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2006.11.30

気軽な煮っ転がし

買い物に行って、家で作ってきたリストを見ながら「そうそう、ジャガイモを切らしていたんだっけ」と、篭に入れる。 ジャガイモのすぐ隣では真っ赤な紅アズマという甘味の強い種類のサツマイモが山積されていて、「おやつにも使えるし」と、こちらも篭に。 帰りの道すがら、畑の横にふと見つけた無人販売の棚には、コロコロと可愛い里芋と立派な八つ頭(里芋の中心に育つ親芋部分のこと)を見つけ、迷ったけれどついに両方買ってしまった。 「お芋はそんなすぐに傷むものでもないし・・」なんて言い訳しながら。 イモ・芋・いも!・・勢ぞろいだ。 並べた芋類を眺めているだけでも、いかにも晩秋という風情で絵心があればササッと描きたくなるような光景。

種類は何であれ、お芋のほっこりとした食感は、寒さが増してくるこの時期に恋しくなる。 一品食卓に乗っていると安心するような、不思議な存在感がある。

手始めにオーソドックスな里芋の煮っ転がしでも作ろうかな。

「手が痒くならない里芋の煮っ転がし」

材料  ●里芋           小型のもの12個ほど
     ●だし            1カップ
      砂糖            大さじ2と半
      日本酒・みりん・醤油  大さじ2ずつ

1・里芋は皮の外側の泥を落とし、皮のまま茹でるか蒸すか電子レンジ加熱して、「竹串がやっと通る」くらいに加熱する。 そのまま荒熱を取ってから皮を剥く。

2・だしと調味料を全て鍋に合わせ火にかけて沸騰したら、里芋を入れて落し蓋をし、再沸騰したら中火で煮含めてゆく。 煮汁が少なくなったら落し蓋を取って、鍋をゆすりながら絡ませる。 煮汁がほぼ無くなればできあがり。

生の芋を調理しないので、砂糖や醤油を時間差で入れる必要はなく、一斉で大丈夫。 手元にあれば出来上がりに柚子の皮を散らせば上品。 すぐに食べればモチモチの食感が楽しめ、翌日まで置けば中に味が染み込んでゆくので、また違った美味しさに。 思い立った時にすぐできる作り方です。

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2006.11.28

幸せなときに

鎌倉まで足を伸ばしてきたことは先日も書いた。 ピロシキを食べる以外にも他にいろいろやって(食べて?)きたので、断片的に日を改めて登場することになるだろう。 小田原を抜けて海岸沿いの国道134号線を走りながら、なんとも懐かしいような気分で車窓を眺めていた。

私は東京に住んでいたので、「海に行く」と言えば殆どの場合鎌倉や湘南近辺だった。 どうも千葉方面に行くよりも馴染みがあって行き易い。 見ていれば気が済むような場合は横浜の港近辺で過し(まだ『みなとみらい』は無かったから、よく大桟橋あたりでぼんやりしていた)、海岸に下りたかったり、実際に泳いだりしたい時には江ノ電を使った。 独りで行くこともあったけれど、大抵は誰かと一緒で、ふたりや数人のこともあれば、大勢でワイワイという時も多かった。 そんな光景がどーっと押し寄せてきて、「ああ、あんな話をしたっけ」とか「あの時は日焼けが過ぎて熱を出したな」とかそんなことから始まり、一緒にここへ来た相手たちは今頃どうしているかな、などと、とりとめもなく想っていたのだ。 海沿いのお店は様変わりしている所も多かったけれど、当時からやっている名の知れた店も何軒か残っていて、感銘を受けた。

不思議なもので、私は自分が辛い時には、大切な人のことを思い出すことがほとんど無い。 私の性格や癖や物の見方を理解している人にアドバイスでも貰えば良いのかも知れないのに、何故かそんなときに限って忘れている。 そのくせ、自分が幸せを感じているような時には、横顔や声がふっと浮かんできてびっくりする。 それも凄く幸せな時ではなくて、なんでもないような、例えば期待しないで入ったお店で偶然にも美味しい物に出会ったとか、美しいものが見れてきれいだと感じたとか、そんな言うなれば「日常の特別なんということもないような」くらいに幸せな時のことがほとんどである。 自分の心に余裕がある時とも言えそうだが、それだけの説明ではあまりに味気ないような気もする。

私自身がちょっとした幸せに触れて「ありがたいな」とか「ありがとう」とか思う気持ちと、大切な人に幸せであって欲しい気持ちは、とても近いもののように思えるのだ。 その二つが私の心の中で同時に発せられているような、そんな感じがする。 単に分かち合いたいだけではない、なにか関数を通したような回路なのだけれど。 あんまり使いたくない言葉ではあるが、「祈り」に近いような抽象的な概念が含まれているかもしれない。

自分が幸せなときに思い出すように、大切な相手にも、その人が幸せなときにちょっとだけ思い出してもらえたら嬉しいな、と、思う。 「いつも」じゃなくていいの。 「ちょっと」、ね。
 

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2006.11.27

ピロシキには掴み所が無い

先月だったか、『ますたあ』から食べたいものリクエストがあった。 ピロシキ。 内心「これは困ったことになったぞ」、と、思った。 ピロシキは私の中で、よく解らない食べ物なのである。

