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2007.09.29

裏に居るプロ

やっと髪を切った。 気になっていたので、すっきりした気分だ。

ここ数年、ずっと私が信頼して任せている理容師さんは車好きで、それもお気に入りは某外車のオープンカーときている。 「オープンカーに乗っている自分がかっこ悪いのは許せない」とのポリシーで、せっせとジムに通って無駄を削ぎ落とした体つきを維持し、月に一度は東京で洋服屋さん巡りをする。 もうすぐ50近いというのにクラブで顔が通るし、まったくもって年齢不詳系の恐るべきミドルなのだ。

外車のディーラーさんやチューンナップ系のお店情報もさすがに詳しくて、髪を切りながらの話題も、そちら方面に傾くことが多い。 私の知らない世界なので、「へぇー」と聞かせてもらっているのは面白い。

チューンナップを依頼し、車のオーナーと共に「自分の車を作り上げてゆくお店」は、口コミで集客している場合が多いらしいが、その理容師さんが付き合っているチューンナップ屋さんのオーナーが、最近2000万円もするオープンカーを新車購入したとのこと。 「お金持ちだなあ。 そんなに儲かるものなんですか?」、と、怪しむ私に、「それがね、俺も『お前、何でそんなにお金貯められたんだ?!』って聞いたら、裏があったんですよ。」 「裏、ですか?」 ますます怪しい話だ。

なんでも、そのチューンナップ屋さんのオーナー、ちょっとした発明をしたらしい。 それは走行速度が時速100キロを超えると、ナンバープレートが自動的に水平に跳ね上げられる仕組みとのこと。 スピード超過の証拠写真を撮ろうとしても、ナンバープレートが写らない。 「見せてもらったら、それが絶妙に良くできてるんですよ。 高速道路ですぐ前をそいつの車に走ってもらって、付いていったんです。 そうしたら100キロになった途端、ピタッて跳ね上がる。 95キロでも105キロでもなく、100キロジャストなんで、驚いちゃったんですけどね。」 「IC制御とかじゃない訳でしょう?」 「全然。 バネとか使ってせこい手作りの仕掛けですよ。」 「車によって空力の状態が違うから、同じ物を同じにくっ付けただけじゃ、そうはいかないでしょう? どうなっているんですか?」 「そこがそいつの凄い所で、ほとんどの車種の状況を把握しちゃってるんですよね。 『こんなもんかな~』なんてやっただけで、ほぼぴったり。 で、その評判がだんだん広まってきて、ひと稼ぎしちゃったらしいんです。 凄いけど変なやつでしょう?」 「そんなもので、2000万のオープンカーですか・・。」 「言うなれば、ちょっとした思いつきと、そいつの腕だけですよ。 材料費なんてほとんどかかっていないんだから。」

ある意味においては、プロの仕事とも言えるのかもしれない。 以前から何度も「見せ締め」で、警察に取り締まられているらしいが、しぶとくチューンナップ店の経営を続け、口コミで評判が全国に広まっているとのこと。 一発当てた背景には、熱意と根性もありそうだ。

久し振りに景気の良い明るい話だと思ったら、そんな商売かい、と、苦笑する反面、そのプロ根性と技術に脱帽しつつ、私の知らない世界の話を面白く聞いていた。

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2007.09.28

一歩から

ひとつ歳をとった。

子供の頃のように「おめでとう!おめでとう!!」という感じとは程遠いが、どことなく感慨深い気持ちはある。 何か他のものでこの感覚を知っているな、と、しばらく考えてみたら、それは『年越し』だった。 特に何ということもなくて、暦が一日進むだけのことなのに、妙に最近の一年間を回想したりして神妙な気持ちになる。 要するに「一年を区切る」為の、ひとつの機会なんだろう。

この歳になると、だんだん周辺でも不健康やご不幸の話題が多くなってくるし、その手のものに対処することが、大事な役割のひとつのようにもなって、生命力の勢いに任せ物事を進めることがもう無理なのは、身に沁みて思い知らされてもいる。 特に何かが起こったわけでなくても「この一年、よく無事に通過できたな」、というのが正直な感想かも知れない。 多分この感覚は、私が幼かった頃に、もう既に私の両親は抱いていた感覚だろうから、それを子供にも当てはめて「おめでとう!おめでとう!!」になっていたのだろうと想像できる。

私は死産だの流産だのをしているので、育っている子供は居ない。 でも、もしあの時に子供が生まれていたら、もう大学生だ。 下手をすれば、もうそろそろ孫が居たって不思議は無いのである。 うーん、いつの間にそんな歳になったのか、と。 それに引き換え、現実の私は「わーい、ライブのチケットが取れた!」とか「このアイス美味しい!」とか騒いでいる訳で、あまりに幼くて自分自身に呆れるような凹むような。 昔考えていたこの年齢の大人は、もうすっかりオバサンに見えていたし、もっとずっとしっかりしている人だと思っていたんだけどなあ。

