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2006.11.28

幸せなときに

鎌倉まで足を伸ばしてきたことは先日も書いた。 ピロシキを食べる以外にも他にいろいろやって(食べて?)きたので、断片的に日を改めて登場することになるだろう。 小田原を抜けて海岸沿いの国道134号線を走りながら、なんとも懐かしいような気分で車窓を眺めていた。

私は東京に住んでいたので、「海に行く」と言えば殆どの場合鎌倉や湘南近辺だった。 どうも千葉方面に行くよりも馴染みがあって行き易い。 見ていれば気が済むような場合は横浜の港近辺で過し(まだ『みなとみらい』は無かったから、よく大桟橋あたりでぼんやりしていた)、海岸に下りたかったり、実際に泳いだりしたい時には江ノ電を使った。 独りで行くこともあったけれど、大抵は誰かと一緒で、ふたりや数人のこともあれば、大勢でワイワイという時も多かった。 そんな光景がどーっと押し寄せてきて、「ああ、あんな話をしたっけ」とか「あの時は日焼けが過ぎて熱を出したな」とかそんなことから始まり、一緒にここへ来た相手たちは今頃どうしているかな、などと、とりとめもなく想っていたのだ。 海沿いのお店は様変わりしている所も多かったけれど、当時からやっている名の知れた店も何軒か残っていて、感銘を受けた。

不思議なもので、私は自分が辛い時には、大切な人のことを思い出すことがほとんど無い。 私の性格や癖や物の見方を理解している人にアドバイスでも貰えば良いのかも知れないのに、何故かそんなときに限って忘れている。 そのくせ、自分が幸せを感じているような時には、横顔や声がふっと浮かんできてびっくりする。 それも凄く幸せな時ではなくて、なんでもないような、例えば期待しないで入ったお店で偶然にも美味しい物に出会ったとか、美しいものが見れてきれいだと感じたとか、そんな言うなれば「日常の特別なんということもないような」くらいに幸せな時のことがほとんどである。 自分の心に余裕がある時とも言えそうだが、それだけの説明ではあまりに味気ないような気もする。

私自身がちょっとした幸せに触れて「ありがたいな」とか「ありがとう」とか思う気持ちと、大切な人に幸せであって欲しい気持ちは、とても近いもののように思えるのだ。 その二つが私の心の中で同時に発せられているような、そんな感じがする。 単に分かち合いたいだけではない、なにか関数を通したような回路なのだけれど。 あんまり使いたくない言葉ではあるが、「祈り」に近いような抽象的な概念が含まれているかもしれない。

自分が幸せなときに思い出すように、大切な相手にも、その人が幸せなときにちょっとだけ思い出してもらえたら嬉しいな、と、思う。 「いつも」じゃなくていいの。 「ちょっと」、ね。
 

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