛の絶対量が限られていること。 今でさえ、全国の最高級ランクの和牛肉の8割以上は大黒屋総本家さんが買い取っていると、女将さんがおっしゃっていた。 つまり、「高いお金を払っても買いたい上客」が集まれば集まるほど、上質の和牛肉の量も多く必要とされるわけで、自ずから頭打ちのボーダーラインが見えてくる。 よって、どこまでも流通を拡大できるわけではない。 日本の酪農農家の先行きを考えた時、いつまでも今のように上質の和牛が生産され続ける保証もない。

もう一つは、予期せぬ消費者側のアクシデントだ。 ただでさえプリオンの問題などで、牛肉に対するイメージはよろしくないし、いくら和牛は安全だと言ってもイメージに左右されるから、非科学的であってもどうしようもない社会の流れが存在する。 牛肉を選ぶ選ばない、という観点の他に、例えば世の中のほとんどの人が人工的に栄養源を添加したシリアルバーのようなもので食事するようになったり、食事に手間とお金をかけない風潮がますます強くなってゆくことを考えると、短期的には良くても、次世代まで考えると、先行きは手放しで安心とは言い難いだろう。 と、すれば、今、できるだけたくさん稼いでおいて、それを次への踏み台に使ってゆくことがポイントになると思われる。 とりあえず今は万々歳だろうから。

重ねて三点目に、どうも調理のプロが経営戦略において加わっていないと、見受けられる点。 枝肉を捌けば、当たり前にクズ肉もたくさん出てくるはずで、それをどう利用して高付加価値を生ませるかが、大きなポイントになるだろう。 ハンバーグやカレー以外にも活用のしようがあるはずだ。 レストランのメニュー構成や調理、通販で扱っている商品を見ても、アプローチが甘く、プロの料理人が関わっていないように思われた。 肉屋さんとしての専門性と料理人の専門性とでは、視点が異なるので、マスコミで養った人脈を利用して、どこかの料理人に意見をもらった方が良い。 大田原牛のブランド名を使えば、高付加価値商品の開発にもってこいのはず・・例えば牛肉の佃煮を大田原牛ブランドで発売して、那須近辺のお土産にしてみたら・・なんて考えるだけでも宝の山である。

普通の客として思うことを書けば・・。
大田原牛は紛れもなく美味しい。 この値段の価値はある。 しかし、それは牛肉としての美味しさではなく、脂の美味しさとしての要素が強い。 だから、「肉の歯ごたえをした、脂の美味しい、牛肉とは違う別の食品」、と、考えた方が良い。 肉の美味しさを「柔らかさと甘さ」で評価する方には、120点の出来だと思う。 私個人としては、一生の内で一度このような牛肉を食べられたら、もう充分だ。 また通おう、とは思わない。

レストランとしての大田原総本家本店は、サービス・調理・施設・雰囲気とも客観的に見れば、プロの仕事ではないと思う。 それでも充分に美味しいのは、素材の持つポテンシャルが並々ならぬからである。 純粋に大田原牛を食べに行くのだと、心して足を運ぶべし。 サイドメニューや盛り付けにも期待したり、お金を払うことに喜びを感じたり、プチセレブな雰囲気を楽しみたい方は、東京の支店を選んだ方が無難だろう。

最後に、料理人としての自分が大田原牛を使うとしたら・・。
表面だけをさっと焼き付けて、お刺身くらいの大きさ・厚さに切り分けて、一人前せいぜい3ピースくらいを、そのまんま岩塩で食べていただく。 ちょっとしたサラダと合わせてお皿に盛って。 前菜として使いそうである。 この肉は(下のランクのものは解らないが)肉そのものの味や香りが極端に薄いので、ソースと合わせてバランスを取るのは、至難の業だろう。 和食の板さんがいらしたら、握りのネタにするのが良さそうだ。

良い経験をさせてもらいました・・本当にごちそうさまでした!

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2006.04.09

その2 結局美味しさの基準は脂か?