ざっと全体を見渡せば、自分の人生の経過速度は速い。 でも、日々の生活を思うと、ひとつひとつの小さなことに気を奪われて、結構ちんたらと過ぎてゆくようにも思える。 「千里の道も一歩から」(だったっけ?)、そんなことを今更強く意識した今年の誕生日。

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2007.09.27

検診と掃除の一日

毎年この時期には地域の住民対象の健康診断で、バリウムを飲む。 以前に比べれば、飲み下すバリウムの量は減り、サラッとして飲み込みやすくもなり、受診する側としてはありがたいことだ。

気になるのは、会場に集まってきている住民の人数が、年々少なくなっているような気がすること。 正確な数値を比べたわけではないので、はっきりしたことは言えないけれど、前は受付をしてから1時間近くは待たされたのに、30分程度になり、10分かからなくなり、今回は待ち時間ゼロだった。 (これも、ありがたいことなのですけれど。) 住んでいる地域毎に会場を分けて日程調整している成果だけとは、言えないような気もする。 あの、狭い回転台の上でぐるぐると寝返りを打ったり、頭を下げるような姿勢の時には腕力で体を支えなければならないし、検査が終わった後の下剤での人為的な下痢など、年配者にしてみれば難しい状況なのかも知れない。 検診を受けたくても受けられない人がどのくらい潜在しているのか、そして、その理由はどこにあるのか、その辺りの把握は行政に期待したい。

で、バリウムを胃と腸に抱え込んだまま、足を伸ばして買い物を済ませ、父がお世話になっている施設へ。 何度か書いているが、その施設の運営会社は以前グッドウィルグループの傘下に入り、今度はニチイ学館の傘下へと移動しようとしている。 会社同士が資本提携するだけなので、直接的な影響は少ないが、時間が経つと運営方針などにじわじわと資本会社のカラーが染み出てくる。

かつて、グッドウィルの傘下に入った時には、ある日、館内のベッドが全て新品と交換されていて驚いた。 以前のベッドだって、そんなに古い物ではなかった筈なのに、だ。 普段のケアに当たってくれているスタッフによれば、新しいベッドは『コムスンベッド』というものらしい。 「本社の方針で、全ての施設で同規格のベッドを使うことになったんです。」、とのこと。 同じ傘下会社の製品を身内で購入し、売り上げを立てて利益を計上する・・なんともグループ企業のメリットを活かしたやり口である。(嫌味タラタラ。)

導入された『コムスンベッド』は、電動で姿勢を変えることのできるギャッジアップ機能も充実していたし、新しいベッドを使えるのは、そこで寝る本人にとっても気分の良いことだろうからと、深くツッコミもしなかった。(利用者がツッコンだからと言って、何現状が変わるわけでもないし。)

昨日、「ベッドの下に物を落としたようだから、拾い上げて欲しい。」と父に言われ、ベッドを移動しようとしたら、大の大人がふたり掛りでも、全く動かせないので驚いた。 横に10センチばかり滑らせることすらできないのである。 ストッパーがかかっているのかと思えばそんなものはないし、キャスターもなく、ただ単に床にベッドが載せてあるだけなのに、だ。 スタッフに尋ねても「そういうベッドなんですよね、これ。」 結局は上から寝具を取り除いてベッドマットまで持ち上げて、ベッド底の構造の隙間から腕を入れ、床に落ちた物を拾い上げた。

まあそんなベッド下だからゴミが溜まり、使った後のティッシュペーパーだの、綿埃だのがたくさん見つかってしまい、一気に大掃除会場と化した父の部屋。 やっぱり動かせない家具っていうのは問題だよなあ。 モップを借りてきてベッドの床下を掃除し、その床を乾かし、ベッドメイクをし直して、ようやく一仕事終えた気分になって帰ってきた。 こんなんなら、古くても以前の『コムスンベッド』じゃないベッドの方が、キャスターも付いていたし、掃除も楽だったし、果たして取り替える必要があったのだろうか・・などと、今更ながらちょっとイラッと来たのだった。

費用は回りまわって施設利用者の負担に跳ね返ってくる。 介護保険で商売が成り立たないと、こうして別の所から何かの利益を生み出してこなくてはならないのだろう。 それらを負担してゆくのは、実は末端の利用者なのだ。

図らずも大掛かりな掃除が適度な運動になったお陰か、下剤の効き目は良すぎるほどに良かった。

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2007.09.25

♪ウィスキーがお好きでしょ

テレビから懐かしいCMソングが流れてきて、思わず釘付けになった。

♪ウィスキーがお好きでしょ?  この曲は昔から好き。 当時は唄っている石川さゆりさんがCMにも出演されていたと思うが、今は小雪さん。 この曲が杉真理(すぎ まさみち)さんの作品だと知る人は、あまり多くないような気がする。 昔、杉さんのライブで彼が唄うのを聴いたが、どちらかと言えば石川さゆりさんの方が曲に似合っている気がした。 いえ、私の中ではどちらが唄おうが、名曲扱いな事に変わりは無いけれども。

