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2006.10.31

定番はKIT KAT

子供の頃からキットカットが好きで、なんだかんだと長いお付き合いになっている。 この手のお菓子は入れ替わりが激しい中で、考えてみるとずいぶん長寿商品だな、と、思う。

チョコレートがそのまんま固められたお菓子よりも、何かにコーティングされていたり、例えばパフのような穀物をチョコレートで固めたようなタイプが好きなことに加え、食べ切りサイズであることや、ちゃんと紙箱に納められているので(かつてはセロファン紙のようなもので包まれていた時期もあったが)、バッグの中でもぐちゃぐちゃになったり溶ける危険が少ないなど、なにかと持ち歩きに好都合なので、昔から私の鞄の中には高頻度で登場。 ライブに行く時などは必須アイテムに近い。 仕事に追われて昼食を食べ損ねたまんまライブ会場に駆けつける様な時でも、入場待ちのちょっとした時間に食べられるし、一緒に待っている友人と分けるのも容易なのだ。 そうでなくてもライブは夕刻から始まることが多くて、ライブ終了後に夕食となるとお腹が空いてしまうから、はしゃぐ前にとりあえず低血糖の予防。 よく一緒にライブに行く友人には、「絶対リーボーがキットカットを持ってくると思った!」などと期待されたりしていたのも、楽しい思い出である。

先日ちょっとしたNPO法人のお手伝いでイベントに参加した時にも、キットカットを忍ばせていた。 残念ながら箱を手にする機会が無いまま、「お持ち帰り」になってしまったので、家でお茶の時間に『ますたあ』と半分こ。 見たこののない種類だったにも拘らず、とても美味しかったので調べてみたら、キットカットの「ショコラティエ」というものらしく、あの「パティスリー・タカギ」の高木康政氏がプロデュースしている商品らしい。 最近限定商品のキットカットが売られているのは知っていたが、いつも定番の物ばかり選んでいたので、珍しい種類は食べずじまいだったのだ。 今回のものが美味しかったので、これを機にいろいろ試してみようかな、と、思っている。 ちなみに「ショコラティエ」のシリーズは、ちゃんとした所で(?)買うとレギュラー商品よりもちょっと高めらしい。 私は100円ショップで見つけてしまったのだが・・。

キットカットを扱っているネスレのサイトはこちら

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2006.10.30

同じなんじゃないか

(排泄の話が出てきますので、読めるときにお読みください。)

週末から今日まで、目の前のグラウンドで全国規模のゲートボール大会が催されていた。 沖縄・北海道まで各県代表のゲートボール・チームが集まり、競技を競っていたらしい。 日ごろ静かな山里の秋も、大きなテントが並び、プレハブ作りの建物まで建てられて、まるでサーカスがやって来るのかと思うくらいだった。

ゲートボールといえば、どうしても「お年寄りのスポーツ」である。(最近は若年競技人口も増えてはきているらしいが。) お年寄りはどうしても「心の視野が狭い」と言うか、CPUの処理能力が遅れがちで(これは生物として仕方のないことだと思うけれど)、なにかと決まりやマナーを無視する傾向があるのも否めない。 県大会・市内大会レベルだと大会運営者のヒステリックな放送が山間に響き渡ることも多いし、運営者サイドもお年寄りの集まりだったりすると、運営者と選手がマイクを通して喧嘩腰になることも珍しくなく、そうなるとヒステリックを通り越してエキセントリックな世界だ。 それを聞かされることになるこちらも、大会期間中は憂鬱だ。 まあ今回は全国大会だったこともあり、それでもスムースに運営されていた方だと思う。

さて、ゲートボールの大会があると当方が閉口するのはそれだけではない。 すごく大きな憂鬱ネタがもうひとつあって、それは、「その辺で排泄をしてしまうこと」である。 グラウンド周辺には何箇所も立派な水洗公衆トイレが用意されているし、ちゃんと掃除もされているきれいなトイレだし、数も充分確保されている。 その上今回は厚生労働省の予算が静岡県に降りてくるような立派な大会だったから、グラウンド内に簡易トイレがずらりと並ぶほどの手の入れよう。 にも拘らず、多くの方々が「その辺で済ませてしまっている」状況に、何ら変わりは無かった。 我慢できない、という距離では決して無い筈で、何故なら実際に用を済ませている場所と、公衆トイレはほんの数メートルの距離である。 どのくらいかと言うと、私が普段の生活の中で、ふと窓の外に目をやる度ごとに、複数の方が用を足している・・。 延べ人数を数えて、本部に連絡してやろうかと思ってしまう。(やりませんでしたけれど。)

驚くべきことに、トイレを使わないのは殿方に限ったことではない。 女性のお年寄り(簡単に言えばおばあちゃん)がわざわざグラウンドの脇の急斜面を下って、木の茂みを探し(ウチの敷地だったりする)、そこで済ませてしまう。 で、ご丁寧にお尻を拭いたティッシュ・ペーパーを残してゆくのだ。

・・これはもう、トイレの在る無しに関係なく、「外で用を足したい」という欲求が彼らにはあるとしか思えない。 まさか、他人に見て欲しいとまで思っている訳ではないだろうけれど、少なくとも他人に見られる可能性が高くたって、それを気にしないだけの「何か」があるみたいだ。 不思議と呼ぶべきか、理解が難しい。

