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2007.01.31

覚悟がまだです

昨日の朝、目覚めたらいきなり鼻声で、それ以来微熱が下がらないし、身体の中のバランスが崩れている感覚がある。 ・・その割には、食欲は旺盛だし、喉も痛くならないし、ビールもちゃんと美味しいし、症状が進んでいる気がしない。 風邪だとばかり思っていたのだが、なんだか腑に落ちない。

まさか、まだ花粉症じゃないよね? 違うよね?? っね、ね???

誰か「違う」と言って~!!

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2007.01.29

毎日はダメです

この時期、霜の中で育ったホウレンソウはしっかりと甘味が強い。 加熱すれば素早く柔らかくなるし、お値段も手ごろ。 なのでよく使っている。 残念ながら「サラダ用ホウレンソウ」として売られているもの以外は、生食に向かない。 含まれているシュウ酸が、体にあまり嬉しくない役割をするからだ。 これも通常は茹でて水で晒せば殆ど溶出されてしまうので、怖がることはない。 だが、何しろこの時期のホウレンソウの美味しさは格別なので、私はシーズンに数回だけと決めて、ホウレンソウのサラダを作る。 言うなれば禁断の味。 まあ人間の体はそんなに神経質に気を遣うほど、ヤワではないのではないか、と思っている節もあり、と言うか、気を遣う所といい加減な所を使い分けしている、という表現の方がしっくりくるかもしれない。 気になる方はどうぞ「サラダ用ホウレンソウ」で。

ホウレンソウのサラダ

材料   ホウレンソウ  半束くらい
      ベーコン     スライスなら3枚
      ニンニク     一片 ・・これはお好みで。 省略化。
      油        大さじ1弱 ・・サラダオイル、オリーブ油、胡麻油どれでも。
      ラー油      小さじ1
      醤油       小さじ1
      焼き海苔    半枚 

作り方
1・ホウレンソウは葉の部分だけを使用。 大き目の一口大にちぎって皿にこんもり盛り付けておく。
2・ベーコンは細かく千切りに。 ニンニクはみじん切り。
3・フライパンに油を熱しニンニクとベーコンを弱火でじっくり加熱。 ベーコンにチリチリ感が出るまで。
4・3のフライパンに醤油とラー油を加えてから火を止め、皿のホウレンソウの上にジュッと回し掛け。
5・焼き海苔を揉んで「揉み海苔」にして上から散らす。
6・食卓で全体をざっくり混ぜていただく。

お好みでトマトやスライスしたタマネギ、カイワレ菜を混ぜても美味しい。 上からパルメザンチーズを乗せれば一気にイタリアンに。 結構辛いので、お子様がおいでのご家庭では、ラー油は個人で取り分けてから振ってください。 ベーコンによって塩味が違うので、足りなければ食卓で醤油で調整を。

ちょっとだけしんなりしたホウレンソウが魅力的。 出番を限って、もったいぶって、楽しんでください。

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2007.01.28

がーっと親子丼

寝坊してしまった。

言い訳がましく書けば、ちゃんといつもの時間には目が覚めた。 トイレに行ってから布団の中に戻ったら、いつの間にかまた眠ってしまっていたみたいだ。 気がついたら14時過ぎ!!

焦った。 何かの間違いだと思った。 で、慌てて「約束事は無かったか」とか「電話をかける約束は無かったか」とか、「誰かが訪ねてくる予定は無かったか」とか、ぼんやりした頭で一通り考えて、どれも大丈夫だと安心してから、「そうだ、今日は日曜日だったな」などと、とぼけた感じに思い出した。

とりあえず顔を洗って、洗濯機を回して、ひどくお腹が空いていることを自覚する。 なんとなく気持ち悪いのは、寝過ぎのせいじゃなくて空腹のせいだ。

こんな時に近所にお店があったらどんなにありがたいか・・なんて、ぶつぶつ。 使い残した鶏肉があったな、残りごはんを冷凍しておいたものもあるな。 じゃあ、親子丼。

ごはんを解凍しながら、鶏肉、長ネギ、使いかけのタマネギも、そしてマイタケ。 濃縮タイプのめんつゆで手抜きし、ざざざっと加熱。 最後に卵を流して火を止める。 温まったごはんを丼によそってダイナミックに具をのっけたら、七味唐辛子を多めに振って、「いただきます」もそこそこに、もう食べ始めていた。 いつもよりずいぶん早いスピードで食べ終えて、とりあえず日本茶を淹れて、ふーっと溜息をつく。 もうこんな時間じゃあ、新聞読んだけで夜が来ちゃう・・やっと頭も廻り始めたみたいだ。

「がーっと作って、がーっと食べる、こんな時はやっぱり丼に限るな。」
寝坊した後悔の割には、親子丼の美味しさが幸せで、なんだか救われたような気持ちになっている。

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2007.01.27

高眼圧症への訣別 その3

(続きですので、初めての方は順番にお読みください。)

今回の件で、いくつか思うことがあった。

情報の力についてだ。 インターネット網によって、こんな山の中に暮らしていても、先端的な医療の情報を手にすることができる。 そこから「自分が受けたい医療のイメージ」をまとめ、そのために適した医療機関を選ぶ・・もうそんな風に時代は変わってきたのだと、身につまされた思いがした。 情報網を活用していない医師よりも、情報網を活用している患者側が主導権を持つ、そんなことが平気で起こっている。 それは長年日本の医療の根底にあった任せきりの感覚が、通用しなくなってきていることを示すだろう。 自分の医療を患者が選ぶのを、医療従事者が専門家として手伝う、そういった考え方を両者に求めることに繋がるのではないか。

そこには患者側の責任も必要だ。 自分の体のこと、自分の病気のことを、自分で学び、ある程度の知識を持っていなければ医療を選択することができない。 医療従事者と情報を共有するために、基本のオペレーション・システムになるであろう、解剖学(何がどこにあって、どんな構造をしているのか)と生理学(どんな働きをしていて、何を作り出しているのか)の基礎知識は、もっと万人が身に付けていてもいいのではないかと思う。 そしてそれも多くの場合、インターネット経由の情報で事足りるはずだし、必要になってから情報を集めたとしても十分間に合う。 そこがクリアできている人は、「あるある大辞典の納豆パニック」に巻き込まれることも無かったであろう。

