論点
例の「中国のダンボール肉まん」が、結局はやらせだったという報道を、「やっぱりな、やらせ臭いと思ったんだよな」、という気持ち半分と、どこかホッとしたような気分と、微妙に混じり合った気持ちで聞いていた。
あれがフェイクだったのかどうか、本当のところは確かめようが無いとしても、インパクトが強かったのは、内容がキワドイ部分を見事に突いていたからなのではないかと思う。 残留農薬や、いくつかの使用禁止農薬を検出したという理由で、中国産の野菜への不信感が募っていた背景に加え、白いポニーに黒インクで縞模様を書きシマウマとしてテーマパークで見せているとか、白熊にペイントしてパンダに仕立てていたとか、それでなくても模倣品がたくさん出回っていることは、とっくに皆周知していることだし・・そんな状況の中では、「ダンボール肉まん」も、俄かには信じられないが、やっていても不思議じゃないと、ついつい思ってしまう。 その半面で、まさかそこまで・・と言うか、「ついに世の中も来る所まで来たな」みたいな気持ちもあって、そのギリギリの攻防の場所に、あのニュースがストンとはまってしまったのだ。 敵ながら天晴れみたいな気分だ。
もちろん、やってはいけない事は、どうやったっていけないことに違いないにしても、「さもありなん」と捉えられてしまう怖さというものが、後味の悪さとして、私の中に残った。 つまり、あの中国ならそんなことがあっても不思議じゃないな、と、正直なところ思ってしまっていた部分だ。 一度イメージを作ってしまうと、なかなかそれを払拭できなかったり。 相手側からすれば、そこに甘んじて改善努力を怠ってしまったり、そんな関係とでも言おうか。
例えば、仲間が10人くらい寄れば、必ずいつも遅刻してくる奴がひとりくらいは混じっている。 何度も注意しているのに、いつも時間に遅れるから、そのうちに指摘するのにも疲れて「アイツはああゆう奴だから」と、諦めて注意しなくなる。 本人は気にしつつも、皆に甘えて、結局は遅刻し続ける。 で、その人だけ遅刻する事実は、ずっとそのまんま変わらなかったりして。
新潟県中越沖地震が起きた翌朝、柏崎刈羽原発の事故について、私たちはこんな会話をした。 「あれだけの地震だったのに、外部の変電所の火災だけで済んだなんて、それは東京電力の安全技術を高く評価してもいいと思う。」 そう話した私に、『ますたあ』は一言、こう返したのである。 「本当にそれだけだったかは、あと半月ぐらい経ってみないと判らないよ。」 哀しいかな、正しく事態はその言葉の通りに進展し、実は大きな事故が起きていたことが明らかになりつつある。 隠ぺいする体質、情報操作、情報の囲い込み、責任の擦り合い、うやむやなままの現状復帰・・そんなことを、一体この国はどれだけ繰り返せば気が済むのだろう。
どうせ日本はそういう国だから、と、諦めてしまっては、『遅刻してくる奴』と一緒になってしまう。 疲れても、すぐに効果が出なくても、やはり口を酸っぱくして指摘し続けなければならないんだろうな。 そうしなければ、国が国民に甘えてしまう。
自分が今度の選挙で投票することが、どれだけそういう体質改善に繋がってゆくのか、全く自信を持てないままだったが、それでも、私なりにそんな論点から政党と候補者を選んで、期日前投票を済ませてきた。 こんな一票の重さ、しっかり受け止めてくださいね、政治家の皆さん。
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