しばらく前から「電車やバスの中で化粧をする若い女性」の存在が社会問題になり、今でも時々取り上げられている。 彼らの多くは、他人の前で化粧をしないことがマナーであるということを学習していないことが問題らしいが、他の人の目を気にしないという部分において、ウチの敷地で用を済ますお年寄りと、何ら変わりない気がする。 人は何十年も生きて、いろいろなことを身に付けてゆくのかと思っていたのだが、どうやらそんなには変われないものなのかも知れない。 または、一時期身に付けたものも、お年寄りになるとまた失ってしまうのだろうか。

自分が「お年寄り」と呼ばれる年齢に確実に近づいてゆくことを、私は受け入れられるのだろうか? 何だか最近ちょっと自信がない。 少なくとも、用はトイレで足すお年寄りくらいにはなりたいものだけれど。

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2006.10.27

自分だよ、自分。

数日前から、夕方になると庭の片隅にスズメがやって来て、だいたい同じところで何かをついばんでいる。 「今日も来ているな」などと、視野の片隅で見るとも無く感じながら、鳥達は空を飛べるから自由の象徴のように思われているけれど、実際の生活は案外お決まりのパターンに基づいているものなのかも知れないと、そんなことを思った。 あまりに自由過ぎるのも、かえって動物は居心地が悪いのかも。 人間だって例外ではなく。

手元に届いていながら聴けていなかったSCRIPTの新しいアルバム「10strokes」を繰り返し流している。 このところ彼等に対して感じていた「どこか窮屈な感じ」を払拭するような作品ばかりが収められていて、嬉しかった。 「ああ、こういうことがやりたかったんだな」と、ふっ切れた何かを感じるものがあってホッとした。 このアルバムが好きとか嫌いという以前に、別の切り口で好感を抱いた自分が不思議だ。

自由でいると不安になり、拠り所を求めるように自分で決まり事を身に付け始め、やがて自分が縛られていると思うと何もかも投げ出してまた自由に戻りたくなる。 私もそんなことを繰り返してゆくんだろう、きっと。 自由という状態を維持するためには、かなり気をつけて注意深く日常の選択をしてゆかねばならないことは、どうやら間違いないようだが、「自由でいなくては」という気持ちに縛られていたら元も子もない。 これだけ生きてきても、まだそのコントロールが時々難しくて、「こんなはずじゃなかったんだけどな」と苦笑する。 しょうがないな、まったく。

いつだってきっと、自分の首を絞めているのは、他の誰でもなく自分だ。

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2006.10.25

切ない和み系

ご近所でお葬式があり、お手伝いに行っているため、丸2日間拘束状態・・。

お亡くなりになった家は、お年寄りが単身でお住まいになっていたのですが、どうやら猫が一匹飼われていたらしく、ご主人の居なくなった家の中で、決まり悪そうに弔問客の間を行ったり来たりして、なんとなく切なさを漂わせておりました。

皆さんがお通夜の儀式のため葬祭場にバスで移動した後、亡くなった方のお宅に残って弔問客の対応をする役割をしていたところ、猫が座っている私の足の上に乗ってきて、そのまま丸まって寝息を立て始めました。 やがていびきというか鼻息まで聞こえ、どう見ても熟睡状態。 慣れない人がたくさん訪れていた中で、猫も緊張していたのかもしれません。 何だかゆっくり休ませてあげたいような、そんな気分で、太ももを提供しておりました。 と、言っても、私とその猫も初対面だったんですけどね。

故人の親類の方によると、まだどこに引き取られるか未定の猫ちゃんだそうです。 どう見ても人なつっこい性格だったようですから、新しい環境でも可愛がって貰えることでしょう。 当然ながらお葬式は仏式でしたが、みなさん出払っていたこともあり、足の上で熟睡している猫にそっと十字を切って、神様が祝福してくださるように祈りました。

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2006.10.23

「牛トマ」と呼んでます

あまり意識しているわけではないが、狂牛病のなんだかんだ以降、どうも牛肉の出番が少ない。 どちらかと問われれば、豚肉の方が好きなせいもあるかと思う。 先日買い物に出かけた際、たまたまオージー・ビーフの薄切り肉が特売だったので、「そういえば・・」と思い出して久しぶりに作ってみた。

牛肉とトマトの炒めもの  4人分くらい

材料  牛肉モモ薄切り    300グラム
     ピーマン         2個
     トマト           2個
     ニンニク         1かけ
     胡麻油          大さじ1
     醤油           大さじ1
     
     下味液として  酢・日本酒・砂糖・水   各小さじ2ずつ
               サラダ油・片栗粉     各小さじ1ずつ

作り方
1・牛肉は適当な大きさに切ってから、下味液の材料を全て合わせた中に10分以上漬け込む。
2・ピーマンは種をとって縦に6つ切りくらい、トマトは8つのくし形切りに。 ニンニクはみじん切り。
3・フライパンに胡麻油を熱して、ニンニクを炒める。 香りが出たら牛肉を下味液ごと加えて強火で炒める。 肉に火が通ったら醤油を回しかけて炒め、ピーマンを加える。 続いてトマトも加えてさっと混ぜる。
4・塩・胡椒(分量外)で味を調えて、できあがり。

トマトは加熱しすぎると美味しくないので、さっと温める程度に。 大人ならニンニクと一緒に赤唐辛子の輪切りを炒めてピリ辛にしても美味しい。 面倒だったらラー油を仕上げにひと振りしても。 赤身肉を使うのであっさりとした仕上がりに。 下味に酢を使うが、酢の味はトマトに隠れてほとんど感じない。 気になればトマトの種を除いても。

トマトとピーマンを使うので、本来は夏向きなのかもしれないが、何故だかこのくらいの涼しさになると思い出して食べたくなる。 意外な組み合わせで、癖になる味かも。 普段の炒め物の味に飽きて、変化をつけたくなったときにでもお試しを。
               

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2006.10.22

それで良いのか?