情報を集めるのも、活かすのも、取捨選択するのも、受け取る側の役割である。 そこを放棄して全て鵜呑みのままでは、自分が不利益を被ることになりかねない、そのことを肝に銘じておくべき世の中なのではないか。

今の私に残された課題は、ずっとかかりつけていた町医者の眼科医に、この事実を伝えるべきかどうかだ。 お世話になってきた感謝の気持ちはあるし、地理的に近い場所の医者との付き合いは大事にしておきたい気持ちもある。 でも、「あなたの提供できない医療技術によって、私は治療の必要がなくなりました」とも伝えるのも、相手をバカにしているようで気が引けるし、かといって相変わらず近くにいるのに「諸般の事情で受診しません」となれば「どうしたの?」とくるのも当然である。 都市部ならたくさんの患者が出入りしているから、受診しなければそれだけで済む話なのだが、田舎では世間が狭く、良くも悪くも人情味が深いので、ちょっと気が引けているのである。

実はこれは、情報弱者に対する感覚にも似ていて、インターネットに接続できる環境下にありながら、情報を収集したり分析できなかったり、そうしようとしていない人と話をする時に、非常に困る感覚とそっくりなのだ。 善い人とか親切な人とかそういう分類ではなく、情報を使える人とそうでない人とでは、明らかに考え方や生活の様子、価値観に違いが生じているような気がする。 お互いに分かり合うのは簡単ではない。 「通じない」とお互いに思ってしまうからだ。

とにかく、『高眼圧症』で治療中であり、尚且つ眼底検査に異常がなく、視神経乳頭に萎縮もなく、当然ながら矯正視力がちゃんと出て、眼圧が20mm.Hg台後半ぐらいの値で収まっている方は、どこかで一度『角膜』の厚みを計ってもらうことをおすすめしたい。 その後の人生が変わるかもしれませんよ。

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高眼圧症への訣別 その2

(続きとなっております。 初めての方は『その1』からどうぞ。)

前回アップしたような眼圧に対する考え方の最近の変化を知ったのは、ウェブ上で、だ。 どうも、高眼圧状態だからというだけで、点眼薬でコントロールするのは時代遅れになってきたみたいだ、と、感じ始めてきた。 眼圧を下げる薬は交感神経や副交感神経に作用するものが多く、ずっと使い続けるとなればいくら点眼薬といえども、副作用が気になるし、私が使っていた薬の片方は、点眼したらその後で必ず顔を洗い、瞼や目の周りに残っている薬を洗い流すようにしないと、色素沈着を起こしてクマができる、という厄介なもので面倒くささも大きかった。 しかし、ずっとかかりつけの町医者の眼科医院では(もちろん眼科専門医の認定も取っている医師だが。)、『角膜』の厚さを測定する検査機器も無いし、そのような眼科医療の風潮を知ってか知らずか、「眼圧をコントロールできている患者を、わざわざ新しい医療に進めることも無い」という姿勢がミエミエだから、ここに通っていたのでは無理だな、と、思わざるを得ない状況だった。

去年の秋の終わりに処方してもらった点眼薬を使い切るのをタイミングにして、私は重い腰を上げて、ちょっと遠くにある別の眼科医に受診した。 ウェブ上の情報によれば、そこの医院長は新しい治療法に積極的に取り組んでいることが判っていたから、例えそこに『角膜』の厚さを測る機械が無くても、「こういう検査を受けてみたい」と話をすれば紹介ぐらいはしてもらえるだろう、と、踏んだのである。

外来担当の医師は、私の病歴を一通り読んだ後で、眼圧が30mm.Hgを超えたことが無いことを確認し、眼底や『視神経乳頭』に全く異常が無いことを検査で調べた後で、「あなたのような人は『角膜』が厚い場合があるので、測ってみませんか?」とのこと。 しかも、症例を集めるためと医院長がレクチャーを受けるために、ふた月に一度外部から緑内障に詳しい眼科医を招いていて、その人がちょうど明日来るから、『角膜』のデータと合わせて判断してもらったらどうでしょう?、とのこと。 こちらが考えていたようにスイスイとことが運んで、願ったり叶ったりだった。

かくして測定された私の『角膜』の厚さは、0.6mm.と0.7mm.、つまりタイヤタイプだったわけだ。 見かけ上の高眼圧だったことが証明されて、点眼薬ももちろん中止。 ただし誰でも年齢と共に眼圧は上昇してくるので、自覚症状が無くても、念のため年に一度くらい受診してください、とのこと。 それから長期に渡り眼圧を下げる薬を使い続けてきたので、目が正常な状態に慣れるまでしばらくかかるだろうと、注意事項を説明された。 症例を集める医師側にも歓迎され、レクチャーを受けている医院長も実際に分厚い『角膜』を見ることができて喜ばれ、私も長年の憂鬱から開放され、見事に三者同時に万々歳! 結果としては願ってもない受診となり、めでたし・めでたし。

(もうちょっと続きます。)

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2007.01.26

フキノトウが出た!

陽だまりの枯葉の中から、ぽっかりと薄緑色のフキノトウが顔を出した。 例年に比べたら半月ほど早い。 普通に生活していると、相変わらず寒い寒いと文句を言っているのだけれど、やっぱり巷で言われているように、この冬は暖冬なのだろうか?