「お好きでしょ?」の言い回しにグッとくる。

日本語の中にも、若い人が使った方がしっくりする表現や言い回しもあれば、年配者に相応しい言葉もあって、それが年相応になっていることが大事なように思う。 で、まだ二十歳そこそこの若かった私が、「歳をとったら、こんな言い回しを使いこなせるようなオバサンになりたいな」などと、若気の至りで考えていたものがいくつかあるのだ。

●「はい」の代わりの「ええ」 ●「ありがとう」の代わりの「恐れ入ります」 そして、●「お好きでしょ。」 どれひとつをとっても、大したことない表現なのだが、酸いも甘いも通り過ぎて落ち着いた感じの中年女性が、ニッコリと穏やかにこれらの言葉を使うと、凄く様になっているような気がして、その感覚は今も変わっていない。 例えば、若い頃は素早いタイミングで、声に張りを持たせて「はい」と返事をしたほうが相応しいが、歳をとったら落ち着いて、ちょっと奥行きを持たせて「ええ」と答えた方が、色気がある。

それらのニュアンスに共通するのは、「懐の広さ」で、「貴方のことを受け入れる用意がありますよ」みたいな安心感でもあるように思う。 肩の力を抜いて、尚且つ嫌味っ気の全く無い上での、「お節介」みたいな感じか。 「ウィスキーが良いですね」ではなく、「ウィスキーにしましょうね」でもなく、ましてや「やっぱウィスキーでしょ」でもなく、「ウィスキーがお好きでしょ?」なのだ。 語尾を少し上げて、相手に半分確認するような言い回しで。

こういったセンスは内側から染み出してくるものであって、例えばちょっとした仕草とか普段使いの言葉の言い回しは、どんなにお金をつぎ込んでも身に付くものではない。 アンチエイジングにお金を費やすことが、丸っきり意味が無いとも思わないけれど、私はどちらかと言えば、内側から染み出してくるセンスを重要視して、歳を重ねてゆきたいと思っている。 白髪が目立っても、笑い皺が深くても、「ウィスキーがお好きでしょ?」なんて言いながら、水割りのグラスをくるくる混ぜて、ほろ酔いを楽しむようなオバサンでありたい。

オバサンとしての修行はまだまだ厳しそうだ。 目標だけは高く、かな。

一度聞けば、「ああ、あれか」と、思い出していただけるかと。 こちらのサントリー角瓶HPでどうぞ。(音が出ます。)

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2007.09.23

秋の夜に窓辺で

お風呂上りには、火照った体を持て余して、なんとなく窓辺で夜空を見上げる機会が多い。 昼間の暑さに反して、朝夕はしっとりと涼しくなってきて、虫の声を聞き分けながら優しい気持ちのままでぼんやりする、秋の夜長のひととき。

ちょっと前まで端正な三日月だったのに、日に日に太ってきて、月もいつの間にかふっくらと体を重たそうに、低いところをのんびりと移動してゆく。 中秋の名月は25日らしい。 別に特別な思い入れがあるわけでもないのに、「晴れるといいな」、と、思うのは、日本人の血だろうか?

里山の斜面では名月を待つようにススキが金色の穂をゆらゆら揺らして、彼岸花も紅の華奢な花を開いている。 遠くで若い鹿の鳴き声も響くようになった。 昼間の暑さに拘わらず、今こうして汗を拭きながらうちわで扇ぐ私とも無関係に、秋は勝手に進んでゆくものらしく、このアンバランスさが日常から浮き上がっているように感じられて面白い。 たまに、一年前の今日、二年前の今日というように、同じ日付に書いたブログを読み返してみることがあるが、それによると、去年はもう毛布にくるまって寝ていたらしい。 うーん、やっぱり今年は暑いのかも知れない。 まだタオルケットだしなあ。

最近、テレビを見る時間が極端に減ってきた。 ニュースはインターネットからで十分足りるし、論説は翌日の新聞で読めば良いし、バラエティーは企画の奥行きが浅くて物足りない。 見なければ見ないで、別に特別な不自由も感じないところが、これまた不思議な気がする。 「へえ、そんなもんだったのか」という気持ちと、「じゃあ、今までは何だったんだ」という気持ちとが混じり合っている。 テレビが点いていると、見ている見ていないに関係なく、昼間と同じような感覚で時間が流れるが、テレビが流れていなければ、思いっきり夜らしい夜がそこに現れる、そんな印象だ。

まだ十分に夏の名残の強い日差しの中で、昼間は思いっきり現実的に過ごし、夜は夜で秋の月を見上げながら、ぼーっとイメージの中に溺れる。 どちらも私、両方で私。

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2007.09.21

買い物

基本的に「あれも知りたい、これもやりたい」という性格なので、普段の食品の買い物でも、意識的にいろいろなお店へ行くようにしている。 2回続けて使うことはほとんどなく、個人経営の「八百屋さん・魚屋さん」レベルのお店から、全国的規模で展開している大型チェーンまで顔を出し、そのお店の特徴を楽しみながら日々の献立を考えるのが好きなのだと思う。 東京で暮らしていた時は、魚ならあそこ、肉ならここで、という風に、何店舗もはしごして買うのが日常的だったが、今住んでいる場所ではお店屋さんの数が少ないし、車を使わないと次のお店まで行けない距離で、移動距離が長ければそれだけ時間をロスすることになるから、ひとつのお店当りの購入量は昔に比べて格段に多い。 その分だけお店の特徴が毎日の献立に与える影響も大きくなる訳で、またそれを楽しんでいる自分も居る。