運ばれたのは、市販のスライス済みハムくらいの厚みにされた牛のお刺身。 2×3cmくらいの一口サイズにカットしてある。 肩ロースだそうだ。 それをワサビと塩、または醤油で、と、勧められる。 とりあえず、何も付けずに一枚食べてみて、またビックリ! 甘いのである。 「蜂蜜でマリネしてあるのですか?」なんて、思わず聞いてしまったくらいだ。 「いえいえ、切っただけ。」 雑味の残るような汚い甘さではないが、肉を食べてこんなに甘みを感じたことは無いので、ミスマッチというか戸惑いのようなものを払拭しきれないのである。 他のものに敢えて例えるならば、トレハロースをそのまんま舐めた時の味に近い。 なんでも、大田原牛の脂肪の融点は19℃だそうで、つまり、口に入れた途端に牛脂が溶け出して、それが甘いことに加え、アミノ酸が多く含まれていることによる甘味とのこと。 肉の臭みは全く無い。 と、同時に、肉の芳香もほとんど無い。 つまり、噛み心地は肉なのに味は肉ではない、そんな妙な印象を受ける。 不思議な肉だ。 塩や醤油を付けると、甘味が強調されて美味しい。 確かにこの脂だと、ワサビが合う。 どちらかと言えばマグロの大トロに近いような脂、そこから完全に生臭さを取り除いたら、きっとこんな感じになるのではないか。 なるほど、こんな牛肉は他には無い。

驚いているうちにステーキ肉が鉄板に乗せられた。 やっと少し牛本来の香りが漂ってきて、どこかホッとする。 分厚いので焼きに時間がかかり、その間、店の奥様がなんだかんだ話をしてくださっていた。 ここまで軌道に乗せるのに苦労が絶えなかった事、それを見ていた長男は家業を継がずに医学部の学生をしている事、しかし、お嬢さんがお婿さんを連れて帰ってきてくれた事。 良い肉をお客様に提供したいだけなのに、結果として地域の反感を買い、農協も商工会も目の仇のように扱うので、今ではほとんど一匹狼である事。 お客様の9割は県外の人で、遠くからわざわざ足を運ぶ人がほとんどな事。 ステーキになるような部位以外の肉も充分美味しいので、それを活かすために様々な料理を試行錯誤して、やっとの思いで生まれたハンバーグがネット通販でブレイクし、大変嬉しい事、などなど。 黒いエプロンを着けた恰幅の良い奥様は、どう見ても洗練されたサービスとは言い難かったものの、「善い人」で精一杯仕事をしているのが伝わってきて、決して嫌な印象は受けなかった。 おしまいにはお店に取材に来た芸能人の裏話や、東京のテレビ局に出演したご主人の体験談、孫が可愛い話なども飛び出し、笑っているうちに肉が焼けてゆく。 高価なステーキが焼けるのを待っているとは思えないような、田舎のご近所話に付き合っているようなアットホームな空間で、自分が何をしにここに居るのか解らなくなる様な気分がした。 牛肉自体が今までに体験したことの無いギャップなのに、この人的環境と価格のギャップも凄い。 嫌な感じでは決して無いのだが、もう何がなんだか、混乱してくる。

そうこうしている内に、ステーキが焼き上がった。 鉄板上で切り分けられた大田原牛、きれいな滑らかな断面に染み出した脂が光っている。 まずはフィレから、続いてロース。 恐るべし軟らかさ! 肉とは思えない軟らかさ!! 「なんじゃ、こりゃ?!」くらいに独特だ。 で、ジュワーッと脂が出てきて、甘さが前面に現れる。 美味しいことに間違いはないのだが、ただ、今まで自分が持っていた「牛肉の美味しさの概念」とは全く別物なので、言葉に困る。 歯ごたえは「軟らかい肉」なのに、味は脂で、香りはごく僅か。 捉え所がなくて、肉でない新たなジャンルの食品といった感じ。 「美味しい、それは認める。 文句のつけようもない。 でも、どうしよう?」・・変な気分だった。