早速プティ・ナイフを手に摘みに出た。 冷たい風の中、ちょっと落ち葉を掻き分けて目が慣れてくると、あっちにもこっちにもコロコロ・・で、予想外の収穫量だ。 いつもは5~6個しか採れないのに、今回は例年になく豊作! これでは掌だけでは乗りきらないので、厨房に戻ってボウルを持ち出して仕切り直し。

あまりに小型のものは、なんだか哀れになったのでナイフを入れず、大きくて立派なものを選んで収穫したが、それでも数えてみたら17個もあった。 泥や汚れを落とし、売り物にもなりそうな見た目美人のものを6つだけ選りすぐって、今夜のおかずの天麩羅に残しておき、残りはフキノトウ味噌に。

まだ早いだろうとたかをくくって西京味噌を用意していなかったので、田舎味噌とみりんと砂糖をとろ火で加熱しながらよく練り、ツヤが出るのを待って、そこに荒みじんのフキノトウをザザッと。(正式な作り方?では、一度軽く下茹でしてアクを抜くそうだが、『採ってきて5分後には調理』ならではの地産地消の強みで、私は生のまま作ってしまう。 下茹ですれば上品になるが、どうしても香りが薄くなって勿体無い気がするのも理由のひとつだ。 あと、やっぱり面倒臭いし・・苦笑。) 材料から染み出てきただけの水分を飛ばすようにしたら、香りが逃げないうちに火から下ろして、もうできあがり。 清潔なガラス瓶に収めて冷蔵庫で保管すれば、そこそこ日持ちする。 ・・そんな心配も要らないほどに、どうせ数日で食べ上げてしまうのが、これまた例年の常なのだけれども。

ふろふき大根や田楽、もうすぐ出回るだろう鰆に塗って焼くのもいいだろうし、去年教えてもらった焼きおにぎりも作りたいし・・。 いやいや、まずはシンプルに炊き立てのご飯にのせて食べようかな・・と、想いは膨らんでいる。

これでも食べて暖かい季節を想像しながら、もう少しの間、厳しい寒さを辛抱しなさいね、と、山に言われたような気がした。

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高眼圧症への訣別 その1

実は1月25日は、私にとって記念すべき日となった。 それは、ひとつ持病が消えた日であり、20年近く余儀なくされた2種類・一日3回の点眼薬から開放された日でもあったのである。

下されていた診断名は『高眼圧症』という。 とっても簡単に言えば、目玉の圧力が上がってしまう病気だ。 目玉の中には『房水(ぼうすい)』と呼ばれる涙のような水がゆっくりと流れていて、瞳の外へ排出されてゆく。 何らかの理由で房水の生成が促進されたり、排出が上手くいかなくなったりすると、房水が溜まって水ヨーヨーがパンパンに膨らむように目玉の内圧が上昇する、これが『高眼圧』。 高眼圧の状態が長く続くと、水ヨーヨーの壁のウィークポイントがダメージを受け始める。 目玉の場合、このウィークポイントは、奥のやや下にある『視神経乳頭』と呼ばれる、文字通り視神経の束の出入り口だ。 その結果、視野が欠けたり、物が見えにくくなったりするのだが、こうなると俗に『緑内障』と呼ばれるようになる。 つまり『高眼圧症』は『緑内障』の前段階と考えて、『緑内障』に移行しないように眼圧をコントロールするのが常套的な医療とされている。(最近では『正常眼圧緑内障』といって、眼圧が高くないにも係わらず、『緑内障』の症状が出る患者さんもたくさん存在することが判り、大きな問題となっているのだが。)

で、眼圧を測定する時は、目玉のいちばん外側、つまり『角膜』と呼ばれる、虹彩(目の茶色いところですな)の外側をドーム状に覆っている膜(コンタクトレンズが乗っかる部分とも言える)で測定する。 そこにピンポイント的に風を当てたり、角膜の表面に直接端子を当てて、どのくらいの力で膜が凹むか、を計ることになる。

前置きが長くなって申し訳ないが、私は20代のある夜、ふきんの消毒をしようとしてキッチンハイターという塩素系漂白剤の飛沫を眼に入れてしまった。 救急外来を受診し10日ほどの処置で事なきを得たのだが、その際に「ハイターのダメージは完治したけれど、それとは別に、眼圧が高いから近医でしっかり診て貰う必要がある」との指摘を受けたのである。 『視神経乳頭』に異常も無いし、視野も欠けてはいないが、高い眼圧を放って置く訳にはゆかない・・とのことで、眼圧を下げる点眼薬を使うことになった。 それ以来のお付き合い、つまり、かれこれ20年近く点眼薬をさし続けて来た訳だ。 点眼薬を使い切った時に受診して、『視神経乳頭』の状態をチェックしながら、年に二回ほど視野の詳しい検査を受ける、その繰り返し。 眼圧を下げる薬も様々で、自分に合う薬が見つかるまでは試行錯誤だし、新しく点眼回数が少ない薬が認可されたとあれば試してみたり・・と、長い道のりだった。 しかも、一回の受診で保険適応でも5000円近く必要だし、待ち時間も含めると結局一日がかりに近い。 それでも目が見えなくなることは避けたい一心で、真面目な患者だったと思う。 これが一生続くのかと思うと、仕方が無いとは言え、正直面倒くさかったし憂鬱に思う時もあったのは事実だ。

ところが、である。
『レーシック』という名前を聞いたことがおありだろうか? 「近視を手術で治す」と書けば、ピンと来る方も居られるだろう。 アメリカであっという間に広まり、日本でも始まりつつある治療だ。 まだ安全性が確立されていないという理由で、保険の適応にはなっていない。(30万円近くかかるらしいが。) 実はこれは、近視の状態に応じて『角膜』を薄くレーザーで削り、レンズの屈折率を変えることで近視を矯正するという手術なのだ。 よってその患者の『角膜』がどのくらいの厚みで、どのくらい削れば良いのか、事前に正確に調べる必要がある。 そのための検査機械が開発され、レーシック手術の普及と同時に検査機械も改良研究され、値段も下がり、使いやすく安全になっていった。 当然ながら、たくさんの患者のデーターが学会などで集積されてゆく。 すると、今まで考えられていたよりも『角膜』の厚みには、個人差が大きいことがわかってきた。

標準的には0.5mm.とされていた角膜が、実は薄い人もいれば厚い人もいる、となったわけである。 つまり薄いゴム製の水ヨーヨーもあれば、タイヤのような分厚い水ヨーヨーも存在することが判ってきた。 となると、『角膜』が凹む圧力で測定していた眼圧も、その厚みによって測定値に大きな差が生ずることになる。 薄いゴム製の水ヨーヨーは指で押せばすぐに凹むが、タイヤのような水ヨーヨーを凹ませようとしたら大変な力が要るのと同じ。 なので、測定された眼圧の数値を、『角膜の厚さ』に応じて修正しなくてはいけない。