いや、ピロシキは何度も食べたことがあるし、ネットで検索すればレシピもたくさん見つけることができる。 カレーパンの皮に餃子の具からニンニクを除いたようなものが入っている、うっかり丸いようなアノ姿も、すぐに思い浮かべることだって出来る。 だから厳密に言えば「解らない」のではないんだろう。 では、何か。 うーん、毎回食べながら「これは正しいピロシキなんだろうか?」と、ついつい疑問を持ってしまう味に、理由があるような気がする。

どこかピントがぼやけたような、これといって香辛料が利いているわけでもなく、はっきりしない食べ物といった印象だ。 決して不味くは無いのだが、かと言って特別に美味しいという訳でもなく、「まあロシア料理を代表する食べ物のひとつだよね」くらいの感覚で、そこそこ珍しくてどこでも売っている訳でもないけれど、それもあまり残念でもないような。 大抵の料理というのは、「ははん、ここをこうすれば美味しくなるな」といった勘所のようなものがあるのだが、ピロシキにはそれが無い。 多分具材の味付けを濃くしてはっきりとすれば、もうちょっとピントが合ってくるのだろうと思うが、カレー粉を入れてしまったらカレーパンになってしまうし、ドミグラスソース味にしたらミートパンになってしまう・・わざと掴み所が無いように作らなければピロシキではなくなってしまう所が、なんとも困った存在なのだ。

先日、鎌倉へ足を伸ばした。 晩秋の鎌倉なんて思いっきりベタな旅行は、私たちの選択としてはかなり珍しい。 その理由のひとつは正に小町通りにあるピロシキ屋さんへ行くことだった。 テレビ番組でたまたま取り上げられていたらしく、ただでさえすごい人ごみの中、揚げ上がりの時間を行列で待つほどの盛況ぶり! テイクアウト専門のお店なので、私たちもしっかり並んで、2個買って、ホカホカのところを頬張ってきた。 おやつにはちょうど良い感じだが、やっぱりそんなにめちゃくちゃ美味しいということではなくて、可もなく不可もなく無難に美味しい・・。

ピロシキはあんまり美味しく作ってはいけないものなのかもしれないな、と、そんなことを思いつつ、「外で買って食べるもの」というお墨付きを与えたような気分だった。 『ますたあ』に「私にはこれを作る自信が無い。 美味しいかどうか良く解らないんだもん!」と正直に白状したら、ははは、と笑われた後で、「それは優しい味というのかも知れない。」と指摘された。

やっぱり優しさには掴み所が無いって相場が決まっているようだ。

 

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2006.11.26

スゥエ

フランス料理に「スゥエ」という調理方法がある。 多分英語圏で言えば「スエット」の「スエ」で、素材に汗をかかせるように、つまりは素材の持っている水分を引き出して、蒸し煮にするような状態を思い描いていただければ、と思う。 冬の野菜はじっくりと加熱すると甘味が引き出されて、美味しさもひとしお。 白菜も安くなってきたので、鍋に飽きたらこんな使い方はいかが?

「豚肉と白菜のスゥエ」 

材料   ●白菜      ひとり4分の1株
      ●豚ばら肉塊  ひとり80~100グラムくらい
      ●ニンニク    ひとかけ
      ●塩       ふたりに付き小さじ1弱
      ●胡椒

1・豚ばら肉はなるべく脂肪の少ないものを選び、一番外側の脂肪はそぎ落としてから、厚さ5~10ミリ程にスライス。 好みでブロック状の一口サイズにカットしてもよい。 白菜は芯を落としてから葉を重ねたまま3センチ幅にザクザク切って、白い茎と葉を分けておく。 ニンニクは薄くスライス。

2・フライパンや厚手の鍋、土鍋などを火にかけ、豚肉を脂の方から焼き付ける。 軽く押さえるようにしながら出てきた脂を鍋全体に馴染ませる。 あまりに多いようなら余分な脂はキッチンペーパーなどで吸い取って捨てる。

3・一度火を止めて、焼いた豚肉を鍋の中央に集める。 肉と鍋の隙間を埋めるような感覚で、白菜の白い部分から立てかけるように並べてゆく。 均一に少しずつ塩をぱらぱら振る。 白菜、塩、白菜、塩・・の順に。 残った隙間に葉の部分を入れる。 ここでも白菜、塩の順に。 隙間が足りなくなったら、豚肉の上に被せてもよい。 最後にスライスしたニンニクを散らす。

4・蓋をして弱めの中火にかけ、30分ほど蒸し焼きにする。 覗いて見て、火加減や加熱時間を調節。 白菜が透き通って葉の部分がクッタリするまで加熱する。

5・取り分けてからお好みで塩・胡椒をかけたり、粒マスタード、ねりからしを添えたり、柚子胡椒や七味唐辛子等でいただく。

水分は入れないので、白菜からたっぷりのジュースを引き出すためにも、塩は頻回に振りかけながら準備を。 鍋ごと食卓に出してしまっても良いと思う。 一度作ってみてコツがわかったら、4つ割りにしたカブを入れても美味しい。 大根や人参、ジャガイモなども。(ジャガイモは時間差で加熱。) ニンニクは嫌いなら入れなくても大丈夫。 鍋に残るジュースには美味しさが濃縮されているので、ご飯にかけたり、翌日スープに仕立てたりして是非活用を!