付け合せの野菜はたっぷりのモヤシを除いては冷凍食材だった。 それを、鉄板に残った肉の脂で焼いてくれる。 そして、これまたたっぷりの脂で作ったガーリックライス・・これは、炒めご飯と呼んだほうがお似合いの、醤油と胡椒味のべたべたした感じの出来上がり。 なのに、「お母さんが自宅で作ったチャーハン」みたいで妙に懐かしい味がするので、ついつい食べてしまう。 私達は「肉を食べに行ったという意識」が強いので、冷凍野菜だろうがべたべたの炒めご飯だろうが、あまり気にならなかったけれど、このあたりのサイドメニューについては酷評されても文句は言えないだろう。 評価が分かれる所かもしれない。 とにかく気付けば、全てが脂たっぷり状態である。 美味しくスイスイ食べていたが、あるところから急に箸が進まなくなって、最後は『ますたあ』に手伝ってもらった。 胃が満杯というよりは、脂が鼻に付く感じ。 これも今まであまり経験したことのない感覚だった。 何から何まで他に例のない経験づくめ。 コーヒーとデザートのシャーベットのさっぱり感に、やっと救われた思いがした。 自家製ではないものの、よくできたシャーベットで美味しい。 もう、満足です、ごちそうさま。

・・と、いう次第で、さんざんお腹いっぱい、経験値いっぱいになったところで、頭の中で考え始めたのである・・。

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その1 「幻」を食べに

自主的研修に行ってきた。

目的地は大田原(おおたわら)である。 大田原と聞いてピンときた方は、「どっちの料理ショー」や「ぷっすま」もしくは「でぶや」といったテレビ番組をよく見ている人か、食分野に対しての探究心が旺盛な人だと思う。 そう、今回の目的はズバリ「大田原牛を食べること」であり、「大田原牛を通してビジネスモデルについて考えること」である。

大田原牛については、とりあえず商標を持っている大黒屋総本家さんのHPをご覧いただくとしても(多分こちらを読んでもはっきり解らないと思うが、これについては後から詳しく述べることにして。)、しばらく前では、ここの10万円ステーキを奢らせるという恐喝事件まで起きて、一躍話題になった牛肉としても知られる。 10万頭から一頭現れるかどうかの最上級和牛とのことと、扱える店舗が少ないこと、希少価値によってそれなりの値段がついていることとで、誰でも気軽に食べられるという肉ではなく、「幻の和牛」と名高い。 で、味にうるさいとされる有名人がテレビでこぞって絶賛しまくっているのである。 たかがステーキで一人前10万円以上取るというのは一体どういうことなのか、非常に気になる所で、まあ、テレビに出た芸能人がその美味しさを褒めちぎっているとしても、それを鵜呑みにするような私たちではないから、いったい栃木の片田舎で何が起こっているのか見てこよう、と思った次第である。

いつものことながら道中にもツッコミ所満載なのだが、そのうち小出しにすることとして、とりあえず大田原牛に的を絞る。 予め予約しておいたのは「別格超吟選BMS12コース」・・もうこの名前だけで混乱しそうでしょ?

日本での食肉牛の肉の格付けには、二種類の基準が併用されている。 ひとつは日本食肉格付協会が設定する、15段階の肉質ランク(A1~C5)、もうひとつは霜降り(サシ)の状態を12段階で表すBMS(ビーフ・マーブリング・スコア)。 大田原牛と名乗るためには、この二つの基準でA1とBMS10以上をクリアしていなくてはならない。 で、当然その高品質の肉に中でも、よりランクの高い肉とそうでない肉が存在するわけで、「別格超吟選」とは、より選別された肉で霜降り度が最も高いもの、ということになる。 (ちなみに大田原で育てられた和牛でなくても、A1とBMS12をクリアした和牛であれば、不味かろう訳が無い。 そこで、大黒屋総本家さんは全国からこの最高級ランクの肉を買い集めて『牛超BMS12』のいう商標を取ってご商売なさっている。)