実は『高眼圧症』の診断の元、治療を受けている人の中には、この『角膜』の分厚いタイプの人がかなり含まれていることがわかってきたらしい。 実はその人達は「見かけ上、眼圧の検査結果が高い圧力に測定されているだけで、本当の眼圧は高くない」ので、当然治療も必要がなくなる。 もちろんその判別には慎重な検査や経過観察が必要ではあるが。

つづきます。)

目の構造その他は、こちらのサイトによくまとめられています。 興味のある方はどうぞ。 

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2007.01.24

メガ・ギガ・テラ

すごく久しぶりにマクドナルドへ行った。 数量限定販売とのことで、巷では「なかなか食べられない」などの書き込みもたくさん目にする「メガマック」だが、田舎では何の問題もなく普通にオーダーできてしまい、拍子抜けの印象。 『ますたあ』が食べているのを横目で見ながら、「どう?」。 「うん、別に普通。 ビッグマックと一緒。 あっ、でも食べ難さだけはこっちの勝ち。」・・だそうだ。

メガマックの人気に気を良くして、ギガマックとかテラマックとかも、そのうちできるのだろうか。

紅茶に全然気合を入れていなかったマクドナルドが、リプトンのイエローラベルを扱うようになったことは、評価してあげたいと思う。

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2007.01.23

トイレで告知

外食の機会にトイレを使わせてもらうことがある。 トイレはそれぞれのお店の個性が集約されているようで、興味深い場所だ。 基本的には清潔であればそれで十分なのだが、用を足す以外にはすることが無い場所なので、ついついポスターなどがあれば見てしまうし、文字があれば読んでしまう。

よく見かけるのは、アルバイトやパート従業員の募集だ。 時給いくらとか、休暇の設定など具体的に書いてあると、それまではお客として気楽に食事やお茶を楽しんでいたのに、急に現実の生活に引き戻されるような気がして、あまり好きではない。 「ふーん、たいへんそうだな」とか、「思ったより時給が高いな・・ってことは、原価率が低いかな?」などと、食べた食事をもう一度思い出して検証してみたり、ついついやってしまうのだ。 あー、やだやだ! 自営業をやっていた者の職業病ですな、これは。

居酒屋さんなどでは、商売熱心なあまりに「本日のおすすめメニュー」をトイレ内に貼り出していたりする所もあって、ちょっとたじろぐ。 確かにお酒が進むとトイレも近くなるから、トイレから戻ってまたオーダーなんていうことも珍しくなく、その時に思い出してもらえばお店としては好都合なのだろう。 でも、やっぱり食べ物とトイレの組み合わせは・・。

店主が何かの趣味を持っていた場合、よく見かけるのはスポーツ系だが、団員募集なんていうポスターも。 野球やサッカー、フットサル、合気道など武道系も見覚えがある。 それから、多分常連のお客さんのお付き合いで頼まれたであろう、演劇やコンサートなどのポスター。 トイレに貼るのもどうかと思うが、目に付かせるという意味では案外有効なのかもしれない。

湯ケ島には「トイレの神様」を祀っている神社があって(実際に行ってみると、田舎によくありがちな性器信仰の名残っぽい印象。 なかなか商売上手な?神社のようで、歳をとっても『お下』の世話にならなくて済むようにと、御朱印を押した縁起物の下着など販売なさっていて、結構遠方からも参拝者が集まっている)、そこのお札をトイレに張っているお店も、この辺りではそこそこ見かける。 トイレの神様だからトイレにあるべきものなのに、どうしても不浄な場所という印象が強いので、そこで堂々とご本尊の姿を印刷したお札に見下ろされると、どうも妙な気分で落ち着かない。

やっぱり、清潔でシンプルなトイレが無難なように思う。

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2007.01.22

雪のような白い肌

昨夜からの雨は明け方雪になっていたらしく、雨戸を開けると雪化粧した光景が広がっていた。 空気が透き通っていつにも増してきれいなので思わず深呼吸すると、からだの奥に一気に冷気が染み込んで、身震いして慌てて窓を閉める。 ぼたぼたと勢いの良い雪解けの雫の音を聞きながら、焼き芋が焼けるのを待つのも、また冬らしいオツな午後だ。

この時期になると、雛人形メーカーの広告がたくさん新聞に折り込まれてくる。 飾り始めるのがひと月前として、「そろそろ買っておいてくださいねー」、と、新しく女のお子さんを迎えたご家族を狙って、攻勢をかけているのだろう。 煌びやかなお人形の写真を見るだけでもなんとなく春の気配がして、ふっと心が和む。

新聞の別刷りにも雛人形の広告が掲載されていたが、ずいぶんと「醤油顔(古い表現だなあ・・)」で日本人離れしたお顔立ちをしていて、「おやっ??」と目を惹かれた。 良く見ると眉の形も、指先のポージングも、古典的なものとは一線を画していて、雛人形としてはちょっと変、でも、洒落ていてかっこいい。 ずいぶんと思い切った人形を作ったな、と、感心してメーカー名を探して、ひどく驚いた! なんと「リヤドロ社」である。

リヤドロ社はスペインの陶磁器メーカーだ。 天使や猫をモチーフにした焼き物の人形を見たことのある方も多いに違いない。 透き通るような白い陶磁器と細やかな細工で知られ、コレクターもたくさん居られると聞く。 食器なども作っているようだが、美術工芸品としての価値が高いようだ。

どうりで日本人離れしたお顔立ちの雛人形のわけだ。 もちろん直衣姿も十二単もすべて陶磁器で表現され、微妙な日本的な色彩に拘って製作されたものらしい。 リヤドロの細工なら、さぞかしきれいで繊細な仕事をしていることだろう。 ほぼ30万円という価格を見て溜息が出たが、もしも、私がお金に糸目を付けないような生活をしていたなら、久しぶりに「欲しいな」と思える商品だった。 限定300体だそうである。 いつかどこかで、実物にお目にかかってみたいものだ。