隣接している数市の範囲だけで、片手で足りてしまうくらいの店舗数の小型スーパーマーケットを運営しているような「ちょっとした会社」が、以前はそこそこあったのだが、流通・小売業界の再編の波が田舎にも押し寄せてきて、集客に成功している所には、大手資本が入ってきてしまうようになった。 そうすると当然のように、店においてある商品も変化してゆく。 「その系列のスーパーマーケットに行けば、日本中何処でも、同じような商品があまり差の無い価格で購入できる」、と言えるし、ひとつひとつの店舗の差が小さくなって、「何処に行っても同じ物しか置いていない」、と、逆に言うこともできる訳だ。 前は、隣町まで行けば違う商品を選ぶことができたのに、今は隣町のスーパーマーケットも同じ系列だから、どちらで買っても同じ、ということが多くなる。 陳列されている商品の数が増えたり、値段の差が小さくなったのはありがたいし、新しい商品も扱ってくれるし、近くで済むから便利なのだけれど、「あれもやりたい、これも知りたい」私には、ちょっとつまらない。 もっと自由な裁量が、各店舗の店長に与えられていても良いのになあ、と、ないものねだりをしてしまう。

こんな風にして資本は集中してゆくのだな、と、とても身近に見せてもらえている気がして、興味深い。 と、同時に、個人個人が自分でも意識しないうちに、他と違うことを受け入れないような地盤を押し付けられてゆくような気がして、心の奥で何かを危惧する気持ちも自覚している、今日この頃のお買い物だ。

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2007.09.20

猫と酒飲みの気持ち

『ますたあ』と買い物に出かけた途中、ランチ営業もしている居酒屋さんで昼食を摂った。 昼間からやけに威勢の良いオネーサンが、「いらっしゃいませ~!!」と、大きな声で迎えてくれる。 ちょっとした刺身や揚げ物、小鉢などがセットになっている定食を注文し、手持ち無沙汰でメニューを見ていると、私の内心を見抜いたように『ますたあ』が言う。 「ここならきっと回転してるから、頼めば?」 田舎では人口そのものが少ないので、居酒屋も繁盛している店を選ばないと、新しくない材料や冷凍物を使っていることも多い。 なので、当然生ビールだって下手な店で頼むと、「これなら瓶ビールにしておくんだった」と、後悔することになりかねないのである。 つまり、『ますたあ』の言う「回転」は、樽の中身のことだ。

では、お言葉に甘えて・・と、カウンターの奥で忙しそうにしているオネーサンの所へ。 「生ビール、中ジョッキでひとつ、追加してもらえますか。」 すると、また、やけに威勢良く元気いっぱいの発声で、「はぁい! 生ビールひとつ入ります!!」 思いっきり店中に響き渡った。 いや、居酒屋さんの姿勢としては、間違っていないとは思うんですよ、はい。 夜になったら店内もざわざわうるさいだろうし、店員さんの威勢が良い方が盛り上がってオーダーもたくさん入るだろうし。 だけど、今はまだ13時で、お客さんも静か目に会話を楽しむ主婦がほとんどだし、わざわざ私もあんまり目立たないようにこっそりとカウンターまで来て注文したんですし、そんなにことを大っぴらにしなくても・・・。 と、苦笑。

昼間のお酒は、心の中でちょっとだけ負い目を背負いつつ飲むのが、オツなところでもあり、美味しさの源のひとつでもあるように思う。 食事を用意してもらった猫が、わざわざ部屋の隅っこに運んで背中を向けるようにして、こっそりと、でも満足げに食べている時の気持ちが、少し解ったような気がした。

生ビールはちゃんと回転していたと見えて、上出来だった。 ご馳走さま。 

 

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2007.09.19

忘れられないレシピ

外国人料理人のレシピを見ていると、「これは何かの間違いではないのか?」、と、思わずPCの電卓機能で重量換算をやり直してしまうことがある。 特にお菓子系、それもヨーロッパやアメリカのクラシカルな砂糖の使い方は、日本人の感覚を超えた「何か」が存在しているとしか思えないような量だ。 だから、自分で試してみる場合は、砂糖の量をとりあえず半分で作ってみて、気に入ればそこから微調整というケースが多い。

これもずっと昔に入手したアラン・シャペル氏のレシピを我が家流に調整したもの。 原本ではカボチャ1kg.に対して、1350gの砂糖を使えと書いてあった。 真に受けて、「カボチャ羊羹」になってしまったので、如実に強烈に覚えている思い出のレシピ。