鉄板の前のテーブルに案内されると、すぐにこれから焼かれる肉が運ばれて来て、じっくり見せていただけた。(厚めの肉をステーキを焼く時は、冷蔵庫から室温にしっかり戻しておく必要がるので、そのために早めに運ばれたのだと思う。) すごい霜降り!! 霜がメインなのか、肉繊維がメインなのか、もう判らないくらい。 フィレとロースが並んでいたが、フィレの常識を覆す量の脂肪が全面に均一に入っている。 ロースに至っては、どこからが筋肉繊維のパートなのか曖昧なほどだ。 脂肪の白さによって、肉全体が美しいピンク色。 これは今まで見たことの無い、初めての経験だ。 牛は生育期間が長いほどサシが入りやすくなるので、じっくりと生育されたものなのだろう。

コースはちょっとした前菜が3品、ステーキ、それにサラダとガーリックライス、フルーツシャーベットとコーヒー付きだ。 どうせならということで、目の前で焼いていただく「鉄板焼きスタイル」を選択しておいた。 お店ではお手ごろな価格で楽しめるハンバーグやステーキなどもあるようだが、それならばわざわざ大田原くんだりまで足を運ぶ必要も無いので、「相手が一番良いと思っているものを地元で食べさせてもらおう」、と、考えた。 それが、最近できた東京の支店を選ばなかった理由でもある。

一品目は生ハム。 表面にブラックペッペーがぱらぱらと振ってあった。 当然ながらこれは豚肉だ。 自家製であることは判る。 ちょっと凍っていた。 計算された結果ではないのだろうが、逆にルイベの様な感覚で面白い。 まあまあ。 肉の味は濃いけれど、風味(香り)が足りない印象。 多分熟成期間が若いので、「塩漬け肉」の感覚で食べさせたいのだろう、と、思う。 上からペッパーを振るよりも、ソミュールに何かハーブや香辛料でアクセントをつけたら面白くなりそうだが。 二品目はあらびきソーセージをソテーしたもの。 美味しいソーセージであることは認めるが、特筆すべきではなかった。 この程度ならどこぞの通販でも簡単に入手できる。(失礼。) 三品目でようやく大田原牛様の登場である。

(どこかのテレビ番組のように引っ張るつもりは無いんですが、長くなったので一回切らせてください。)

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2006.04.06

大人の遊び

ちょっと前から「大人買い」という言い回しが、一般的に使われるようになっている。 単品で買うと決して高価なものではないのだが、幼少時代にはそんなに頻繁に買えなかった文房具や玩具やお菓子などを、ばばーんとまとめ買いすることを指す。 例えば駄菓子を箱ごと買うとか、カプセル入りの玩具の自販機で売切れるまで買うとか、そんな感じだ。 自分で働いて稼いだお金を一万円も用意すれば、相当の量が思いっきり買える。 「これ、あの頃、欲しかったんだよね」とか言いながら。

朝帰りも大人しか出来ない時間の使い方だ。 子供の頃には時間を自分の使いたいように振り分けることはできないし、許されてもいないから、たかがラジオの深夜放送を聞くのだって大変だった。 自分の安全を自分の責任で守り、自分に課せられた社会的責任を自分でまっとうできるなら、それと引き換えにある程度の自由が生まれる・・それが、大人の遊びの根本だろう。

東京に行った際には、空が白々としてくる早朝に恵比寿の街を歩きながら、「いつのまにか大人になったもんだ」と、しみじみしてしまった。 タクシーに揺られながら、大人になって失ったものと見つけたものを比べていた。 ♪大人になるのは悪いことじゃない、という伊藤銀次さんの曲が頭の中に流れていた。 明治通りは相変わらず地下鉄の工事でボコボコだ。 確か私達が新宿で暮らしていた時から工事は始まっていたはずで、鉄板で工事現場を蓋した上をタクシーが通る度に振動が伝わってくる。 疲れが出てぼんやりした頭の中、ふと自分が昔にタイムスリップしているかのような、錯覚に襲われた。 時間軸がちょっとだけ歪んだような感覚が快感だった。

明日から私は、言葉は悪いが「騙されに」出かける。 貨幣経済について考えさせられることになるだろうし、「ブランド力(りょく)」と呼ばれるものについて、傲慢さを見せ付けられることになるのかもしれない。 そういったものに全く興味を示さずに、どちらかと言うと避けて暮らしてきた私には、この企画は立派な研修旅行であると同時に、他の見方においては大人の遊びの範疇だろうか。 なるべくまっさらな状態で、現実を楽しんでこれれば、と、思っている。

どんなご報告ができるだろうか・・??