あれだけ入れた白菜は何処へ・・?というくらい、たっぷり食べられて、温まる一品です。 

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2006.11.25

郷に入れば

いきなり玄関のインターホンが鳴り、出て行ってみたら、知らないオジサンがドアの小窓から中を覗きこんでいる。 いかにも「山仕事の途中です」と服が語っているような格好で、まあ簡単に言えば泥だらけでどうなっても後悔しないような汚い作業着姿。 後ろにはエンジンをかけたままの軽トラック。

相手が顔をぶつけないようにとゆっくりドアを開けるやいなや、大声でいきなり「しし撃ってるだーよぉ。 こっちは出るかね。(『ね』のイントネーションは下がる。 同意を求めるように上がるのではなく、下がるのがこの辺りの発音。)」 ・・標準語に訳すと「私はイノシシ猟をしている者で、狩りの途中です。 お宅の庭にイノシシは出没していますか?」となるか。 先週辺りまでは夜な夜な来ていたようだが、ここ数日は来なくなった、というような内容で対応する。

こういった来訪者にも驚かなくなったし、言葉も聞き取れるようになったし、イノシシの事にも答えられるようになった自分の姿に、なんだかちょっと違和感を覚えながら、「これもある意味においては成長なんだろうか?」と、首を傾げた。 今では今回のようなオジサンの姿よりも、街ナンバーを付けたレクサスが乗り付けられた時の方がよっぽど身構える・・。

人間の適応性ってすごいかも。 未だにここでの日常の様子にどこか不思議な感覚を抱いている自分に、くすっと笑ってしまいながら、坂道を帰ってゆくオジサンの軽トラを見送った。

落ち葉を巻き上げながら軽いエンジン音を残して、秋が遠のいてゆく。 冷たい風が吹いて、身震いをしてふと我に返り、「ああ冬が来るな」と、思った。

 

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2006.11.23

由比ケ浜にて

住宅地の路地にある小さな交差点で信号待ちをしていたら、鎌倉方面からの車道を、一台の人力車が近付いて来た。 それだけでも珍しいのに、なんと乗っていたのは白無垢・角隠し姿のお嫁さんと、紋付袴を着た新郎さん。

目の前を通り過ぎてゆく様子に、思わず「おめでとうございます!!」と声をかけてしまった。 一瞬驚いてからこちらに顔を向けた新婦さんはにっこりとして手を振り、「ありがとう!」と新郎の声が残って、人力車は通り過ぎていった。

偶然の出来事に私自身がびっくりしつつ、これも何かのご縁かとおふたりのことを心の中で祈りながら、幌の掛かった荷台の後姿を見送った。

幸せのおすそ分けをちゃっかりいただいてしまったような温かな気分で・・。

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2006.11.20

初鍋

急に真冬並の寒さ、しかも雨続き。 今朝はお日様が射していたから洗濯物を外に干したのに、一時間もしない内に雲行きが怪しくなり、やっぱりしとしと雨になってしまった。 損した気分で、なんだかガックリだ。

週末にはこの冬初の鍋物をした。 と、言っても、大したものではなくてあり合わせの「寄せ鍋」である。 正直に白状すれば、まだ鍋物を作る予定ではなかったため、そのための食材が揃えられていなかった。 白菜と長ネギの持ち合わせがあったのを幸いに、あとは鍋物に使えそうな食材を片っ端から総動員させた感じ。 冷凍しておいた鶏肉、厚揚げ、エノキタケ、人参、大根の薄切り・・それでもずいぶんと温まって満足度は高かった。 やっぱりメニュー選びもタイミングが大事なんだろう。

今日は残った鍋の汁を利用して、昼食のスープに。 煮詰まった所を薄めて、新たにキャベツを煮てから溶き卵を流す。 もう何がなにやら判らないくらいに混沌としたダシ味の濃縮されたスープ・・これもまた鍋料理に残された醍醐味のひとつではある。

これからの季節は鍋物の出番が増えてゆく。 気がつくとずいぶんたっぷりの野菜を平らげてしまっていることも、鍋の効用だろう。 冷たいサラダの出番が減る時期には、鍋物や漬物で野菜の摂取を補える・・ありがたいことだと思う。

昔からの友人が珍しい入浴剤を送ってくれた。 まるで漢方薬の中に浸かっているような強烈な香りがしたけれど、身体の芯からぽかぽかに温まって汗をたくさんかいた。 鍋と入浴剤のお陰で、風邪はすっかり退散したみたいだ。 この時期に抗体を作っておけば、これから先は安心だろうか?? 

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2006.11.18

ピューレ食

今日は義父がお世話になっている施設で懇談会があった。 時間が許せばお昼に、日頃給食で出されている食事を試食させていただけるというので、できれば「刻み食」を用意して欲しいと我侭を言ってみた。 「刻み食」とは歯が弱かったり、消化器官が弱っている人のための食事で、おかずを噛み砕かなくても飲み込めるように、文字通り刻んで用意した食事だ。 要望は受け入れられて、実際に用意してくださったのは「ピューレ食」。 「ピューレ食」は「刻み食」よりもう一段上の細かさで、ほとんど噛む必要が無い状態まで滑らかにした食事である。 雰囲気としては「中期くらいの離乳食」の滑らかさを思い描いたら近いと思う。 何故わざわざ面倒なお願いをしたかというと、ひとつは、そういう食事を食べた経験がないから試してみたかったということ(義父は実際に『刻み食』をいただいている)。 もうひとつは、あちらはご商売で給食産業をなさっているのだから、普通の食事を普通にいただいたら、絶対そこそこの食事は用意されてくるに決まっていると考えたのだ。 「すごーく美味しい!」とまではいかなくても、「普通に美味しい」だろうと思った。 だから、ちゃんと考えて作ったり調味したりしないと美味しくならない食事をお願いすることによって、プロの姿勢を見せて欲しかった。