 カボチャとライムのジャム

  • カボチャ    皮抜きで可食部1kg.(半個から4分の3個くらい)
  • グラニュー糖 300~600g
  • 水        100cc
  • ライム     1~2個
  1. カボチャは種と皮を取り2cm角に切る。 ライムは熱めの湯につけてから丁寧に洗い、皮を薄く剥ぐように剥いて(白い綿の部分がなるべく入らないようにして)、果汁を絞り、皮は千切りにする。
  2. 厚手の鍋に水とグラニュー糖を入れ、沸騰させてシロップにする。
  3. 2にカボチャを入れて20分ほど中火で煮る。 焦げ付かないように適宜かき混ぜる。 実が自然に崩れる感じで構わない。
  4. ライムの皮を3に加えて、更に好みの硬さにまで煮詰める。(冷めると硬くなるのでちょっと柔らかめのところで止めておく。)
  5. 火を止める直前にライム果汁を加える。
  6. 荒熱をとって容器に移し、室温で冷ましてから冷蔵庫で保存する。

これをフィリングとしてパイやタルトに仕立てても。 クリームと合わせてシューに詰めたり、凍らせればカボチャアイスにもなる。

●好き嫌いが分かれる味のようなので、まずは少量で作ってみて(ライムも1個から始めてみて)、ご家族の反応を確かめてみてください。 お好きなようでしたら、ライムを柚子に置き換えたり、レモンを使ってもまた違った美味しさが楽しめます。

確かに電子レンジでペーストを作ってしまえば早いし簡単なのだけれど、砂糖と素材の一体化とか、全体がまとまる感じは、鍋で気長に煮詰める方法には勝てないな、と、思うことが多い。 美味しさって、本当に微妙でデリケート。 要は使い分けなんだろうな・・。

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2007.09.18

海のある光景、山の暮らし

朝、カーテンを開けた時にいきなり青空が広がっているのを見たのは、ずいぶん久し振りのように思う。 光を浴びながら、思わずのびをしていた。

昨日の午後は、ちょっと足を伸ばして西伊豆まで。 峠のトンネルを抜ければあっという間の距離なのに、あちら方面には用事がないので滅多に行かないのが現状。 夏前の大雨で崩落を起こし仮復旧の形で片側交互通行している国道を通り、痛々しい山の斜面を横目で見ながら、「人間の生活の基盤なんて、自然の力に比べたら虚弱なものだよな」と、しんみり思う。

海辺までの長い下り坂を降りるにつれて、どんどん雲が晴れて気温も上昇。 海岸の港町ではまだ夏の光景だった。 じりじりの容赦ない陽射しに汗をたっぷりかく。 磯遊びをする親子、防波堤で釣り糸を垂れる人たち、遠くの観光フェリー、さびれた感じの民宿、すれ違った散歩中の腰の曲がったお年寄り、鮮やかなカンナの花。 どこかで時間が止まってしまったかのような感じでもあるし、いつかのデジャブを見ているような感じでもあった。 物理学には詳しくないけれど、人は心のありようで時間軸に歪みを作り出すことが可能なようだ。

戸田港では、午後の3時から、缶ビール片手にもう「出来上がってしまっている」肉体労働者系の男性が数人、車座になってなにやら喋っていた。 こういう光景は、街中ではかなり浮くし、トラブルを避けるためわざと離れたところを通ったりしてしまうのに、ここでは極々自然な感じで景色に溶け込んでいるのが不思議だ。 海の包容力なのか、眩しい陽射しの開放感なのか、高く透き通った空のせいなのか。 街で暮らす人たちが必要以上にぎすぎすしているのとは正反対の何かが、ここを支配している。 悪くない。 どちらを生活の場として選ぶかと問われたら、微妙なのだけれど。 目に余る「生産性の低さ」を受け入れることができさえすれば、きっと田舎の生活も快適だろう。 海水浴場を囲むように作られた防波堤の上を歩きながら、そんなことをぼんやり考えていた。

昨日たっぷりの汗をかいた服がふたり分、洗濯機の横で小山を築いている。 雨続き高湿度続きで心の中に淀んでいたアクのようなものも、昨日のショート・トリップで汗と一緒に外に出てくれたような気がする。 今日のこの陽射し、この風なら、さっぱりと乾いてくれるはず。 秋の洗濯日和・・さあ、こて初めに分厚いジーンズから外に干しますか。

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2007.09.16

じっとり

ここ数日、じっとりと湿度が高い日が続いて少々バテ気味。 一日の間に雨降りと快晴が交互に何度も繰り返されるので、降った雨がどんどん蒸発してくる感じで、その上晴れれば、かーっと日光が照りつけ、まるで「ヘルシオ」の中で蒸し焼きにされているような気分になる。(どうせ「ヘルシオ」の中に居るのなら、ついでに脂肪も落としてくれると良いんだけどな。) やる気が削がれて体もだるいし、ぼーっと集中力が足りない。 外では行く夏の名残を惜しむかのように、ツクツクボウシが気合を入れて鳴き続けている。 こちらの頭の中までじんじんしてくるみたいだ。