いえいえ、高飛車になるつもりは毛頭ありませんが、このblogのアクセス解析を見ていて、凄く気になることを発見。 相変わらず「砂糖や小麦粉などの食材が大さじ1杯で何グラムなのか」を知りたくて、サーチ・エンジンを使って検索をかけ、おいでくださっている方々が、毎日20人近くは居られるようなのですが、Yahoo!Japanで検索している人は、目的のページに辿り付けていないんですね。 GoogleやMSN、goo等それ以外のサーチ・エンジン経由の皆さんは的確な個別ページにおいでくださっているようでして。 なんだか哀れに感じてしまいまして。 だって、Yahoo!Japan使うとどうやら全然違うページに誘導されてしまっているものですから、つい・・。

皆さん各々使い慣れているサーチ・エンジンや、使い分けなどもあるかと思いますが、「Y」をお使いの方は、ちょっと方法を工夫するなどなさった方がよろしいかと。 失礼しました。

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2006.10.21

むかご

時間の早い夕方、いつものようにウォーキングに出かけ、いつものように何も考えずにただひたすら歩いているつもりだったのに、見つけてしまったのだ。 大粒のムカゴがたくさん実っているのを。 最近の私は一周ほぼ6分30秒のペースで、同じルートを何周もするコースを選んでいるので、他にもムカゴが実っている場所を横目で探しながら歩くことになってしまった。 酸欠の頭で覚えるのは辛い・・何周も通ることが出来て助かった。

決めた時間を歩き終えて、クール・ダウン・ペースに落とし、同じコースを最後に一周する際に、目を付けておいた場所でムカゴを掌に集めていった。 片手の窪みにこんもり。 立派な収穫だ。

それでも「ムカゴご飯」にするには、さすがに少々足りない。 なので、フライパンにほんのちょっぴり油をひいて、ほとんど乾煎りのような状態で、ころころ転がしながら火を通し、仕上げに焼き塩をぱらぱら。 あっという間に出来上がりである。

ほくほくしたお豆のような、でも、確かに芋の香りもして、考えていたような苦味や渋みも無く、秋の空気をそのまんまちぎってきたような、ホンワカと和む肴になった。

別にこれと言って特別に美味しいという物でもないのだし、この時期にしか食べられないこと自体に価値があるような食材。 料亭の八寸に盛られていたら、一体いくらに相当するかな・・なんて、お酒を傾けながらニンマリしてしまった。 ご馳走さま。

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2006.10.20

魔法

魔法つかいが主人公の、あまり新しくないイギリス童話を読んでいる。

魔法は偉大な力を持ち、場面を劇的に変化させる。 魔法は命を助け、励まし、弱っている人を温め、食べ物や住環境を用意する。 世界を股に駆けて移動できるし、相手の信用を得るための取引道具にもなる。 同時に、魔法は相手に怪我を負わせ、苦しみを与え、悩みで不眠にさせ、思考をコントロールし、命を奪うことさえ出来るとされている。

何章か読み進めた後で本を閉じ、ふと現実に引き戻された瞬間、実は自分たちにも魔法が使えるのだな、と、気付いた。

「言葉」と「お金」だ。

童話は、魔力を行使するために、相手の状況を理解する感性と洞察力、身勝手な欲に打ち勝つだけの自制心を、厳しく厳しく主人公に課している。

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2006.10.18

試しに気にしてみることから

昨夜、何気なくつけたテレビで、メタボリック・シンドロームに陥らないようにするために、食事の熱量(カロリー)をいかに減らすか、という内容を放映していた。 3人の料理の上手な芸能人が、それぞれ800キロカロリー以内で夕食を料理するという企画だ。 その中で一般人の平均的なデータとして提示されていた、夕食メニューのご飯のカロリーが240キロカロリーだった。 「240? 3単位も一食で食べちゃうの??」、と、一瞬考えた後で、「あー、そのくらいはいっちゃうかな。」と、思い直す。

食事について考える時に、便宜上80キロカロリーを一単位として置き換えることが、よく行なわれる。 まあだいたい白身魚一切れ、卵一個、あまり大きくないバナナ一本がこのくらいの熱量で、毎日毎回の食事で重さを計るのは大変だから、大体の目安として覚えておけば便利というわけである。 で、炊いたご飯(白米)では55グラムに相当する。 55グラムのご飯なんて、言われても見当が付かないでしょう? 普通はそうだと思う。 ちなみに私が使っているお茶碗では、だいたい半膳弱の量。 運動量は仕事によっても大きく差が出るので、一概には言えないのだが、大人の人間が生きてゆくのに最低限必要な基礎代謝というエネルギー量は1200キロカロリーくらいだ。 だから、それに運動量を加算した量を超えれば、当然太ってゆくのである。

ご飯を一日3回食べたとして、それが私のご飯茶碗一膳でも、160キロカロリー×3で480キロカロリーだ。 つまり、ずっとデスクワークしていたら、一日の必要量の3分の一になってしまう。 当然おかずやおやつまで入れたら、どうなってゆくのか、想像は容易。