リヤドロ社製の天使の人形の透き通るような白い肌の質感を、積もった雪を見ながら思い出していた。 もう少し経ったら、乾燥した日を選んで、私のお雛様も箱から出してあげよう。


・・ここだとちょっとは安いみたい

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2007.01.21

丸干し

過日、魚屋さんの店先で美味しそうな背黒イワシの丸干しを見つけた。 「どちらかと言えば『昔っぽい味』の丸干しだよ。」と、威勢良く店のオジサンが言う。 「昔っぽい?」笑いながら首を傾げて見せたら、「最近の干物は塩も魚の味も薄いでしょ。 それにひどいのになると甘ったるかったり水っぽかったりしてね。 もうみんな化学調味料使ってさ、扇風機で乾かしちゃってんだよな。 これはあんまり大きくないけど、ちゃんと塩だけ使って日に当てて干してる丸干しだから、味が違うよ。 その代わりちょっとしょっぱめ!」 これだけ丁寧に説明を受けたら買わないわけにはいかない・・実際にその「昔の味」に逢ってみたくなったし。

早速強火で炙ってみると、脂がじんわり染み出てきて良い感じ。 頭ごとかぶりついていただく。 確かにちょっとしょっぱめで、白いごはんが進んだ。(酒量も・・。) 朴訥な印象の飾り気の無い、確かに「昔っぽい味」。 で、美味しかったのだが、4本ほど余らせてしまった。

ご存知の通り、青魚の類は加熱したものが冷めると生臭さが出てくる。 もう一度炙り直すと余計にしょっぱくなりそうだし、どうしようか、と、考えながらクンクン鼻を近づけていたら、「何か別の食品で、これと似た匂いのものが在ったな。」 それで思い出したのがアンチョビだ。 アンチョビの油を切ってからフライパンで炒めて、水気を飛ばしている時の「魚の匂い」そっくりだ。 思い出してみればアンチョビだって種類は違えどイワシだし。 ならば残りの丸干しでパスタにしても美味しいはず!

さっそく大きな骨と頭だけ除いて、ついでに指先で小さめに身をちぎる。 基本はぺペロンチーノ仕立てにして、たっぷりのニンニクと鷹の爪。 相棒は芽キャベツと使いかけのシメジ。 パスタを茹でて、最後の30秒だけ半割にした芽キャベツも鍋に放り込んで一緒に茹でる。 フライパンにオリーブオイルとニンニク、鷹の爪。 香りが立ったら丸干しの身とシメジをささっと炒めて、パスタと合わせ、簡単に塩コショウ、で、もう出来上がり。

生臭さも消えて美味しく出来上がった。 ちょっと混じっている内臓の味も深みを添えて、オツな感じだ。 これならばちゃんとこのために丸干しを買ってきても良いな、と、思えるできばえになり、思いもよらぬ発見に嬉しくなった。

予想外にしょっぱい干物に当たってしまった時には、この手が使えそうである。 ありゃりゃ・・という時にはお試しを。

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少なくても美味しいものを

隣の市で興味深いテーマのイベントがあったので足を運んでみたが、思いっきり、と言うか、内心「やっぱり」と思うほどチャチな企画で、がっくり肩を落とした。 このまま引き下がって寒い家に帰っても、がっくり気分のままダラダラと過ごしてしまいそうで悔しいので、足を延ばして某有名な蕎麦屋へ行ってみることに。

このお店は、『ますたあ』の記憶によると、私たちは二回トライしているのに、まだ食べられたことがなく(一度目は住宅地に迷い込んだ挙句一方通行に阻まれて到達できず、二度目は夜で営業時間が終わってしまっていた。)、三度目のリベンジになる。 遅めの時間とは言え、土曜日のお昼時なので混雑は覚悟の上だ。

運良く駐車場から出てゆく車があってタイミング良く停められた。 見れば他県ナンバーが殆どだし、中には北九州ナンバーまで。 それもBMBだのベンツだのレクサスだのプリウスだの・・ウチの可愛いルノーは恐縮してしまいそうな顔ぶれである。 いやはや世の中こんなに景気が良いのなら、日銀さんも昨日利上げするべきだったんじゃないか、なんて、軽口も飛び出しながら店内へ。 予想通り混み合ってはいたものの、お蕎麦なので客の回転が早くてありがたい。 「以前ウチに泊まったお客さんからの情報だと、『高くてちょっぴり』らしいよ。」

メニューを見ると、確かに蕎麦屋としては高めの値段設定だ。 魅力的なメニューはたくさんあって目移りしたが、ここは実力を見せていただこうと、あえてシンプルな「せいろ蕎麦」を選ぶ。 二枚頼んで、『ますたあ』の「あなご天麩羅せいろ蕎麦」と合わせて、それぞれ一枚半いただく目論見に。

これが、多分私の人生でベスト3に間違いなくランク・インするであろう、すばらしく美味しいお蕎麦だった! 茹で加減も、蕎麦の香りも味も、つゆの具合も、薬味も、蕎麦湯も上出来で文句の付けようが無い。 おまけに『ますたあ』の頼んだ天麩羅も上々で、都内のお座敷天麩羅の老舗の味を上回る出来だと感じた。 調理上の細やかな仕事も職人気質的で申し分無い。

確かに量は多くは無いが、滅茶苦茶に少ないというほどでもなく、こだわりのあるお蕎麦屋さんにはありがちの範囲内。 外食で、久しぶりに心から美味しいと思えるものに出会えた満足感で満たされたので、足りないという印象ではなかった。 例えば、その後でくだらないものを食べてしまうのが悔しい、というくらいの感覚だったのだ。

若い頃はたくさん食べられたし、食欲も今より旺盛だったから、完璧な美味しさでなくてもたっぷり食べられれば満足できていた。 でも、このところは「量より質」で、ある程度少なくても高くても良いから美味しいものを食べたいと、思うようになってきている。 自分がこんな風に外食に対する見方が変化してくるなんて、想像もしていなかったのだが。