実家から電話があり、私が小学校で一緒だった友人のお母様の件で相談したいことがあると言う。 母は母同士、子供は子供同士でいまでも交友しているのだが、彼女のお母様は先だってくも膜下出血を起こし、手術・入院・リハビリテーションとめまぐるしく過ごしている。 幸いにして一命は取り留めたものの、からだの色々な機能がダメージを受けている状態だ。 転院するのか、自宅に帰るのか、介護の手を借りるのか、リハビリテーションや言語聴覚師による訓練の継続はどうするのか、などなど、家族の心配と不安は尽きないようで、憶測と事実が混同されている様子。 私がかつて勤務していた病院のことなど、友人のお父様(倒れた患者の夫)が実家の母にいろいろと聞いてきたらしい。

私は、友人である彼女(患者の長女)が、なにかあれば直接私に連絡をしてくるはずだと思っているので、多分、実家に一人残っているお父様が独りで心配をし、浮いた状況になってしまっているのではないかと見ている。 家族といっても、嫁に行き子供も育てていて、普段から一つ屋根の下に過ごしている訳ではないので、お婿さんへの遠慮もあるだろうし、それにも増して、入院患者の世話やなんだかんだでみんな余裕の無い状況だろう。 深い意思疎通ができていなくても仕方があるまい、と、思う。

とりあえず、お嬢さん夫婦も一緒に含めて、客観的に一度現状の問題点を把握すること。 その上で、お母様が治療を受けている病院にはケースワーカーが常駐する医療相談室があるから、そこを活用すれば、必要な情報も集められるはずだし、場合によっては家族と病院の間に立って調整をしてくれるはずだ、と、話しておいた。 もちろん何か役に立てそうなことがあったら、気軽に電話してくれれば良いとも。

家族に病人が出るというのは、大変なことである。 溜息が出たのは、湿度で頭が働かないからだけじゃないだろう。 日が暮れて、ようやく涼風が吹いてきた。 さて、夕ごはんの準備にかかりますかね・・。

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2007.09.15

戒め

炊き上がったごはんをよそう「しゃもじ」に残った米粒を指先で摘みながら、ああ、そんなこともあったな、と、思い出していたのは、「○○のような顔になる」という類の戒めの言葉だ。

子供の頃は料理道具と食事道具の区別がつきにくいので、母と一緒にキッチン(というよりも台所の方が相応しい感じ。)に居ると、よく言われていた。 「しゃもじから直に食べると、しゃもじのような顔になりますよ。」 真面目に考えてみると、「しゃもじのような顔」というのがいったいどんな顔なのか、実は理解していなかったりするのだけれど、子供ながらに崎陽軒のシウマイの箱に入っていた醤油入れの『ひょうちゃん』のイメージを重ね合わせて、「そりゃあ大変だ」と思っていた記憶がある。

かつて何人かの友人と話していて、ついそんな話題になったことがあった。 それで判ったのは、「○○の顔」の例えは家によってばらばらだということだ。 ある友人は「お玉から食べると、お玉のような顔になる」、と、言われて育ち、別の友人は「菜箸で食べると顔が菜箸のように長くなる」、と、脅されていた。 驚いたことには、また別の友人は「お鍋から食べると、お鍋のような顔になる」、と、言われていたことで、さすがにこの時ばかりは一斉に、「お鍋のような顔って?!」、と、ツッコミの集中砲火を浴びていた。

綿密に調べてゆけば地域色が現れそうだ。 時代によっても変化していそうだし。 今でも子供に言っているママは居られるだろうか。 幼いうちから現実的な感覚を身につけている子供が多そうなので、通じないかもしれないな。 あの頃は、戒めの言葉ひとつにも夢があったように思えて、懐かしく思い出していた。

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2007.09.13

こだわり

月に一度か二度、車椅子の義父と一緒に買い物をする。 車椅子のまま乗降できる車は施設で用意してくれるので、大型小売店と呼ばれるようなショッピング・モールへ。 通路が広いし陳列商品も多種に亘っているから、他の車椅子のお客さんとすれ違うこともそこそこあって、あまり目立たずに済むところもポイントかな、とも思いつつ。

外へ連れ出して世間の風を感じ、色々な商品を見たりすることが、刺激になったり気分転換になれば、という気持ちが、こちらにはあるのだけれど、それに反して父は限られた種類のものにしか興味を示さない。 季節に関係なく、いつも買いたいものは決まっていて、その売り場を通れば車椅子から乗り出すようにして、丁寧に商品を見比べたりするのだが、そうでない所ではあくびなぞして全く気が無い状態なのが、車椅子を押していても手に取るように伝わってくるのが、なんともおもしろい。 個包装のキャンディーの類、干し芋、柿の種、黒糖かりんとう、ある種のビスケット、バナナか温州みかん、そしてちゃんとしたパン屋さんのものではなく流通パン屋さんの柔らかい「バタール」。 これが彼にとってのオールスターズである。

