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2006.09.26

表裏一体

すっきりと晴れ上がった青空が広がるのも秋らしくて素敵だが、今日のように肌寒いしっとりとした雨が静かに降り続くのも、また秋のもうひとつの顔のように思う。

『ますたあ』にはコーヒー、自分にはシナモン・ハニー紅茶を淹れて、静かに穏やかに過ごす午後だ。

お恥ずかしながら、初めて辻仁成さんのハードカバーを読んだ。 冷静に時間の経過を正しく追いかけるような、物事の中心から一歩引いて見ているような、均等なバランスを感じるような文体。 主人公の一人が不治の病で亡くなってしまう題材で。 淡々と綴られることによって、読み手の心の中で哀しみが増幅され、非常に効果的な印象だった。 読んだ本では、感情的な表現に冷静さは勝っているように思えた。 文体は料理の器のような物だろう。 中に盛り込まれる品が、より美味しく美しく効果的に見えるような組み合わせが大切なのだ、きっと。

連休にイベントのお手伝いをしてきたことは前にも書いたが、そこで、この市内に暮らす小学生と話す機会があった。 一緒に連れだっていた彼女の母親が鍼治療を受けている間の、言うなれば暇つぶしに話相手をしていたのだ。 学校のことや友達のこと、習い事のこと、恋愛のことなど、こちらには子供が居ないので、日常を教えてもらう感じで。 頭の中で考えるのではなく、動物的な直感に近い判断で物事の本質を見抜くことにおいては、子供は天才的だと思いながら、彼女の話を興味深く聞かせてもらった。 私が育ったのは東京であることを告げると、すぐに、「東京ってなんだか怖い。」
「どうして怖いと思う?」
「人がいっぱい居るから。」
「でも、いろんな人が居て面白くない?」
「うーん・・・いろんな人が居たら、怖い人も居るじゃん。」
「怖い人も、そうでない人も居るかな。 でも、このオバサンは怖い人も良い人も同じだと思ってるからさ。」
「どうして?」
「ほら、お母さんだって優しい時と怒る時あるでしょ?」
「うん。 ・・でもよくわかんない!」
そんな話の中で、以前からの謎が解けたような気がしたのは、つまり田舎の人はたくさんの人間の居る環境の中、ひとりで過ごす機会がないことが、彼らの自立意識を妨げている、若しくは自己を確立できないように見えるひとつの要因なのではないか、ということだった。 大きな集団の中で自分の位置を確認したり、自分の役割を認識する機会が少ないから、結果として「自信がない」のではないか。 まだちゃんと考察できていないけれど。 ちなみに彼女の学年はひとクラスだけだそうである。 好きになるようなカッコイイ男子が居ない、と、ぼやいていた。

このところ、なぜか刺激的な食べ物を体が欲しない。 辛いもの、濃い味の料理をあまり作っていない気がする。 「厚揚げと切干大根の煮付け」なんかでビールを飲んでいると、あー幸せだな、と、しみじみしてしまう。 歳をとるってこういうことなのかな。 鶏のモモ肉が手元にある。 久しぶりにスパイシーなカレーでも煮込もうか、あっさりと「くわ焼き」にでもしようか、そろそろ決めなくちゃ。 

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コメント

こんばんわ。
田舎育ちのオイラはリーボーさんの感じた事と似たような感覚を小さい頃から感じていました。そこに違和感を感じていたのも事実です。
でも自分の田舎から少し離れて生活してみると
自己の確立の方向が違うだけなんじゃないかと感じ始めました。だから「自己を確立できないように見える」っていうのが正解かもしれませんね。
ただ、今の時代のいう「自立」とは方向が違う事を今でも感じますし、オイラは「住み難い」って感じますが…。

投稿: クッスィ~ | 2006.09.28 00:44

ずっと日本社会には「庇護」という考え方があったと思います。国民は国が守ってくれるとか、会社に就職すれば社員や家族を守ってくれるから、定年まで勤め上げればよいとか。失業しても田舎に帰れば大家族が養ってくれたり、親戚が就職の面倒を見てくれたり、認知症になっても家族の誰かが世話してくれたとか。 その庇護されている人にとっては、良い学校に入学し良い会社に就職し会社の上司に気に入られ、本家の親戚とうまくやることそのものが価値だったでしょう。そういう人は、将来のリスクを予測できないのではないかと考えたのです。庇護されることそのものが安定だと考えているので、もしかしたら自分に降りかかるかもしれない最悪の問題を予想できない。10年後に会社がどうなっているか、なんて考えなくて良いからです。それは最終的には天災ではなくて、自分が家族や友人や社会からの信頼を失うというようなことです。リスクが予測できない人は、リスクを回避するために自分が今何をやれば良いのかも判りません。つまり、庇護制度の元、自分の人生を他人に託してしまっていること自体が多大なリスクであり、そして、底から抜け出すには自分でお金を稼ぐ方法と技術を身に付けるしかなく、それこそが社会的自立です。

前述の小学生の女の子の「怖い」は、正に庇護下にある人を象徴する言葉だと感じました。(子供は庇護されているのですから当然です。)ご両親や先生やお巡りさんが「この人は悪い人です」と言えば、それが100パーセントであり、「もしかしたら自分の中にも怖い人と同じような部分があるかもしれない」とか「他の人と自分の価値観は違うかもしれない」とかそんな風には思えないものでしょう。

市場原理は残酷です。学習による知識や技術を持たない者、資産のない者、時として容姿の整っていない者は、市場に対して売る物がないから対価として貧弱なサービスしか受けられません。自立のためには、社会・仕事・友人・家族などを通して自分を客観的に捉えることが必要と思います。自分は何が得意で、何に劣り、興味のあることは何で、許せないことはどんなことで、どんな人が好きで、などなど。その中から自分の能力や技術を磨いて、市場に出せるものを身に付けたり作り上げるしかないでしょう。

相手のために○○してあげる、という庇護の考え方は、時として相手の自立を妨げているのではないか、と、そんなことを考えたのでした。急ぐ必要は全くありませんので、いつかクッスィ~さんの書かれた「自己の確立の方向が違う」という言葉を、もうちょっと具体的に教えてくださるとありがたいです。長々と失礼しました。

投稿: リーボー | 2006.09.28 15:50

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