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2006.04.05

東京で何をしてきたか その3

恵比寿での目的は一軒の「隠れ家バー」だ。 このバーは、とある事務所兼ショウルームに作られていて、しかも、週末のみの営業らしい。 マンションの一室なので、知っている人でなければ外観上はまったくバーとは気付かれないような佇まいである。 このバーの女主はなかなかバイタリティー溢れる方で、今は有限会社の代表を務めておられる。

彼女は、まだ私達がペンションを開業して間もない頃に、旅行雑誌の取材でやってきた若いライターさんだった。 モデルの女の子とカメラマンを伴って、伊豆半島内を何泊も取材旅行する途中で、一泊してくださった。 しかし、第一印象から「仕事に対しての姿勢が他のライターとは明らかに違う感じ」が漂っていて、バーカウンターで深夜までいろいろなお話をした。 何が違うかって、ハードなスケジュールの中、こんなに楽しそうにお仕事をしている旅行ライターさんは見たことがなかったし、「自分の目で見て、自分で経験して、自分の言葉で表現するんだ」という、徹底したプロ意識のようなものが、童顔の彼女の外見に反して漂っていた。 やがて、有名旅行雑誌として出来上がってきた彼女の文章を読んで、その「只者ではない感じ」が現実のものとして証明され、的確な、余計なおべんちゃらをそぎ落とした日本語に、私は唸ったものだ。 その後、プライベートでもお友達を連れて何回かおいでくださり、その度に朝までいろいろな話をした。 やがて彼女は独立して、事務所を構える。 元々好奇心旺盛(と、見える)彼女は、古い着物の生地を使って洋服や小物を生み出すブランドの運営も始めるようになり、事務所兼ショウルームが週末の夜だけバーになるのだ。 連絡はかなり前にいただいていたのだが、私が上京するのは大抵ウィークディで都合が付かず、今回ようやく叶えられた次第である。

「●日に伺いますが、ライブの後なので遅くなるかもしれません」と、メールを打ったら、「2時までに入ってくだされば大丈夫です。 うちは4時5時までは当たり前ですので。」との返信が。 一体どんなバーだよ?!、メモリアのバーと状況は変わらないな、さすがはメモリアの定連さんだった方・・と、大爆笑してしまった。 で、まだ夜も序の口な?23時前に店に到着。

こじんまりしたスペースは、いかにも彼女の人脈らしい、まじめに楽しんでクリエィティブな仕事をしている皆さんで賑わっていた。 いろいろな話題が出てきても、何にでも対応できるような、一般のレベルに比べたら明らかにアンテナの張り巡らされた、簡単に言えば「高感度」な、でも、気取らずフランクで、どこか天然っぽい人達。 なんだかとても居心地の良い空間で、すいすいと飲んでしまう。 『その人を評価するには、友達を見れば良い」などと言われるけれど、まさに普段の彼女の姿勢を表している空間だった。 彼女の元気そうな姿も嬉しかったのだが、そのバーに広がっていた雰囲気そのものが、とても眩しく思えた。 近くに住んでいたら足繁く通うのになぁ・・と、悔しい。

最後にはタロット・ワークまで飛び出し、ふと時計を見ると3時を回っていた。 6時過ぎには起床予定だったので内心焦りつつも、こんな空間で時間を過ごさせてもらえたことがとても満足に思え、何の後悔もない自分に笑ってしまう。 バーを後にして道路に出ると、道の反対側に新聞の集配所があって、自転車やバイクに朝刊を積んだ人達が四方八方に出発してゆく所だった。 もう働いている人達に申し訳ないような気持ちになりながら、タクシーを拾い、ホテルに戻ってきたが4時。 こんな気持ちの良い朝帰りは久しぶりだった。