自分で出かけて気に入った食品を買ってきていた頃には、おやつも色々な種類のものを選んでいたのだが、病状が進むにつれて(父の脳梗塞は多発性で、忘れた頃にひとつふたつとパラパラ梗塞が飛ぶ。)選択の範囲がだんだん縮まってきて、日常生活でも混乱が見られるようになったここ半年ほどは、ほとんど固定化されている。 選択する、という行動の元になる脳内の働きは、かなり高次のものであることの証明みたいだ。

今は若干の好き嫌いはあっても、出されたものは何でも食べてくれる父だが、介護に当たる方々の話を聞くと、普段の三食の内容でも、本人が決めたものしか食べないようなケースもそこそこあるようで、まあ割り切ってしまえば献立を工夫する必要が無いだけ作る方は楽だ、と言う方もいらっしゃったが、食べることの楽しみが失われてしまうのもかなり切ない話で、家族としてそれを受け入れなければならないのも辛そうだ。 特に私のように、自分が「食べること、呑むこと、(そこそこ)作ること」が好きな人間にとって、そんな父の姿を目の前にしたら・・などと考えると、やぶさかではない。

ヘモグロビンA1cの値が高いので、ブドウ糖負荷試験などをかければ、多分境界型糖尿病くらいの診断は付いてしまうであろう父であるが、もう平均寿命を越えている事もあるし、脳梗塞のなんだかんだもあるので、医師も家族としても、そこに踏み込むことを選択していない。 本人が明確に自分の病状を理解できなくなっている今、多少病気が進もうが、「食べる楽しみ」を奪いたくないのが私の正直な気持ちなのだろうな、と、自分の心のあり方を直視させられた気分である。

私が年をとったら、どんな食べ物にこだわりを見せるのだろうか、などと、車椅子を押しながら想像していた。 最期までビール・ビールなどと叫ぶことになりそうで、ひとり苦笑いを噛み殺した。

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2007.09.11

ダブルベルガモット

ちょこっと出かけた『ますたあ』に頼んで、「午後の紅茶Special ダブルベルガモット」を買ってきてもらった。 私はベルガモットの香りが好きで、紅茶のアールグレイも濃い目に香り付けしてあるものがタイプなので、この商品が気になっていたのだ。

飲んでみて、「ああ、やっぱり市販の紅茶はこんな感じにおとなしく納まってしまうよな。」などと思いつつ、同時に、この印象は別のもので知っているぞ、と、首を傾げた。 紅茶ではなくて、全く別ジャンルのもののような気がする。 一生懸命考えていたのだが、いっこうに思い出せる気配がないので諦めた。

飲み残したものを冷蔵庫に入れておいて、今朝朝食の後に飲んだ。 で、何の脈絡もなく、いきなり思い出すことができた。

シーグラム社製のジンだ。 飲み込んだ後で鼻に抜けてくる香りが、かなりそっくり! ベルガモットの香りにもいろいろな種類がある中で、これはほとんど同じと言えると思う。

ジンはジェニパーベリーの香りが前に出ているものがほとんどだが、シーグラム社製のものはベルガモットが強く、それが気に入って一時期凝ったことがあった。 多分関係無いだろうが、その当時、シーグラム社はキリンとライセンス提携していて、「キリンシーグラム」だったんじゃないだろうか。 ロバートブラウンが流行っていた頃と重なる話だ。

なんだか懐かしい気持ちになって、急にシーグラム社のジンを探したくなった。

ところで、ボトリングされた紅茶は、いつまで経っても、どうも「紅茶風味飲料」の域を脱していない気がする。 どこか判らないんだけど、不自然なんだよなあ。 濁り(クレムダウン)を出さないためにタンニンを除去しているのだろうか?、渋みとか苦味が妙に薄いし。 無糖の紅茶は何か技術的に作れない理由があるのだろうか?、とか、疑問が多い。 なんて、ぶつぶつ言いながらも、新製品が出るとついほだされて買ってしまうのは、哀しい性か。

最近の皆さんの記事から。 「たまにはいいかな」という『源チャさん』の御意見。 「1回飲めばもういらないな」という「おっささん」の御意見。 やっぱりベルガモットって、好みが分かれるな。

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2007.09.10

とある初秋の日に

台風が去ったら、ススキが一斉に金色の穂を出した。 昼間は蝉の声が響き、朝夕は秋の虫が賑やかで、季節がマーブル模様に交錯している。 昔、どこかで何かの機会に「9月を色に例えると?」との質問を受け、アンバーと答えた記憶が、何の脈絡もなく蘇ってきた。 いったい誰がそんな質問をしたんだろう? 記憶がすっぽ抜けていて、思い出せない。 丁寧に寝かされたシングルモルトの水割りが恋しい季節。 あー気の利いたバーに行きたい・・、と、無い物ねだりの山暮らしである。