B級グルメ的な食事には、今でもちゃんと魅力を感じるし、そういう分野にはそういう基準の美味しさが存在するので、今書いていることとはジャンル違いなのだが、A級を名乗っておきながら儲け主義に走る「エセA級」ばかりが最近目立っているような気がして、そういう食事を摂ると非常に悔しいし満たされない。

我侭なのか贅沢なのか、微妙なところだが、私もついにそんな発想で食事をするようになったかと、自分の変化を少々持て余し気味なのである。

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2007.01.19

それはそれとして

鶏のムネ肉をフライパンでさっと焼き付けて、白ワインでジュッと短時間蒸し焼きにしてから皿に盛る。 ジュースがちょっぴり残ったフライパンで、たっぷりのキノコ類とたまねぎスライスを炒め、先日使い残していたホワイトソースを加えて、簡単に塩コショウ。 これを焼いておいた鶏肉にかけてからパセリをパラパラ、で、今夜のメイン皿。 付け合せはキタアカリのベイクドポテト。

鶏肉を切る時に剥ぎ取った皮は細く切って、少しの胡麻油でちりちりになるまで脂を出してから、切り揃えたゴボウと人参を手早く炒めて、みりんと醤油でキンピラゴボウ。 仕上げに炒りゴマをたっぷり。

使い残していた食材を如何に効率よくリメイクし、材料を無駄なく使い切るか・・そんなことを工夫する間に、勝手に食事の準備が整ってゆくような感じ。 流れがきれいに整っている時は料理の効率も良いし、どういう訳か味付けも一発で決まる。

このところ頭の片隅にいつも陣取っている憂鬱の種があるのだけれど、そんなものを差し置いても美味しいものが出来上がってゆくのは、嬉しいような、自分に矛盾しているような、へんてこりんな気分ではある。 気持ちの状況がどうであれ、お腹は空く。 どうせ食べるなら、美味しいものを食べたい。

やっぱり自分は食いしん坊なんだな、と、ちょっと呆れる。

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2007.01.17

とほほ

「ひまつぶし」を「ひつまぶし」と読んだ私・・。

そんなにお腹空いていたわけじゃなかったんだけどなあ。


サーバー・メンテナンスは無事に終了したようです。
ご協力ありがとうございました。

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2007.01.15

宿題をやり直す

高校時代からの友人たちに逢ってきた。 当たり前にみんな「それなりの年齢」になって、忙しく仕事をこなす人、東京を離れている人、家庭を守る人、趣味の時間を充実させている人、来なかった仲間の情報を持っている人とそれぞれなのだが、その人の基本的な性質みたいなものは高校時代のまま残っていて、マメだった人はマメだし、アクティブだった人はアクティブだし、よく笑っていた人はよく笑うし・・見ようによっては何も変わっていないくらいに感じてしまうところが、なんとも不思議な世界だ。 中には高校を卒業してから初めて会う人もいて、それはそれは久しぶりにも拘らず、ちょっと乾杯が済めば誰からともなくグラスを手に席を移動し始めて、片っ端から話に花が咲く。

学生時代にはせっかく同じクラスに居たのにあんまり話をしなかった人もそこそこあって、逆に言えば毎日限られた仲間としか話していなかったような気もするのだけれど、今となってはそんな垣根も全く無くて、「いやあ、久しぶりだよね!」のフリーパスを手に、仕事や日常生活の込み入った話までいきなりディープに会話しているのが、冷静に考えてみれば妙である。 「なんで感受性の高かった高校時代に、こんな風にいろんな仲間と話さなかったんだろう?」と、それはそれは勿体無いような気分。 どうやらこの感覚を抱いていたのは私だけではなかったみたいで、そうだよね、不思議だよね、で、その話題でまた盛り上がる・・その繰り返し。

一人一人が社会で様々な経験をして、世の中にはいろーんな人がいることを実感として学び、同じ高校で過ごした仲間は、後から出会った人に比べれば、似たような環境や価値観を持っていた「似たもの同士」だったことを、どこかの段階で知ったのかもしれないし、当時はそれぞれ多感な時期だったから、妙に意識したり緊張したりして照れくさかったのかもしれない。 大変なこともいくつか乗り越えてきて、心が広くなれたのかもしれない。 とにかくこれだけの人数が集まっていて、それなりに個性も豊かだというのに、相手のことを受け入れ難いような気持ちが、ほぼ完璧に自分の中には無かったことが、驚きに近い気持ちだった。 どういうわけか解らないけれど、パワーを分けてもらったような豊かな気持ちになって帰ってきた。

よく笑って楽しく過ごせた時間。 高校時代に出来なかった「いろんな仲間と話す」という宿題を、こんな会で改めてやり直すのも素敵なことだった。 多少勇気が必要でも、こういった場には参加すべきだな、と、つくづく。

お知らせです。
またまた長時間のサーバー・メンテナンス!!(んもーっ!)
15日15時~16日15時の予定で、TB張り、コメントの書き込み等できなくなります。 観覧はいつも通り可能な予定だそうです。
ご迷惑をおかけしますが、よろしくご協力ください。

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2007.01.12

どんな顔して

去年の暮れに高校時代の部活動のOB会が催され、会場で写したスナップショットを友人が送ってくれた。 実は同期の部員で卒業まで一緒だった7人のメンバーの中に、ひとり、俗に「芸能人」と呼ばれる職業に就いている者がいて、その人を囲むようにみんなで写っている写真だ。(部活動の性質上、職業でテレビに出演している者がそこそこ含まれていて、会場となった某ホテルの職員から物珍しげに尋ねられたりしたのだが・・。)