別に神経質になる必要はないし、美味しく食べることが一番に違いないけれど、一度、ご自分が毎日使っているお茶碗でご飯を55グラム分だけ計ってみると、面白いと思う。 それだけでも随分意識が変わるはずだ。 食品パッケージの栄養分析表や、コンビニ商品の熱量案内、缶ビールのカロリー表示に目が届くようになる頃には、痩せられる日もだいぶ近付いているのではないかと思う。

キッチン・スケールをお持ちなら、興味本位で一度計ってみることをオススメしたい。

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2006.10.16

・・の、ようなもの。

秋の夜は静かだ。 近くの山から聞こえる鹿の鳴き声や、ゴソゴソと庭で何かを漁る猪の鼻息や鳴き声、ピークを過ぎてどこか弱々しい虫の鳴き声を除けば、人工的な音は全く聞こえてこない。 そんな中で響くのは、屋根の上から時折聞こえるポトリと何かが落下する音。 この建物の周囲には「どんぐりのなる木」が多いので、実ったどんぐりが時々落ちてくるのだ。 風が吹けば続けて、そうでなければある程度の間隔を置いて、ポトッ、ポトッ。 この音が響くと、秋だなあ、と、しみじみする。

『ますたあ』が夏の間に庭に茂った雑草を、苅払い機(小さなエンジンを搭載した除草機)で刈り取ってくれている。 以前にも書いた「コンポストの傍にいつの間にか生えてきたカボチャ」を、どうするか尋ねてきた。 このまんま育てるか、さもなければ他の雑草と同じ扱いで刈ってしまうか、という選択だ。 観察していると、葉っぱの表面に白カビ病が出ているし、実もそんなに大きく育っていないので、自然に任せておいても近いうちに枯れてしまいそうだと判断して、刈ってもらうことにした。 未熟な握りこぶしくらいの薄緑色をした実が、5つも付いていた。(いつの間に・・。)

ちょっと考えたのだが、カボチャの仲間で未熟な実の野菜、と言えば、ズッキーニである。 だとすれば、これも食べられるのではないか、と、思いついた。 ダメで元々の気分で、とりあえず野菜炒めに入れてみたら、特別に美味しいと言うほどのことも無いが、違和感無く食べられる。 癖も全く無い。 歯ごたえや香りはズッキーニにそっくり! 夕飯には油揚げと一緒にお味噌汁の具に。 これまたしっくりと馴染んで、新種の野菜みたいだ。 皮も剥かず、種も柔らかいので、本当にそのまんま切っただけ。 なんとありがたい、手の掛からない野菜だろう! しかも無農薬。

まだ手元に2個残っている。 明日はどうやって食べようかと思いを巡らせながら、思いもよらなかった食材を楽しんでいる。 以前にもただ単に似ているからという理由で、レタスの外側の葉でロールキャベツ(正しくはロールレタスか)を作ってみたり、ラタトゥイユを作るのにズッキーニの代わりにキュウリを使ってみたり。 それでも何とかなってしまうことがほとんどなのが不思議だ。 「○○のようなもの」という第一印象は、案外馬鹿にできないものなのかもしれない。 

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2006.10.15

真実は何処に

義父と話していると、会話の初めと終わりでは話している内容も登場人物も、いつの間にか変わっていることがよくある。 特にちょっと長い内容を義父一人が喋り続け、こちらが相槌を打っているだけのような場合に多い。 これは認知症のある方と会話しているケースでは、度々起こってくることだと知ってはいるものの、判っていてもやっぱりこちらは混乱する。 「あまり真剣に聞かなければ良い」なんて書いている人もあるけれど、それもちょっと違う気がするので、なるべくセンテンスを短くするような会話に誘導している。 つまり、できるだけ具体的に尋ねたり、話しかけたりするのだ。 「食事はどう?」、と、尋ねるよりも、「お昼ごはんは美味しかった?」という具合。

義父の側から自主的に何かを訴えたい場合には、特に難しい。 車椅子生活の義父は、下半身の運動量が少ないから、どうしても足先に浮腫みが出易い。 で、ゴムの強い靴下は嫌だという事をこちらに伝えたかったようだ。 ところが、いきなり足元を見ながら「痛いんだよな」、で、始まる。
「どこか引っかき傷でも作った?」
「怪我は無いだろう? お風呂上りに着替えた時かな。 お風呂から出ると着替えさせてくれるんだよな。」
「うん。」
「そうじゃなくてさ。」
「そうじゃないの? 着替えたんでしょう?」
「そう。」
「着替えさせてもらう時に、ぶつけた?」
「ぶつけてなんかいないさ。」
「??でも、痛いのね。」
「そう、痛いんだな。 でね、お風呂上りにね、着替えたんだよ。」
「痛いのはどこなの?」
「どこなのかな?」
「・・・(絶句) じゃあ痛いところ手で触ってみて。」

何だか、漫才だ。 義父の言いたいことは何なのか、四苦八苦しながら聞き出さなくてはならない。 すごく精神力と集中力を問われている気分になる。 結局、浮腫んでいるので靴下をゴムのきつくないものに変えて欲しい、という訴えを受け取るまでに、ずいぶんと時間を要した。 それでも、内容が判る時にはありがたいのだが、結局最後まで判らずじまいのことも多くて、義父も大変だろうが、こちらも悶々としてしまったりして。