メニューはご飯、とろろ昆布のお吸い物、キャベツの千切り・トマトが添えられた豚のしょうが焼き、カブと油揚げの煮物、それにホウレンソウのお浸しだった。 「ピューレ食」のご飯は全粥になっており、あとのものは見ただけではメニューが解らないような完全なピューレ。 豚肉はピューレにしてから改めてトロミをつけて滑らかなペースト状にまとめてある。 面白かったのはトマトで、無添加のトマトジュースがピンポン球のようなまん丸のゼリーに固められていた。 白いフレンチドレッシングを入れた小皿の中に、真っ赤なピンポン球・・それがトマトだったのでびっくり!! 斬新なデザインで芸術的なひと皿だ。

恐る恐る一口ずつ食べ始めてみると、確かにそれぞれの味がするし、香りもしっかりしている。 滑らかにすればするほど舌の表面に広がるから、塩味の調整が難しいと想像していたのだが、その分ダシが使われているようで、あっさりと優しい味付けにまとまっていた。 滑らかな豚のしょうが焼きというのも、頭が慣れていないので不思議な感じがするのは否めないが、味は確かに美味しい。 うーん、さすがはプロだなあ、と、脱帽。 とても勉強になった。 ただし、視覚と味覚のギャップで、なんだか違う意味の『食べ疲れ』が起きた。 そのせいもあってか、すぐにお腹一杯に。

確かに身体上の都合で、このような食事を毎回摂らなくてはいけないとしたら、それはそれで苦痛なのだろうけれど、この味とこの食感ならそれでも充分に自分は我慢ができるだろうと、思った。 視覚と味覚のギャップだけを、慣れによって埋めることが出来さえすれば大丈夫そうだ。

「今日は試食会なので、気合を入れて作ってくださったようです。」と、施設長さんが半分冗談っぽく言っておられたが、確かによく出来た「ピューレ食」だった。 何事も経験・・勉強になった昼食。 

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2006.11.17

ブリの季節

寒さが増してくると、そして、年末が近付くと美味しくなる魚・・それがブリだ。 脂がのってコッテリとした美味しさは冬の食卓にぴったり。 身は身で、アラはアラで、捨てる所が無いのも嬉しい。 どんどん美味しくなる大根との組み合わせは、他の追随を許さないなんだか神々しい印象すらある。

今夜はまだ風邪が抜け切れていないこともあって、手軽にフライパンで「鍋照り焼き」。

ブリのフライパン照り焼き 2人分

材料 ブリの切り身  2枚
    (あれば根しょうが 適宜)
    醤油       25cc
    みりん      25cc
    酒         25cc
    砂糖       大さじ半分
    長ネギ      一本分

1・フライパンを熱して、強めの中火でブリと3センチに切った長ネギを焼く。 ブリは両面に焦げ目がつくように一度ひっくり返す。 ネギはころころ転がすように。 箸で触ってネギに軟らかさを感じるように火が通ったら、皿に取り出す。 ブリだけが残ったフライパンに水50ccを注いで、沸騰したら、シンクでフライパンの蓋を使いブリを押さえるようにして水だけを捨てる。

2・改めてレンジの上にフライパンを戻したら、醤油・みりん・酒・砂糖・あれば根しょうがのスライスを加え、ブリに絡めるように焼き付ける。 煮汁がトロリとしてきたら、ブリを皿に盛り付け、残った煮汁をかけて盛り付ける。 ネギはブリの左手前に。 根しょうがはブリの上またはネギの傍に。

長ネギの他にも下茹でしたゴボウやレンコン、カブでも。 もちろんワケギでも美味しい。 鮮度の高い「良いブリ」だったら、水を加えて捨てる手間は省いても大丈夫。

炊き立ての新米に良く合うおかず。 さささっと日本の味。

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2006.11.16

どこで貰ってきたかな

どうやら体が風邪のアタックを受けているらしい。 どうも一週間ほど前から、どことなくギクシャクしているとでも言おうか、体のひとつひとつの器官のバランスがとれていないような妙な感覚があって、昨日になって自分の体のウィーク・ポイントに症状が集まり、ついに今日は発熱した。 風邪をひくのも、熱を出すのも久しぶりのこと。 喉の奥と同じように、なぜか心までイガイガするので、思い切って全て投げ出して午後はずっとうとうとと眠ったり、肩の凝らないエッセイなどを少し読んだりして、「少しくらい頼りなくても良いから優しい物に包まれて」過ごすようにした。 窓の外では気の早い木枯らしが、ずっと吹き荒れていた。 紅茶を淹れようとお湯を沸かしたら、厨房の窓ガラスが曇った。 先週までの暖かさがずいぶん昔のことで幻のような感覚に陥る。 現実だったんだと実感が持てるように、逢っていた方々のことを思い出しながら、自分を納得させていた。