Nさん、そして、お友達の皆様、遅くまでゴメンナサイ。 おかげさまでとっても美味しいお酒でした。 またいつかお会いいたしましょう。   

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2006.04.04

東京で何をしてきたか その2

細かいことは省くとして、葬儀の後はうちのお墓掃除。 夕方に知人と会うために西麻布へ。 で、そこから中野のライブハウスへ直行移動。 駅から猛ダッシュ! 伊藤銀次さんのライブを見るためである。 ちょうど前座のバンドが一曲終わったところで滑り込んだ。 ドリンクチケットを引き換えてもらったビールを一気飲みしつつ、カヒミカリイのような歌い方でAIKOみたいな曲を唄っているステージを見ながら、ばくばくの心臓と呼吸を整える。

ずっとプロデュース業に勤しんできた銀次さんは、ライブをやること自体が稀で、私自身ほぼ10年振りの「生銀次」。 初めはなんだか、昔付き合っていた恋人に逢うような気持ちで、客席に居るのに緊張してしまった。 始まりは「ハロー・アゲイン」。 今回は小さなライブハウスなこともあってか、ギター一本だけで弾き語りでやってくれたのだが、これがまたなんともグッとくる感じでたまらない。 当然、懐かしい曲もアレンジを変えて、穏やかにじっくりと演奏してくれる。 「こぬか雨」「幸せにさよなら」「BabyBlue」「彼女のビッグウェンズディ」など、往年のファンにとってはお宝級の名曲が次々出てきて、時間が過ぎてゆくのが勿体無いと思うほどだ。 オマケに「ウキウキ・ウォッチング(あの、いいとものオープニング曲)」まで飛び出して、もう、こちらは涙モノ・・参った。 アンコールの「Flowers in the rain」は客席も一緒になってみんなで唄う。 ♪シャララ・・のリフレインが心地よくて気が付けばいつの間にか心の隅々までリラックスしていた。

学生の頃、お決まりの日本青年館の最前列で、毎回踊りまくっていた銀次さんのライブ。 派手なスフトスーツを着てギターを弾きまくる銀次さんに酔いしれていたっけ。 あれからいつのまにか時が流れ、いろいろな経験を重ねて、穏やかに唄う銀次さんの曲に、安らかに身をゆだねている自分が居た。 なんだかとっても不思議な感じ。 こんな言い方はあまり好きではないのだけれど、「音楽を続けてくれていてありがとう」とでも言ったら良いのだろうか。 「おかげさまで、こんなに大人になりました。」とでも報告しに来たような、不思議な感覚だった。 上手いとか下手とか、好きとか嫌いといった判断を超えて、長く続けている人だけが作り出せる楽曲や唄い方という価値が、確かに存在すると教えてもらったような気がした。

客席はほとんどサラリーマンで、ぱっと見た感じはみんな30歳以上の印象。 穏やかに、でも、幸せそうな顔をして聴き入っている。 ジャズとかフュージョンではない、確実にロックなのに、すごく大人の雰囲気でいい感じだったのが、印象的だった。 こういうライブに若い人も来てくれたら良いのにな、なんて考える反面、自分が銀次さんのライブで踊りまくっていた時代の事を思い出せば、「長く続けている人の音楽」にはほとんど興味がなくて、新しいものばかりを嗅ぎ分けていたから、やっぱりこれは大人のための音楽であり、ライブなのだろうと、考え直した。

「いい大人」になっても、いまだにライブハウスに行けること自体が、とてもシアワセなことだろう。 「いい大人」が気持ちよくなれるロックを聴かせてくれる伊藤銀次さんに、心から拍手!!


で、なんとそのライブの後、22時を過ぎて恵比寿へ移動・・。 ♪夜はこれから~・・ってか?!