何だかいつも可笑しくて、そして、同じくらい切ないのである。

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2006.10.14

んー、がんばってみるよ

セロリは時々「いったいどうしたのか?」という値段で売られている。 大きな株が100円、とかのことだ。 ワサワサと葉っぱを茂らせて軸も緑色になっているような露地物は、香りが強いだけに敬遠されるのかとも思う。 これは安いな、とまずは思い、すぐに、でもこんなにあってもなあ・・という考えがよぎる。 洋食の基本的3大香味野菜は人参・タマネギ・セロリで、とにかくスープを引くのもこれが無ければ始まらないといった扱いだから、メモリアで商売をしていた時は、それこそ湯水のように使っていたが、今ではすっかり一般主婦の感覚に戻りつつあるので、いくら安くてもあまりに大量のセロリはさすがに躊躇する。

スープで煮たり、カレーやシチューにするのはもちろんのこと、これからの季節はおでんもなかなかいける。 練り物の匂いを和らげてくれる。 外側の軸はみじん切りにしてミートソースやトマトソースに入れたり、ハンバーグのタネに混ぜ込んだり。 葉っぱは佃煮風の当座煮やかき揚げ。 もちろんサラダや単にマヨネーズをつけて食べるのも美味しいが、ちょっと目先を変えたい時にこんな手をどうぞ。

セロリのゴマ風味

材料   セロリの軸     2本
      塩          小さじ半分
      胡麻油       小さじ1
      黄色いパプリカ   お好みで半個くらい

1・セロリは葉を除き大まかに筋を取ってから、3~5センチの長さ、幅7ミリほどに切りそろえる。 パプリカを使う場合は、セロリと同じくらいに切りそろえるか、またはアラレ切り。
2・鍋にたっぷりの湯を沸かし、塩小さじ1(分量外)を加え、再沸騰させる。
3・切ったセロリとパプリカを鍋に一気に入れて、さっと混ぜ、再沸騰する前にザルにあげる。 ちょっとセロリが透明感を持つ感じになる。 そのまま冷ます。 余裕があれば氷水に取ればベストだし、うちわで扇いでも、冬なら放置でも。
4・ボウルに移して塩と胡麻油をまぶす。
5・完全に冷めたら蓋付き容器に移し、冷蔵庫で最低30分冷やし馴染ませる。

すごく日持ちする! 今までの経験では、2週間くらいはいけるので、セロリの鮮度が落ちる前に作っておくと便利。 塩加減はお好みで調整を。 きっと旨味調味料を振っても美味しいんだろうと思う。 セロリ特有の香りが薄まるので、苦手な方でも案外召し上がってしまうみたい。 生ではバリバリとした歯触りがちょっと穏やかになるので、年配者にも好評だ。 好みで唐辛子や荒挽き粒胡椒をかけても趣が変わる。 「浅漬けの素」を使って漬け込んでもそれなりに美味しいのだが、旨味が強すぎる感じが、個人的にはあまり好みではないので、いつも簡単にこの手で済ませてしまっている。
 

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2006.10.13

OFFってことで

特別に何が起きたわけではありませんが、
なんだかちょっと「自分で自分が思うようではない」感覚があるので、
もう一日書き込みをお休みさせていただきます。

お許し、ご了承ください。
                    リーボー

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2006.10.11

「洗面台に・・」

私は身体の奥で子宮筋腫を育てているので、定期的に婦人科に受診して、育ち具合をチェックしてもらっている。 誰もそんなものをより好んで育てている人も居ないだろうが、いまや女性の3~4人にひとりは、いつの間にか飼い主になってしまっているというご時世で、同性の友人にも飼い主仲間には事欠かない。

筋腫は悪性化することも無いので、小さくまとまって静かにしていてくれる分にはあまり困らない。 が、育ってくると、また、発生した場所や数によってはいろいろと面倒なことになる。 当たり前のように、飼い主達の自覚症状は様々で、飼い主同士の話も賑やかしい感じだ。 「こないだ婦人科に行ったらさ・・」とか「漢方って効く?」とか。 元々女なんて話好きな人が多いせいもあって、あっけらかんとしたもの。 ウェブ上にたくさんの情報が流れているというのに、それでも友人の体験談を実際に耳にするのは、特別な価値があるように思えて不思議。 それにやっぱり面白い。

今までこれといって存在感を示さなかった私の筋腫も、ついに貧血という状態をプレゼントしてくれた。 経血量が増えて造血機能が追いつかないのだ。 
「いや出血量が多くたって、たくさん作れば問題にはならないんですけどね。」と、主治医。
そりゃあ、そうだ。 だからがんばって鉄分の多い食事を作っているんじゃないか。
「うーん、まあ言うなれば・・」神妙な顔で何を続けるかと思ったら、
「洗面台の栓を抜いたまま、ジャージャーお湯出しっぱなしにしているようなものですからね。」
すごい例えに、思わず声を出して笑ってしまった。 ええ、よくわかります、その感じ。

筋腫は閉経すれば縮小することがほとんどである。 残り時間はそんなに長くないから、そんなに焦って育たないで頂戴と、だましだまし付き合っている。 あー女って、やっぱり面倒くさい。

 

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2006.10.10

「経済」は昔から苦手

別に特別な訳も無く、無性にホットケーキ(パンケーキ)が食べたくなったので、お手軽にホットケーキ・ミックスを買ってきた。 タイミング良く安売りで大袋189円。 中に200グラムずつの小袋が3つ入っている。

小袋をひとつ取り出して生地を作り、直径10センチほどのホットケーキに焼いていったら、9枚焼けた。 ホカホカでぷわぷわのホットケーキに自分で煮たブルーベリーを添えて、1枚だけ一気に食べた。 すごく満足した。 残りは朝食にでも、と、思って、ラップで包んで冷凍庫へ。

