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2007.04.06

イースターを前に

今日はキリスト教の信者にとっては「聖金曜日」と呼ばれる、イースターを目前にした特別な日だ。 最も客観的に一般向けに簡単に言えば、「キリストが罪人として十字架で処刑されてしまったことを象徴する日」とでもなるのか。

キリスト教には小規模な断食の考え方が取り入れられている。 それは「大斎・小斎(だいさい・しょうさい)」と呼ばれ、「大斎」には一日の食事摂取量を普段の約半分にして、これが年に二日ほど。 「小斎」は鳥獣の肉を食べないこと、これは毎週金曜日とされている。 もちろん各自の健康状態や社会的環境等によって例外も認められていて、最終的には個人の判断に委ねられているのは言うまでもない。 断食することそのものに意味があるのではなく、その行為を以て祈りとするとか、美食・過食を反省して節制するためだ。(ああ、胸の奥が痛い・・。) で、今日「聖金曜日」は「大斎」と「小斎」が両方当てはまる日。

精進料理とかラマダンの断食に象徴されるように、食事と祈りには密接な関係がある場合が多い。 私なんかも食べることが大好きな人間なので、放っておくと美味しいものをどんどん食べてしまう。 節制が利かないのだ。 それだけ恵まれた環境下にあるということをすっかり忘れて、快楽にふけってしまう。 だから、たまに意識的に食事を制限することで、暴走に歯止めをかけリセットすると同時に、宗教心を思い出す礎とすることに意味を感じている。 ちょっと前には断食道場が流行っていたが、たまには飢餓を利用して体をリセットすることも、現代社会にとっては貴重な体験なのだと思う。

お腹が一杯に満たされると、精神的に平和になるのは確かだが、思考回路の働きが落ちるのは否めない。 ぼーっと眠くなってしまうのだ。 人様からお金をいただく料理を作っていた時には、夕食時の仕事時間の前に一度軽く食事をしておくことで作業中の低血糖を予防し、お客様が寝静まるような時間になって空腹を満たすために食事をし直す、という二重の食事をすることで、作業能率をコントロールしていたくらいだ。 多分若干空腹くらいの方が集中力は増していて、思考がクリアになるのではないかと思う。

元々主菜(今風にはメインおかずと呼ぶのだろうか。)は、魚と肉が一日おきを目安に献立を組んでいるので、「毎週金曜日は魚の日」としておけば、何ら目立つようなことではない。 実際、一緒に同じものを食べている非キリスト者の『ますたあ』は、そこに何らかの理由があることすら、私が説明するまで全く気付いていなかったくらいだ。 彼にとっては「昨日は肉だったから、今日は魚の日。」であり、それ以上の意味は無いし、何ら苦痛を強いられるものでもない。 そして、私は「あっ、金曜日だな。 『小斎』だな。」とちょっと意識して一日を過ごす。 それだけのこと。(たいしたこと・特別なことでない感じは、こちらのブログから受ける印象にかなり近いような気がする。)

ここに来て、やっとイースターらしい穏やかな春の陽気が戻ってきたような気がする。 自然の中にたくさんの生命力が漲っているのを感じて、穏やかに嬉しい気分だ。 こうして今日を過ごせていることを、クリアな頭でたくさん感謝したい。

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