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2006.10.01

「美味しさ」と「言葉」 その1

出かけた帰りに沼津に寄って、久しぶりに美味しい食事をすることができた。

決して新しくはない、俗に言う「昔からある」タイプのイタリア料理店だ。 なので味も香りも調理の仕方そのものも、最近の流行とは一線を引くものがある。 これは憶測にしか過ぎないが、多分「本場の味」というよりも、店が目指しているのは日本人のためのイタリア料理だ。 いや、結果としてそうなってしまっているだけのことかもしれないけれど。

フレンチでも中華でもイタリアンでも、本当にクラシックな調理法や味を貫いているものが、今でも全面的に美味しいと受け入れられるとは限らないし、今フランスや中国、イタリアで流行っている料理が、日本人の口に100パーセント合っていることも無いだろう。 それは同様に和食にもあることで、昔の食材には癖とも呼べるほどの独自の味や香りがあっただろうし、こんなに複雑な調味料もなかっただろうし、火力だって出力が弱くて安定していなかったと思われ、器もまた然りだろう。 食べる側の文化もすごい勢いで変化している。 これだけ濃いダシや旨味を追求する時代を私は他に知らない。

誰がどんな風に何を作ろうと、美味しければそれでよいだけのことなのだが、食べる側の美味しさの基準はまちまちで、多くの人が美味しいと感じてくれる公約数の部分を拾わなくてはならないから、厳しく難しい。 昨日のお店でも某○ちゃんねるの掲示板では、書き込む人によってはボロクソの扱いである。 でも、実際に食べてみて、私はとても美味しいと感じたし、食べていて幸せだったし、非常に満足することの出来る品々だった。

外食店をランキングしていることで有名なフランスのミシュランなどは、一体どうやって客観性を維持し続けているのか、あれだけのシステムを構築すること自体が、信じられないような気持ちになる。 またその結果で、自殺したりする料理人が居たり、経済が大きく動いたりすることも、まさにアンビリーバブルな世界。

美味しいということは感覚的なもので、共通の認識があるような顔をしながら実は無いのである。 だからこそ美味しい食事を同じように美味しく感じられる同士は、親しく緊密な付き合いが出来る場合が多いのかもしれない。 このとてもあやふやで、でも、なんとなく頼らざるを得ない掴み所の無い「美味しさの概念」は、「言葉」にも非常に似ていると、昨日食べた料理を思い出しながら考えていた。

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