紅茶を飲み終えてから、ふと思いついて電卓を叩くと、ホットケーキは1枚7円だ。 卵と牛乳とガス代を加えても10円には届かないだろう。 なんだかカックンと気が抜けた。 これに私の人件費が上乗せされたら、いくらになるのだろうか?と考えた。

経済って、どうしても私には概念が掴めない。 頭では理解していても、どうもしっくりと馴染まないのだ。 ホットケーキを食べながら確認できたこと、それは、満足度の具合とお金はいつもつりあっているとは限らないということだけだった。

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2006.10.08

プライド

テレビ東京の「田舎に泊まろう!」という番組に、鈴木康博さんが出演すると知ってから、ずっと心の中は乱れまくっていた。 この番組は、出演者が見ず知らずの地方都市へ当てもなく出かけていって、そこで知り合った方のお宅に民泊をお願いし、お礼に家業を手伝ったり自分に出来ることをしながら交流を深める、という、旅番組プラス小さなドキュメンタリーといった番組らしい。

実はあまりちゃんと見たことはないのだが、宿泊先となるホスト・ファミリーと成るべく一般市民を交渉して、「今夜泊めてください」といきなりお願いする時には、必ず「自分が誰であるか」を相手に明確に示す必要があるわけで、例えば役者さんだったら代表作を言ってみたり、自分の経歴の中から世間の認知度の高そうなものを相手に提示して、「アー、あの人ですか。」と思わせる素材が必要になるようだった。

鈴木康博さんはミュージシャンだ。 ギタリストともいえるし、コンポーザーでもある。 そして、あのOFF COURSEを小田和正さんとともに構成した中心的人物でもある。 本当のところは良く知らないけれど、一応、小田さんばかりにスポットライトが浴びせられ続けたことを、鈴木さんのプライドが許さなかったことで、鈴木さんがオフコースから脱退し、やがてはバンド解散に繋がったとされている。 まあ、みんな若かったし、高度成長期に乗っかって社会も大きく動いていた時代だったから、それこそ「いろいろ」あったのだと思う。 とにかく本当のところは、本人たちにしか解らないということだけは、確かなんだろう。

で、鈴木康博さんが「田舎に泊まろう!」に出演するということは、つまり、「元オフコースの鈴木です」とか自分で説明しなくてはいけない状況が必ずVTRに収められるわけで、多分、鈴木さんは「いかに自分を知らない人々がたくさん存在しているか」とか「知名度が高くないか」などの困難を乗り越えて、宿泊先を探さなくてはならない。 プライドをずたずたにされて、単なる独りの等身大の人間として、初対面の相手と交渉しなくてはならないわけだ。

私はこの番組を見るべきか見ないでおくべきか、心底迷った。 小田和正さんが出演するのだったら(絶対に出演しないと思うけれど・・)、多分迷わず見たと思う。 小田さんがプライドを捨てて勝負している姿は、毎年年末にTBSが放映してくれていたから、徐々に見慣れるような感覚があったし、自分の小田さんへの思い入れ(?)を考えれば、ある意味、全てを受け入れられるような錯覚も持ち合わせていて、カッコ悪い小田さんを見てもそれを受け入れられるだけの度量がある、と自分で判断できるのだ。

しかし、鈴木さんとなると微妙で、思い入れも小田さんに対してに比べれば弱いし、プライド云々でオフコースを去った人が、今更プライドをかなぐり捨てる様子も、正直言って見たくはないし、出来れば強がりであったとしても、プライド高いままで貫いて欲しいと思っている。 そんなことはないのだろうが、ついつい、「YASSさん、お金に困ってるのかなあ」とか、「そうまでして仕事が欲しいのかな」とか、本当に憶測のまま余計なことを考えてしまうのだ。(非常に失礼なことなのに。)

ずっと考えて、さんざんに迷った挙句、結局テレビは見ないことにした。 多分、プライドを捨てられなかったのは、鈴木康博さんではなくて、私なのだ。 彼にプライド高いままで居て欲しいというエゴを、断ち切ることができなかったんだと思う。 私は、鈴木さんの弱い顔を見たくなかったし、それを受け入れるだけの度量を持ち合わせていないのだ。 そんなことに気がついたら、無性に哀しかった。 なんだかため息が続いた。

たかが一本のテレビ番組で、こんなにも心をかき乱されたのは、初めてだった気がする。 オン・エアーはついさっき終わったばかりのはず。 オフコースのファンだった人達がどんな想いでこの番組を見ていたのか、後で検索して覗いてみたい。