こんな時でもちゃんと食欲はある。 作るのは面倒臭いが、食べれば美味しい。 汁よりも具が多いような「キャベツとエノキタケをブイヨンで煮込んだスープ」を飲んで(食べて?)、ほんのちょっとウィスキーを飲んで余計な思考を止めたら、ずいぶん気が楽になった。 アタックに対する防御は、心さえ邪魔をしなければ、身体が適当に対処してくれることだろう。 ささっとお風呂で温まって、早めに寝ることにしておこう。

なんだか巷では、そこそこに流行っているらしい。 ・・どうぞ皆様も気をつけて。

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2006.11.14

お別れの儀式

所属するカトリック教会の信者さんが昇天され、仏教で言う所の「お通夜」が行なわれたので参列させていただいた。 いくら「キリストを通して永遠の命に結ばれ」、「昇天された方が幸せな場所に昇っている」と信じていても、やはり現世のお別れは辛いことに変わりが無い。 年老いた奥様を見送ったご主人様が、小さく背中を丸めておられるのを見たら涙が溢れてしまった。

基本的にはキリスト教の葬儀は、俗に言う『お悔やみ』とは一線を画すものがある。 故人が神様の元へ戻り、キリストに倣って永遠の命に与り、俗世間に生きる我々の間を自由に行き来しながら必要な支えやメッセージを与えてくださるような存在になる。 つまりは第二の人生の出発点であり、基本的にはお祝いの要素が多い。 これを感覚的に理解できるかどうかは、人によっていろいろだろうと思うけれど、儀式の進行そのものもどこか割り切った、あっけらかんとした雰囲気がある。 仏式の儀式の「お坊さんの読経」は理解が難しいけれど、「神父様による聖書の言葉」は標準語だから意味が解るというのも、敷居が低く感じられる要因かもしれない。 泣きながらも希望を持っている、そんな印象だ。 仏教では「お焼香」だがキリスト教では「献花」。 お花と祈りを故人に手向ける。 花の持つ無邪気な美しさやけなげさや優しそうな印象も、儀式の根本を華やかにすることに一役かっているだろうか。 今日はほんのりピンク色の清楚なカーネーションだった。

お亡くなりになった方は、棺の中で綺麗な美しいお顔をなさっていた。 病や老いの苦しみから解放されて、もう既に伸びやかに晴れ晴れした場所に昇られているのだろうと、参列者を納得させるのには、充分なお顔立ちに見えた。 なんだか、ふと、自分もあんな顔を残して死ねたら良いな、と、思った。

このところ、どういう訳か悲しいお知らせが続いている。 こういうことって続くものだよな、季節の変わり目ってやっぱり何かあるのかな・・とか思いつつ、ちょっと気が滅入り気味・・。

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2006.11.13

変ですよ

学校長先生が自殺しちゃったら、他の先生方だって生徒たちに「自殺してはいけません」なんて言えなくなってしまうでしょ。
そんな間違ったお手本見せて、なにが『責任を取って・・』ですか!
教育者ならもっと冷静に責任の取り方を選んでいただきたい。

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2006.11.12

冬の気配を感じつつ

急に冷え込んできた。

「もう11月だもんね・・」などと、『ますたあ』と話す。 今までが暖かすぎたのでそちらに身体が慣れてしまい、ギャップが辛い感じだ。 箪笥の引き出しに入れておきながら今まで出番がなかったウールのセーターや保温性の高い肌着なども、ようやく出番が回ってきた。 冬は着実に近付いている、と、肝に銘じて身構える。

昨日の嵐(雷・強風・激しい雨)で、アプローチの道路は落ち葉で埋め尽くされていた。 すっきりと晴れて乾いた所を竹箒で掃いてゆく。 地面の上では落ち葉に混じって真っ青なりんどうの花。 りんどうもいろいろな種類があるらしく、素人の私は全く見分けがつかないのだが、詳しい方によれば「ミヤマリンドウ」という種類らしい。 地面に這うようにひっそりと茎を伸ばしている。 雨上がりの真っ青な空を、そのまんま花びらの窪みに溜め込んだような鮮やかな青い色の花・・箒の手を休めてしばし見とれてしまうほどの美しさだ。

お昼は味噌仕立てのけんちん汁を煮て、うどんを煮込んだ「けんちんうどん」に。 サツマイモや大根などたっぷりの根菜類で、すっかり冬の味。 ついでに唐辛子もたっぷり振って温まった。 けんちん汁は冷蔵庫内の半端野菜の片づけにも一役かっていてありがたい。

紅茶の茶葉を一缶飲み終えたので、新しいものを開封する。 私の価値観においてはアーグレイは冬の紅茶に分類されているので、お気に入りのメーカーの物を大切にとって置いてあるのだが、今回はまだアールグレイには早いような気がしたので、とりあえずウバを選んだ。 濃い色・濃い渋み・濃い香り。 牛乳を多めに入れてほっこりと午後のお茶を楽しんだ。 これからはチャイなどで出番も増えてゆくことだろう。

だんだん「しっかりした味のもの」が食卓に増えてゆく。 体は一足先に冬の訪れを、既に感じているようだ。 まるで「体脂肪を蓄えておきましょうよ」と指示されているかのように、食べ物が美味しい。 そうは言われましても、人間社会においてはあまり太らないことに価値が置かれていましてね・・と、なだめなだめしながらウォーキングで気を紛らわせている。 筋肉を増やして脂肪を減らすのは、なかなか難しい。 甘えそうな自分に渇を入れなくては、な。