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2006.04.03

東京で何をしてきたか その1

お葬式においての「流れ」と言うか、進行の順序は大抵どこも同じようなものだが、宗派やご遺族の意向によって細部には若干の違いが生じ、それによって参列者の印象もずいぶんと変わるものである。 今回のお葬式では、故人が眠っておられる棺の中に、参列した人がそれぞれ花を手向けて、ご遺体を花で埋め尽くすような方法がとられ、皆が最後にご遺体のお顔を拝見しながら、お別れをすることが出来た。 もう、その段階においては故人の魂は仏となっているらしいから、仏教的にはお香を焚きながら手を合わせて祈るのが、本来の方法なのだろうけれど、どのような形であっても、実際にご遺体の傍でご遺体を清める作業に参加させていただけるのは、参列者としてありがたいことのように思われた。 お別れには、「実感できる儀式」も大事である。

亡くなるまでの長い間、もうずいぶん前から意識がなかったそうで、ご遺族の方も「覚悟していたし、こちらも心の準備が出来ました。」と、言っておられ、故人のお顔も穏やかで、少しほっとする。 命の期限そのものは人間が決めることではないと思うが、一方で、死にたくても簡単には死なせてはくれない世の中だから、現場で妙な捻れが生じていることもまた事実で、表面化した人工呼吸器を外した某外科医のニュースなどを思い出して、いろいろなことを考えさせられていた。

さて、今回は真言宗のお坊さんがお経を唱えておられ、葬儀は自宅ではなく、葬儀社の建物を使って執り行われた。 金ぴかに輝く袈裟を身に付けたお坊さんが、大きな水晶の数珠を身に付けておられる様子はなんとも立派だったし、お経を唱える時の声も朗々としていて、意味の解らない私にも、十分ありがたい感じが伝わってきていたのだが、近くにいると「どこか変だな?」という印象があって、まるで間違い探しのようにじっくり拝見してしまった。 かと言って、お坊さんの正しい装束など細かく知っているわけもなく、諦めていたところ、読経の途中で、椅子に座っていたお坊さんが立ち上がる機会があった。

・・解ってしまった! 足元。 お坊さん、スリッパを履いていて、そのスリッパが袈裟と同じように金ぴかで、菊の花などの刺繍がなされたひどく立派なスリッパなのだ。 多分「お坊さん用」の市販商品があるのだろう。 ご遺族も参列者も靴のままであったが、お坊さんだけはいつの間にか立派なスリッパに履き替えていたのである。 ご自分で持参されたのか、葬儀社が貸し出しているのか、知る術もないが、なんだかアンバランスな感じだし、「世の中ではこんな商品も作られているのか」、などと内心驚くやらで。 いつか某テレビ番組で見た「卒塔婆専用プリンター」にも驚かされたのを思い出し、仏教用品も奥が深そうだ、と、興味を持った次第だ。

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2006.04.02

黒は若い人の色

上京して濃~い時間を過ごして、昨日帰ってきた。
少しずつご報告を書いてゆこう。

なにしろ上京のきっかけがお葬式だから、喪服を着ての移動である。 当然の如く、上から下まで「黒ずくめ」。 ご近所でご不幸があった場合には、お手伝いの意味合いが強いから、動きやすい服装が優先されて、ここまで完璧な喪服姿になるのは久しぶりだった。

出かける前に姿見でチェックした時、なんだか「あれ?」と、思った。 今の自分に黒い色が似合っていないと感じたのだった。 若い時には濃紺や黒など暗い濃い色が良く似合っていたし、好んで選んでいたようにも思うのだが、いつの間にか自分と濃い色がしっくりしない。 自分が自分でなくなったようで、妙な気分だった。

電車の中で、いろいろな人の来ている服の色を観察させてもらった。 すると、やはり暗い濃い色の服装は、若い人ほど似合っている。 エネルギーが内部から自然に溢れているような人が、それを抑えるように黒などを着こなしていると、非常にバランスが良く見える。 それに対して、中年以降の人が暗く濃い色を身に付けると、辛気臭いとでも言おうか、寂しそうな印象が強くなり、顔色も冴えなく見えるのだ。 年配の人は、逆に赤など暖色系の明るい色がきれいなようで、色の持つ明るさが、着ている人のエネルギーを補填しているようにも見えてくる。

洋服を選ぶ時に、昔のイメージで安易に色を選ぶのは止した方が良さそうだな・・と、思った。 少しずつ、確実に時間は経過し、確実に自分も変わってゆく。 それを、客観的に捉えておかないといけないな。 自分に言い聞かせた。 

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