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2006.10.07

月見酒

透き通ったきれいな空に満月が昇った。

夕食の支度を終えてから、ジムに出かけた『ますたあ』の帰りを待ちながら、ひとりで月の光に照らされつつ、のんびりと日本酒を傾けた。

月が冷やしたような秋の空気も、粋な肴だ。 いろいろなことを断片的に心に思い浮かべながら、気がつけば一合近くすいすい呑んでしまっていた。

とっても美味しく感じたが、来るか来ないか判らない相手を待っているという状況だったら、より一層趣深いお酒になったかもしれないな、と、少々贅沢なことを思った。

『ますたあ』、ゴメン。

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2006.10.06

満月は雨雲の上

台風崩れの低気圧が秋雨前線に張り付いたお陰で、風が強い上にどしゃ降りだ。 窓ガラスを流れる雨水で、外の景色が穏やかに歪んでいる。

今夜は確か「中秋の名月」だったはずだが、これでは無理だろう。 満月なんて定期的にあるのだし、満月だからといって特別なことがあるわけでもないと知っているけれど、お酒をゆっくり飲みながら、のんびり上ってゆく月を見上げつつ丁寧に酔ってゆくと、なんだかこんな自分にも平安時代の貴族たちのDNAの断片が引き継がれているようで、悪い気はしない。 自分の中に日本人らしさを見出す、数少ない機会だ。 細木数子さんがいつかテレビで「女の人は悲しくなったりマイナー思考に陥りやすいから、あまり長時間月を見ないほうが良いのよ」と、言っていたけれど、なんだか自分には太陽よりも月の方がしっくり来るし、例えばタロットのリーディングを頼まれたような時は、月を見上げてから行なうと、精度が格段に上がることを身に沁みて感じているので、どちらかと言えば親しみやすい印象が強い。 この辺りではススキがたくさん穂を出しているから、わざわざ飾って月にお供えしたりすることもなく、借景で済ませてしまうのが常。 気が向けばお団子くらいは作ったりもする。 今日は雨でススキの穂もしっぽりと濡れて、重たそうに頭を下げている。 お互い、まん丸のお月さんに逢えそうも無くて残念だよね。

懐かしい友人から手紙が届いた。 「最近恋してる?」とだけ、絵葉書に書いてある。 さて、どんな返事を書いてやろうかな・・私の中のいたずらっ子の血が騒ぎだした。

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2006.10.05

切なさの扱い方

切ないという気持ちは不思議だ。 何の前触れもなくいきなり押し寄せるように襲ってきて、合理的・現実的な考えを押さえ込み、心の中心に居座ってしまう。 きっかけはいろいろで、例えば音だったり景色だったり匂いだったり、ニュースだったり経験だったり恋だったりもするけれど、胸の奥で雪崩が起きるような感覚はいつも同じだ。 「ヤバイ!」と気付いた時には、もう既に遅い。

高校生の頃は毎日が切なくて、どうしたらいいのかと本気で考えていた。 こんな気持ちのままでこれからの長い人生をすごしてゆくのかと思うと、気が遠くなりそうだった。 それだけ物事への感受性が敏感だったのかもしれないが、自分でくたびれてしまうほどに心に切なさがどっかりと座り込んでいる感じだった。 それからだんだんと大人になって、いつの間にか切なさをコントロールし始めた。 社会生活には切なさは邪魔な場合が多かったし。 だから、とりあえず日々の切なさは圧縮して心の奥の小さな箱に次々放り込んでおくようになった。 いちいち相手をしている暇はない。

切なさの存在を忘れてしばらく経った頃になると、休日の夕方なんかに何かのきっかけでぽっかりと箱の蓋が開いて、勝手に解凍されて、どどどーっと押し寄せてくる。 もうどうすることも出来ないから、切なさを相手にちょっと酔っ払ってみたり、ぼんやりひとつひとつの切なさを思い出してみたり、切ない時に聴きたくなる音楽をかけてみたりしながら過ごす。 切なさに乗っ取られている自分も、不快ではないのが不思議だ。

多分、充電電池みたいなものなんだろうな、と思う。 溜め込みすぎて爆発しないように、時々放電しているんだ、きっと。 切なさを感じなくなったって、別に日常生活に困ることも無いとは思うが、どうも「自分らしさ」を作る原料のような気がするので、やっぱり日々せっせと圧縮しては溜め込んでいる。

夏の終わりから今時分にかけては、溜め込む量がどうも多いみたい。 季節なんて関係なさそうに思えるのだけれども。 これだけ長い付き合いなのに、どうも切なさのことをよくわかっていないみたいで、ちょっとだけ悔しい。

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2006.10.04

イベリコ豚

食べてみた。

この豚の醍醐味は脂だと思った。

イベリコ豚のバラ肉で「豚の角煮」とか沖縄料理の「ラフテー」を作ったら、
さぞかし美味しいものが出来るだろうな・・なんて考えながら。

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2006.10.03

気が抜けても

一昨日のこと。 夕食時にたまたま飲んでいた発泡酒を飲み残してしまった。 こんなことは滅多に無いことを断っておくけれど、飲み始めてから「どうやら今夜の身体はアルコールを拒否している」ことが判ったので、その時点で飲むのを止めて、結果として100cc程度の発泡酒が残ることになった。 さて、どうしようかと迷ったが、考えるのも面倒だったので、缶のまま冷蔵庫へ。

ずっと前、エビス缶をお風呂上りに飲んでいたら電話が掛かってきて、そのまんま飲むのを忘れ去ってしまい、同様に冷蔵庫に入れておいたことがあった。 次の日、仕事を終えてから恐る恐る飲んでみると、炭酸は完全に抜けていたが、「風変わりなモルト飲料」といった感じで、決して不味くはなかった。 思ったよりもいけるじゃん!、と、感じた。 それから近年では膝を脱臼した時に、一日にモルツを半缶ずつ飲んで、残りを翌日分として残しておいたことも記憶に新しい。 この場合はプラスチック製の蓋をぴっちりと閉めておいたから、次の夜になっても微炭酸と呼べる程度には炭酸が残っており、普通に美味しく飲んでいた。 ・・そんな経験を思い出して、まあ何とかなるだろうと、今回も安心して冷蔵庫に入れておいたのだ。