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2006.11.11

「無理だね」と言われそうだ

某自動車保険会社のテレビ・コマーシャルで、元レーシング・ドライバーの中嶋悟さんが、事故った直後に平静に戻れる自信がありますか?、というような質問に答えて、一言カメラ目線で言い放っている。 「無理だね」と。 要するにプロのドライバーだって無理なんだから、一般人の皆さんはさぞかし・・みたいなことを伝えたいのであるが、どうも私はこれを見ると不覚にも笑ってしまう。 それは中嶋さんの声と喋り方が「どこか安っぽくて嘘くさい」(失礼!!)からだ。(あくまでも声と喋り方の問題であって、話している中身の問題ではないです、あしからず。) 中嶋さんは時々モーター・スポーツの解説などもなさっておいでなのだが、どうも重厚な感じがしないというか、「それ、本当ですかあ?」と眉唾ものに聞こえてしまう。 きっと損しているだろうな、と思われる喋り方だ。

発声と滑舌の具合は、相手に会話の内容を理解させたり気持ちを伝えるために、大変大きなポイントとなる。 例えば時事ネタのニュース原稿を読むような場合、低めの声でしっかりと発声すれば信憑性が在ると聞き取る人が増える。 だからアナウンサーは硬いニュースの際は声のトーンを落とす人が多い。 最近はみんながモバイルを使うから、電話口で大きな声を出すと周囲の人に迷惑になると、普段から口先だけで喉を浅く使うような発声で話している方が目立つ。 実はそのような話し方は、マイクを通していようがいまいが関係なく、相手に伝わりにくいことが多い。 単に聞き取りづらいだけではなく、内容や感情までもが伝わりにくいのだ。 しっかりした発声の出来ていない声優さんや舞台俳優さんなどを思い出せば、その差は一目(いや『一声』か)瞭然だと思う。

先日たまたま友人達と居酒屋で飲んでいた。 店の天井も低く、時間が遅くなるにつれて他の客たちも酔ってくるから、店全体がうるさくざわついた雰囲気になってくるのは仕方が無い。 その中でたまたま声を使う経験を持っていたり、現役で発声を必要とする友人達とのお喋りは、聞いていて耳が楽で、酔っ払ってきても認知度が低下しなかったのだ。 それは単に気の置けない仲間との会話だったからだけではなく、客観的に大きな違いが含まれていることを感じながら時間を過ごしていた。 内心「やっぱり違いがあるよな」と思いつつ。

今やインターネット・ラジオでさえ個人で発信できる世の中な訳だが、中には聞くに堪えないようなチャンネルもたくさんあって、内容云々以前の問題として、「他人に聞かせる話し方」とは思えないようなレベルのものもしっかり含まれている。 どうせ聞かせたいなら、聞いてもらえるような放送を作るためにも、どこかでちょっとだけ発声や滑舌についてレクチャーなり訓練なりを聞きかじってみる事をオススメしたい。

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2006.11.10

脈絡なし

ちょっとパタパタしていたので、更新を連続でお休みさせてもらいました。

お墓掃除を兼ねて、気になっていたお墓参りへ。 ウチの家のお墓は大きな霊園墓地の中にあって、そこには有名人の大きなお墓もあったりするのですが、一番目立っているのは何といっても尾崎豊さんのもの。 大きな記念碑のような墓石の前には、彼を慕うファンの方々が後を絶たない様子で、ビールだのタバコだの大きなお花だのが、いつ行ってもたくさん供えられています。 今日は真っ赤なポインセチアの鉢植えが8つくらい、墓石を囲むように並べられていまして、いつもにも増して異彩を放っておりました。 何だかそこだけは墓地じゃなくて、クリスマスしてました。(故尾崎豊さんの宗教については、私は知りません。) でも、ポインセチアをお墓に供えるって、どうよ? それとも何かそういう唄があったのだろうか・・?

帰りの新幹線でのこと。 禁煙車両に乗っていたら、座席で赤ちゃんのおむつ交換をしている人が居ました。 信じられない・・母と子に一体何が起きたというのか? 見てはいけないものを見てしまったような気分でした。

新横浜から乗ってきた、英語を話す外国人若い男性3人組が手にしていた飲み物。 ひとり目はスーパー・ドライ、2人目はカルピス・ウォーター、3人目は「おーい、お茶。」 日本人以上に日本的な3種類。 通ですな。

帰ってきたばかりのせいか、なんだか頭の中がまとまりません。 今夜はこれにて失礼します。

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2006.11.06

死って何でしょう?

看護学の授業には「死が差し迫った患者への看護」という項目があった。 死を目前にした生体が示す反応(例えば独特の呼吸であるとか、意識レベルの変化であるとか)を学び、患者本人とご家族とが安らかに死を迎えられるようにサポートするというものである。 例えば日本には「死に水」という習慣があって、亡くなりそうな方の唇を水を含ませた綿で湿らせる(本来は綿から水を吸い取ってもらって飲ませるというものらしい)とか、キリスト教の信者であれば特別な祈りがあるとか、そういったことを初めて知った。

完治を望めないような病を患っている場合、死への道は一方通行なのであるが、一時的に医療処置によって死の淵から離れられる場合もあって、かと思えば、まだ死が予想される段階の病状ではないにも拘らず、あっけなく亡くなってしまう方もあり、科学的には説明がつきかねる事例も多く、当時は「本当に死を司るのは神様だけだ」、と、つくづく思っていた。