当たり前だが、いくら相手の顔が割れていても、こちらの感覚では同期で一緒にバカをやった昔のままなので、その間には大きなギャップが存在して、「変な感じ」である。 私はその人が出演しているテレビは、まともに見たことが無い。 果たして一体どんな顔をして見ていれば良いのか解らなくなって、勝手に疲れてしまうのである。 あの番組はこうだったとか、素人が批評めいたことを考えるのも失礼だし、職業として出演しているその人のことを思うと、ハードスケジュールで大変だなあ、とかも思うし、要するに冷静・客観的に楽しめないのだ。 だから、視聴率に寄与しないのは申し訳ないが、はなっからチャンネルを合わせない。 事情を知っている友人は「リーボーは気を遣いすぎる」と言うが、本人にしてみれば、決して気を遣っている訳ではなくて、照れ隠しみたいな感覚なのだ。 人見知りする年齢の子供が、知らない大人に何かを尋ねられると、母親の後ろに隠れてしまう・・あの感じに近い。

改めて写真をちゃんと見ると、当然ながらみんなそれぞれにオジサン・オバサンの域に入っている。 それぞれに仕事があり、家庭があり、暮らしがある。 その中でテレビに映される職業に就いている一部の人は、「有名人」と呼ばれる。 職業上公人な意味が含まれているだけで、普段に私人なのは同じだ。 この紙一重状態が、なんとも不思議で妙で、どう扱ったらいいのか迷う理由なのだろう。 私の中で、仲間の公人と私人がマーブル模様の様に混沌と混じっていて区別できない。

なんでもないスナップショットに過ぎないのだけれど、これもなんだか真正面から見るのが気恥ずかしくて、封筒にしまいこんだ。

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2007.01.10

頭の中の美味しさ

義父はこのところ、施設で提供される食事の不満を、よく口にする。 「不味くて全然食べられないんだよな」と、こぼす。 しかし、実際に毎食どのくらい摂取されているかは、ひとりずつ細かく記録がつけられていて、介護に当たってくださっている方々によれば、「パクパクと8割方の量は、ちゃんと召し上がっておられますよ。」だそうだ。 「なんだか、本人が食べられないとこぼしているものですから・・。」と伝えたら、すごくビックリされた。 とてもそんな風には見えない、ということらしい。 施設での食事光景を実際に毎回見ているわけではないから、客観的なことは判らないにしても、少なくとも義父が言うように「全然」などということは無い様だ。 痩せてきた訳でもないし。 提供されれば、文句を言いつつもそれなりに食べられる、ということなのだろう。

多分、頭の中で考えている美味しさと、実際の味覚との間にギャップがあるのかもしれない、と睨んでいる。 少し前、急にあれが食べたい・これが食べたい、と言いだして、フランスパン、コーヒー、あんパン、乳酸菌飲料、などなどリクエストに応えて食べさせたのだが、どれもこれも実際は一度きりで「もういいや」になってしまった。 口に入れて味わってみたら「こんなはずじゃなかった」とか「もっと美味しいと思ったのに、大したことがない」とか、そんな状況なのかも・・と、義父を見ていて思う。 加老による味覚の衰えかもしれないし、脳の衰え、脳内の疾患、消化機能の低下、それに、もしかしたら全然違う分野の何らかのストレスがそうさせている可能性だってある。 総合的な問題だとしたら、本人自身にも、周囲の私たちにも、原因を特定できる部類のものではないだろう。 ただ、体の自由を奪われた上に、食べる楽しみも十分に満喫できないとしたら、切ないなあ、と、思うことしか出来ない。

私自身が、食べることを楽しみにしている部類の人間なので、余計に切ない気持ちになる。 とりあえず、食べてみたいと思ったものがあれば、端から用意してあげて試している、そんな感じだ。 彼にとって「本当においしいもの」が、何か見つかると良いのだけれど。

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2007.01.09

悲しき制服

お葬式があった。 (珍しく)ご近所の、ではなく、かつてお世話になった方の、だ。 お子さんがいらして、上のお姉ちゃんが喪主を務める故人の奥様の隣にずっと寄り添っていた。 悲しみに暮れる母を支えているであろう様子は、頼もしかったことに違いないのだけれど、ひとつ大変に残念だったのは、彼女が着ていた高校の制服が極端なミニスカートだったことだ。

誰がどう見ても、あんなスカート丈の制服はありえないから、自分で裾を詰めているのだろうと思うが、座っていれば下着が見えているし(ただでさえあの年代の女の子は、膝頭の位置に気を配ることが難しいように見受けられる)、お焼香で屈めば後からも丸見え。 葬儀には彼女のクラスメイトと思わしき同じ制服姿の女子高校生たちが十人近く来ていて、そちらもことごとく超ミニスカート姿である。 喪服に身を包んだ大人たちの中で、あちらこちらで『なま足』がチラチラしている会場に、思わず閉口してしまった。

中学・高校生で制服のある学校なら、基本的に『制服が正装』だから、制服でお葬式に参列することには何ら問題にならないにしても、あんな丈の短いスカートしか持っていないとしたら、私服の方がよっぽどマシなのではないだろうか。 故人の死を悼み、悲しむご遺族の心に寄り添うためにわざわざ黒い服を選び、煌びやかな装飾をはずしているという、その意味そのものが、彼女たちには全く伝わっていないことが悲しかった。 ああ、自分たち大人は、一体何をしているんだろう、と、そっちに泣きたくなる。

斎場の隅で固まって、賑やかな笑い声を立てている超ミニの彼女たちに、唇に一本指を押し付けて「しーっ」の合図をした。 他人のお葬式の場で説教をたれるべきか、本気で迷っていたのだが、故人の長女があの姿であることを思って踏みとどまった。 悲しみの中で葬儀の段取りや親戚に気を配り、多分いっぱいいっぱいの奥様に代って、誰か親しい親族の方、彼女に教えてあげて欲しい!

人の悲しみに寄り添えない彼女たちが、これからの日本を背負ってゆくのだろうか。 葬儀自体は滞り無く順調に進められたにも拘らず、私は全く違うピントはずれな内容に勝手に一人で頭を抱えていて、葬儀に集中できずにいたのだった。 故人さん、ごめんなさい。

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2007.01.07

それは単位なのか?