ところが、だった。 次の日に飲んだ発泡酒は「んんん??」という代物に見事に変化していた。 炭酸が抜けているのは予測の範囲内だったが、味がほとんど無い。 無味無臭とまでは言えないが、すごーくマヌケな液体。 色だけは一人前に発泡酒の色なのに。 あまりの「おマヌケな味」加減に、その場で思わず笑い出して、『ますたあ』にも味見させてしまった。 間違っちゃった番茶の出がらしみたいで、大笑い。 不思議なことに苦味成分までもがひどく薄い。

「こりゃあ珍しい!」と逆に興味本位でちびちび味わいながら、「これに炭酸を加えたら発泡酒の味になるのだろうか?」、と、真剣に悩んだ。 俄かには信じ難い不思議な液体だ。 炭酸の抜けたソーダなどが、すごく甘く感じられるのはよく知っていることだが、いやはや本当に恐るべし炭酸の力、である。 見てはいけない発泡酒の正体を見てしまったような気持ちで、胸の奥がほんのちょっと痛んだ。

今回学んだことは、炭酸の影響力の大きさと、「腐っても鯛」ならぬ「気が抜けてもビール」ということだった。 

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2006.10.02

「美味しさ」と「言葉」 その2

食べ物を紹介するメディアが発信している情報を見ていると、いつも何かとても複雑な気持ちになる。 人がどんなものを食べて、人がどんなものを作り出しているのかは、非常に興味をそそられることに違いないが、評価まで牛耳られているような気分になってしまうのである。 特にテレビでランチの特集なんて見ていると、だんだん息苦しくなってきて、「もう充分です、ごちそうさま。」

グルメ・レポーターというのもちゃんと考えると妙な言葉で、どちらかと言うと、彼らはグルメではなくグルマン(食いしん坊とか食い意地が張っている人とか言う意味になるか。)なのではないかと思う。 よーく観察していると、本当に美味しいものを食べている時と、そうでもないのに美味しそうにしている時があって、どんなレポーターでも、本当に美味しい時には言葉に詰まったり、口数が減って無口になっているのが、とても興味深い。 彼らにとってはお仕事だから、がんばって何とかして料理を褒めているつもりなのだろうが、映像を見れば一目瞭然である。 「大変なお仕事だな・・」と、ついつい同情。 一瞬を切り取るだけの写真や考え尽くしたキャプションならば、まだ誤魔化し様もあるのだろうが、ビデオだとそうもいかないみたいだ。

グルメ・レポーターの喋るたくさんの言葉よりも、「大喰い選手権」に出ていた選手が一斉に食べ始めた時の最初の一杯のほうが、よっぽど美味しさを伝えていると思ってしまった。 美味しさを表現する時に、どうも言葉という手段では不十分な気がするのは、ずっと抱いている感覚である。 美味しさはとても個人的なものであり、目の前で同じ食べ物を実際に分かち合うことのできる相手だけが、その美味しさを理解することが出来る可能性を持っているのだろう。 本来、美味しさなんて人に伝えるものではなく、美味しかったことでもたらされた喜びや幸せを伝えるべきものなのかもしれない、と、思うのだ。 食べ物が主体なのではなくて、食べ物を食べる人が主体・・そのような立場でメディアが発信してくれると、もうちょっとしっくりくる内容の番組が出来るような気もするのだが。

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2006.10.01

「美味しさ」と「言葉」 その1

出かけた帰りに沼津に寄って、久しぶりに美味しい食事をすることができた。

決して新しくはない、俗に言う「昔からある」タイプのイタリア料理店だ。 なので味も香りも調理の仕方そのものも、最近の流行とは一線を引くものがある。 これは憶測にしか過ぎないが、多分「本場の味」というよりも、店が目指しているのは日本人のためのイタリア料理だ。 いや、結果としてそうなってしまっているだけのことかもしれないけれど。

フレンチでも中華でもイタリアンでも、本当にクラシックな調理法や味を貫いているものが、今でも全面的に美味しいと受け入れられるとは限らないし、今フランスや中国、イタリアで流行っている料理が、日本人の口に100パーセント合っていることも無いだろう。 それは同様に和食にもあることで、昔の食材には癖とも呼べるほどの独自の味や香りがあっただろうし、こんなに複雑な調味料もなかっただろうし、火力だって出力が弱くて安定していなかったと思われ、器もまた然りだろう。 食べる側の文化もすごい勢いで変化している。 これだけ濃いダシや旨味を追求する時代を私は他に知らない。

誰がどんな風に何を作ろうと、美味しければそれでよいだけのことなのだが、食べる側の美味しさの基準はまちまちで、多くの人が美味しいと感じてくれる公約数の部分を拾わなくてはならないから、厳しく難しい。 昨日のお店でも某○ちゃんねるの掲示板では、書き込む人によってはボロクソの扱いである。 でも、実際に食べてみて、私はとても美味しいと感じたし、食べていて幸せだったし、非常に満足することの出来る品々だった。

外食店をランキングしていることで有名なフランスのミシュランなどは、一体どうやって客観性を維持し続けているのか、あれだけのシステムを構築すること自体が、信じられないような気持ちになる。 またその結果で、自殺したりする料理人が居たり、経済が大きく動いたりすることも、まさにアンビリーバブルな世界。

美味しいということは感覚的なもので、共通の認識があるような顔をしながら実は無いのである。 だからこそ美味しい食事を同じように美味しく感じられる同士は、親しく緊密な付き合いが出来る場合が多いのかもしれない。 このとてもあやふやで、でも、なんとなく頼らざるを得ない掴み所の無い「美味しさの概念」は、「言葉」にも非常に似ていると、昨日食べた料理を思い出しながら考えていた。

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