私が夜間帯の実習についた夜、昼間急変したものの死の淵から這い上がった患者さんが、ナース・ステーションのまん前の個室に入っていた。 もちろん予断を許さない状態なので、心電図モニターなどで随時状況を監視できるような体制が整えられている。 看護師も頻回に足を運んで観察や管理を続け、まさに気が抜けない。 ところが、ナース・ステーションで記録を書いていた私の目の前を、ふと、別の重症患者さんが通り過ぎた。 「ん?今のは○○さん?!」 廊下の角に背中を見送りながら、あのパジャマは確かに間違いが無いはずだ。 でも、よく考えるとおかしい。 第一、独りで歩けるはずも無いし、ⅠVHと呼ばれる鎖骨の下に埋められた点滴チューブも無い。 モニターのコードも外しているのか? 慌てて追いかけようと立ち上がると同時に、ナース・ステーションの片隅のモニターがけたたましいアラーム音を鳴らし始めた。 ○○さんのモニターだ。 心停止が起きているらしい。 スタッフはバタバタと対応に追われた。 そして、いろいろな処置にも反応することなく、あっさりとお亡くなりになってしまったのだった。 愕然とした。

あの当時は人の死を目の当たりにすることだけでも、私にとっては強烈な体験だったし、あまり不思議にも思わなかったのだが、今から考えるとひどく妙なことだらけである。 私が歩いてゆくのを見たのは、本当に○○さんだったのか? 何故急変した時間と重なっていたのか? 差し迫った死の兆候もなく、言うなればノー・マークの状態で、体の中に何が起こっていたというのか?

死を目の前にしている方の場合、既に意識や反応がなくなっている場合も多いものだが、もしかしたら、そこにまだ魂のようなものが存在している場合と、魂が既に抜けてしまっている場合とがあるのではないか、などと、スピリチュアルなことにはズブの素人である私は、今更ながら思ってみたりしているのである。

万霊節(ハローウィン)も過ぎたことだし・・。 ちょっと思い出して書いてみた。 

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2006.11.05

「まだ」と「もう」

半月ほど前、クリスマスに使う屋外用のイルミネーションを扱う会社からDMが来て、「まだクリスマスまで相当遠いのに、まあ商売熱心なこと・・」なんて半ば呆れていたら、続いては真空パックや冷凍の重箱入りおせち料理の案内が届き始め、お歳暮の通販の案内、年賀状の印刷承りなどの案内、来年度用のカレンダーや手帖の案内と次々続いて、何だか頭が痛くなってきた。 商売の屋号が登録されているので、DMは何かと多く届くが、畳み掛ける様に年末には集中する。 まだ11月も始まったばかりだというのに。

これからふた月の間に何が起こってどうなるか、まだ自分には自信が無い。 多分当たり前のようにジタバタしているうちに日々が経って、当たり前のようにクリスマスや新年がやってくる確率が高いとは思っているけれど、なんだか心の奥のどこかが「確約できないぞ!」と脅しをかけられている気分。 いや特別に心配性というわけでもなくて、単に、この世の中この時代、明日何が起きても不思議じゃないな、くらいに思っているだけの事だ。

そんなに焦らせないで・・と、ぶつぶつ言いながら、DMを処分したり、受け取り拒否の手続きをしたり、だ。 「年末の日々」若しくは「年末の自分」は、まだ全然実感できないでいる。 私のほうが一般に比べて、のんびりしすぎているのだろうか?

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2006.11.04

髪の毛を染めるということについて

私は生まれつき、髪の毛の色が赤っぽい。 現代でこそ、髪の毛を明るく染めている人が増えたお陰で、あまり目立たなくはなったものの、若かった時代、特に学生時代においては何かと注目を集めるほどで、自分なりに苦労した。 私の中学生時代は、俗に言う「不良」という言葉が一般化し始めたときに重なっており、髪の毛を染めたり脱色したりすることが不良の始まりだという一般的な認識があったので、教員による生活指導では、髪の毛の色が特にうるさく監視されていた。 「この子の髪の毛が赤いのは、生まれつきのものです。」みたいな一筆を、保護者に求められた記憶もある。 だから自分でも、髪の毛が赤っぽいことにおいて、あまり歓迎すべきものとは受け取れていなかった。

高校は自由な校風というか、「自分の事は自分で管理しろ!」的な学校だったから、髪の毛を染めようが脱色しようが、パーマをかけようが、教員からクレームをつけられることは無くて、ずいぶんと気が楽になった。 卒業を控えたある日、卒業式に着るための洋服を両親が新調してくれることになり(学校は私服だったので、当然卒業式に何を着ようが、個人の判断に任されていた)、ちょっとしたブティックのようなお店へ母と出かけた時のこと、私は生まれて初めて髪の毛の色を褒められた。 私に似合う洋服を見立ててくれていた、中年の男性である店長が、「あなたは髪の毛の色が明るいから、どんな色の服でも合わせ易い」という内容を、延々と話しだしたのである。 日本人の黒髪は、合う色を制限してしまうので、コーディネートという観点では非常に苦労が多い。 だから、モデルさんにはわざと明るい色調に髪の毛を染めてもらっている。 あなたのような髪の色は日本人には珍しいが、それはファッションという分野においてはすばらしい長所だから大事にしなさい、という内容だった。