時間潰しにつけたテレビで、旅番組が流れていた。 若い女優さんがどこかの漁師町で、天然物の大ぶりのアナゴをゲット。 地元の割烹に持ち込んで大将に料理してもらうという、よくあるパターンだ。

大将曰く「ずいぶん立派なアナゴ持って来ましたね。 こんなの地元でも滅多にお目にかかれないですよ。」 大喜びの女優さんの「何を作っていただけますか?」に、大将の答えは「しゃぶしゃぶにしましょう。」 ・・で、大きなテーブルには鍋セットが設えられた。 ハモのように切ったアナゴの切り身を箸で掴んだ彼女は、鍋の上で手を止めて、「なんシャブしたら良いですか?」 つまり、鍋の中で具材を一回泳がせたら「1シャブ」、往復したら「2シャブ」、ということらしい。 へえーっと感心するやら可笑しいやらで、思わず半笑いしてしまった。

ちなみに、割烹の大将は、何を聞かれたのか理解できずに素人さんらしく固まっていました、はい。

今夜は七草粥の予定。 猛烈な冷たい強風が吹き荒ぶ中、先ほど庭に出て摘み草をしてきた。 ハコベと芹、ナズナだけ辛うじて見つかってホッと胸を撫で下ろす。 これにカブと大根で「五草粥」になりそうだ。 地を這うようにして体を守りながら葉を伸ばしている草に元気を分けてもらって、切り餅も入れて温まりましょうか、ね。 たくさんの命を、ありがとう。

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2007.01.05

「おかめさん」のこと

「おかめ」といえば、あのふくよかな面持ちで「ひょっとこ」とコンビ・・くらいにしか知識が無く、「まあ昔はああいう顔が美人だったのか」の程度の気持ちでしか見たことが無かった。 食いしん坊の私は、おかめ蕎麦がすぐに浮かんできてしまう。

ところが、節分の行事でも有名な京都の大報恩寺(千本釈迦堂のお寺さんと書いた方が早いか)には、おかめさんの悲しいお話が伝えられていると知って、なんとも複雑な気持ちになった。

なんでもご本堂を造営する際、腕の良い職人として棟梁に抜擢されていた長井高次という人が、寄進された大切な柱の寸法を間違えて短く切り落としてしまった。 命を以て償わなければ、と、思いつめていた高次を見て、妻である「おかめ」が、「いっそ他の柱も全て短く切りそろえてはどうでしょう」と提案し、高次はこれを採用して見事なご本堂を作り上げた。 しかし、おかめは、妻の入れ知恵によってご本堂を作ったなどと口走ることが万が一にも起こってはならないと、夫の名声を守るために上棟式を前に自害してしまった・・ということらしい。 高次はおかめに似せた福福しいお面を上棟式のお飾りに付けて、妻の冥福を祈ったとか。 (それで現在でも、上棟式にはおかめを飾る習慣が残っているらしい。)

それがどの時代の話なのかは解らないのだが、ちょっと前まで、日本女性はそれほどまでに夫を立てる生き様を貫いたのか、とか、ある意味においてはそれほど凄い男尊女卑が当たり前に存在していたのか、とか、いろいろと考えてしまったのである。 現在の自分からは失われているような価値観の集約が、おかめさんの話の中には在るような気がして、なんだか複雑な気持ちだった。

別にそれらを優先する暮らし方を選択しようなどと考えているわけではなく、「そういうものをすっかり忘れていたな」という感じだ。 旦那さんを立てる姿勢を、日常生活の中の隠し味のように身に付けているのは、決して間違ったなことではなく、むしろ大事なことのような気がした。 パートナーの存在を大切に扱うことは、時代に係わらず、性別に係わらず、美しいこととして良いに違いない。

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時間が美味しくしてくれる

牛のスネ肉をじっくりと、ほろっと崩れるくらいまで煮込んで、シチューを作った。 実はこういった時間を喰う地味な調理も好きだったりする。 豆を煮るとか、昆布を煮るとか、コンソメを引くとか。 ゆらゆらと煮汁の表面が笑っているような柔らかいトロ火で、ひたすらじっくりと。 時々鍋を覗き込んでご機嫌を伺いながら。

今の世の中、何かと忙しい人もたくさん居られるから、普段から料理にそれほど時間もかけられないし、圧力鍋を使えば驚くほど短時間で煮えてしまうことは、よく解っている。 しかし、私の中では圧力鍋での調理は、「圧力鍋を使っても美味しく作ることができる」というようになっていて、実際にトロ火で煮込んで作ったものとは、全く別物の分類だ。 素材の味を犠牲にしてスープに味を移し、全体が混沌とひとつにまとまった印象は、圧力鍋の調理では表現できない。 出来上がりのイメージによって使い分けすべきもので、同じ料理の調理時間短縮の為だけには、使う気になれないのである。 それはそれ、これはこれ、だ。

ハンド・メイドのニット製品とか、刺繍とかに近い感覚なのかも知れない。 一言で括れば「手仕事」なんだろう。 寒い季節には、そんな手仕事が似合う。 手仕事をすることも似合うし、手仕事で作られた物も似合うし美味しい。 時間が美味しくしてくれる、そんな言葉を思い出した。 

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2007.01.03

おせちが片付いた

晩ご飯で無事におせちも食べ終わり、なんとか飽きる前におしまいにすることができた。
どのくらい作れば良いのか、その見立てが上手くいった事に内心自画自賛してニンマリ。

明日からは通常運転。 さすがに洋食っぽいものが食べたくなっているので、しばらくはメニュー構成もそちらに傾きそうな予感・・。

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2007.01.02

迎春

ありゃりゃ、いつの間にか日付が変わって2日になってしまいましたが、現在元旦の25時ということでご勘弁を・・。

あけましておめでとうございます。

お雑煮とおせち料理を食べて、「雪中梅」を呑んで、テレビも見て、いかにもお正月という感じで過ごしております。
東京で育った私は、ずっと四角い切り餅を食べ続けてきたのですが、このお正月は初めて丸餅を用意してみました。 お椀の中にポッカリ沈んでいる感じがなかなかキュートでよかったです。 角が無い様子が穏やかなお正月に似合っていると思いました。

みなさんはどんなお正月でしょう?
どうぞ健やかに新しい年をお過ごしください。

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