社会人になった時には、若い人達が髪の毛を明るく染めること自体が当たり前のような風潮が出来上がっていたが、ベリー・ショートで尚且つ明るい色はそこそこに目立っていたらしく、待ち合わせ場所などではずいぶん重宝されていたらしい。 「ヨーロッパの映画に出てくる少年のようだ」という表現をされたのは印象深かった。

現在はそこそこに白髪も増えて、多分遠くから見たら髪の毛の色は明るさを増している。 白髪はどうしても気になるので、染めてみようかと考えたこともあるのだけれど、「きりがないしな・・」と思うとどうしても無駄な出費の気がして、自然のままで過ごしている。 元々面倒臭がり屋でお洒落にこだわらないことも影響しているのだろう。 白髪は白髪で綺麗なものだと、自分は考えているので。

まあそのうち、一度くらいは思い切って染めてみるのも面白そうだな、と、興味の方が優先されているのが現状だ。 さて、この先どうなりますことやら?! 紫色にカラーリングする日は、来ないような気がするけれども・・。

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2006.11.03

落ち葉掃き

10月は暖かかったので、紅葉も遅れていた印象が強いが、11月に入ったらなんだかあれよあれよと季節が進んでいるようだ。 この時期は落ち葉掃きをしても、ひと風吹けばまた落ち葉がはらはらと落ちてきて、言葉通りの追いかけっこ状態。 掃いても掃いても落ちてくる感じだ。

敷地の中にも綺麗な紅葉をしてくれる木がいくつかあって、桂や柿、蔦、紅葉、漆などなど、赤や黄色が枯葉に混じっているとハッとする美しさだ。 多くの落葉樹の落ち葉が薄茶色の中で、美しい色合いの紅葉は目を釘付けにする。

宿泊施設としての営業をしていた時には、美しい色合いに紅葉した葉っぱだけを集めてきて、ディスプレイと言うか、「季節感のある飾り」に使ったこともあったのだが、実は綺麗な落ち葉だけを集めてしまうと、明らかに嘘っぽくなることに気付いた。 多くの薄茶色の目立たない枯葉の中に、綺麗な色の落ち葉が混じっていると、それはそれは綺麗なのに、「綺麗な落ち葉」だけを集めてしまうと、明らかに人工的な印象が強調されて、自然な美しさが感じられないのである。

多くの目立たない落ち葉の中に在るからこそ、綺麗な色合いの紅葉が引き立つのだということを、私はひとつ学んだ。

人間にも似たような部分があって、例えば美人ばかり集まってしまったら、美形が引き立たないだろう。 普通レベルの人がたくさん居るからこそ、美人が引き立つのである。 性格でも特技でも個性でも、同様なことが言えるのではないだろうか。

落ち葉掃きをしながらいつも思うのは、「多様性について」なのである。

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2006.11.02

「プライムジャワカレー」

キットカットに続いてまたもやメーカーの回し者のような内容になってしまうが・・。

ちょっと前から売り出されているハウス食品の「プライム」というカレー・ルウが便利だ。 「脂質を抑えたことで、カロリー30%オフに成功した」というのが、会社的な売り文句である。 三浦りさ子さんがあのスラッとした口調で、「プライムですから!」と言い切っているCMを見た方は、少なくないと思う。 もちろん余計なカロリーや脂質は少ないに越したことは無いが、私が「プライム」のシリーズを気に入っているのは、全く別の理由からである。

理由その1 ひと皿分ずつの完全個別包装であること
大人2人分のカレーを作る時に、使い残したカレー・ルウの処遇は、正直な所憂鬱の種だった。 まとめて作った方が美味しいのは否定しないけれど、同じ味がまた食卓に登場するのも気に入らなかったり、ジャガイモが冷凍に適さなかったり、と、できるなら食べ上げてしまいたいのが本音だ。 しかし、今までのカレー・ルウの殆どは、せいぜい4皿分くらいに分けた包装で、パッケージを開いた後の残りはラップで二重に包んだりして保存するしかなく、納得がいかなかった。 ところが、この「プライム」のシリーズは、ひと皿分ずつの完全個別包装タイプなので、使う分だけ外から切り取って開封すればよく、気にせずに残すことが出来る。 これは予想以上の便利さだった。

理由その2 ルウが指で簡単にほぐせる
このルウは指にちょっと力を入れると、ホロホロとパウダー状に簡単にほぐすことができる。 今までのルウの多くは、きっちりと固められていて、包丁で切るようにしないとパウダー状にすることは出来なかった。 例えば、カレー味のチャーハンを作りたい時、フライパンの上でほぐしながら加えれば、塩味も旨味もルウに入っているから簡単に仕上げられるし、カレー風味のスープとか、ジャガイモやカリフラワーの炒め物も、ダマになることを気にせずに、ささっと作れてしまう。 カレー・パウダーが手元に無いときや、簡単に済ませたい時など、カレー・ルウとしての使い道が大きく広がった気がする。

家族の人数が少ないご家庭などには、オススメできる形態だ。 今のところバーモントカレーとジャワカレーで、この「プライム」のシリーズが商品化されているみたい。 通常のルウのタイプに比べて、若干コクや香りが劣る(あっさりという感じか)印象もあるので、具材やお手持ちのスパイス等で工夫して補うと良いかと思う。

ハウス食品のページはこちら。 右上「商品カタログ」から探してください。

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