買ってきたバナナ、まだ軸が緑っぽい色だったので油断していたら、あっという間にスイートスポットが。 なかなか甘味が強くてしっかりしたバナナになったので、ふと思いつきで「砂糖を入れないゼリー」を作ってみた。 ゼラチン液にちょっとレモン汁、香り付けに金木犀酒をたらして、細かめに切ったたっぷりのバナナを固める。 ただそれだけのこと。 甘味は全面的にバナナに頼って、砂糖も蜂蜜も使わない。 ゼラチン液がさらさらの内にバナナを入れると、流し入れた器の表面にバナナが浮き上がってしまい量が入らないので、とろんとするまで冷やしてからバナナを混ぜ込み、器の底までたっぷりとバナナが入っている状態にした。

昔と違って精製技術が進歩したのか、今の製品はゼラチンの匂いがほとんどしない。 あれを嫌って「ゼリーが食べられない」という友達も確かに居たが、気にならなかった私には懐かしい香りのひとつに記憶されている。 コーヒーなど香りの強い素材でゼリーを固めても、ちゃんとゼラチン臭かったっけ・・実家の母が手作りしてくれたおやつの、懐かしい記憶でもある。

手術を受けてから少し食べ物の好みが変わったようで、体が甘いものを全く欲しなくなった。 カボチャやサツマイモ、果物など素材そのものの甘さは受け入れるのに、お菓子や甘い飲み物には触手が伸びないのだ。 別に食べないからといって困るものでもないけれど、自分で自分を不思議がっている感じ。 多分、また寒い季節になったら、何食わぬ顔で甘いココアなどを啜っているんだろうな。 時間の問題だろうと思っている。

砂糖抜きのバナナゼリーには、図らずもゼラチンの懐かしい匂いがちょっとだけ感じられて、面白い出来上がりになっていた。 さっぱりして夏向きの味。 もっと真夏に作っても良かったのかも知れない。

雨の晴れ間をぬって、暑さと手術からの回復を理由にサボっていたウォーキングを再開してみた。 びっくりするほどに体が軽くて息も上がらない。 根本にあった貧血が改善されると、こんなにも違うものかと内心驚き怪しむほど。 体は案外、この状況に順調に適応しているように思えて、俄かに心強い気持ちになった。 ありがたいな。 

ちゃんと体も動かしたし、今夜も美味しいビールが飲めそうだ。

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2007.09.09

濃すぎるよ

久し振りに夢を見た。

料亭のような立派な奥座敷で、細木数子さんと差し向かいで呑んでいた。 お互いに熱く語りながら。 真紅のスーツ姿の細木女史は、凄い存在感で。 似合ってたけれど。

目覚めて、あー濃かったな、と、ぼんやりしていたら、隣で目を覚ました『ますたあ』が一言。

「次長課長と一緒にアフリカに行った夢、見ちゃった。」

・・なんだか、朝から妙に疲れている我が家です。

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2007.09.08

不思議に思うこと

いろいろな地域で、救急車に乗った妊婦さんが、受け入れ病院を見つけてもらうことができずに、俗に言うタライ回しにされた問題が報道されている。

私の住んでいる地域でも、やっと「来てくれる産科医」が見つかって、なんとか外来が再開されたばかり。 それも独りだけでは、こなせる医療の絶対量に限界がある。 患者として仕事っぷりを見ているだけでも切なくなるような現状だ。 「居てくれるだけでも、ありがたや~」と思わずにはいられない。 どう考えたって、臨床に出て、まさに現場で踏ん張ってくれている産科医の数は足りないだろう。 それを社会的問題にするのは当然の成り行きである。

しかし、一方で、妊娠してから何十週も経過していたり、ましてや臨月に入っているというのに、「かかりつけ医が居ない」とは一体どういうことなのか?!、と、ニュースを見ていて思う。 ちゃんと基本的な妊婦健診を受けているのだろうか?、母子手帳の交付はされているのだろうか?、それにも増して、いったい何処でどのようなお産をしようと考えていたのか? その具体的イメージはちゃんとできていたのか? そこが産科医が足りないことにも増して、大きな問題だと思う。 何故その人たちが受診していなかったのか。 お金が無かったのか、時間が無かったのか、受診すべきことを知らなかったのか、何も考えていなかったのか。 急患受け入れ態勢以外の、妊婦側の原因もしっかり分析して対策を講じないと、大変なことになる。

妊娠や分娩は基本的に自然なことではあるが、一歩間違えば母子共に命取りになることなので、「ちゃんと自然に、順調に経過していること」を確かめてゆく必要がある。 日本でもかつてはお産を巡って命を落とす割合(周産期死亡率と呼ぶ)が高かったが、妊娠経過中に何度か医学的チェックを受けて、自然の経過の範疇からはみ出していないことを確認することが徹底され、また、異常が見つかった母子への管理・治療技術が進歩した結果、命を落とす割合は世界に誇れるほど激減した。 そのプロセスを無視して、いきなり陣痛が来て初対面の病院に運び込まれたのでは、妊婦さんも医療従事者も妊娠経過を理解できていない分だけ、リスクが高まる。 つまり、赤ちゃんもお母さんも命にかかわる危険が高くなることだって当然だ。 そのリスクを病院側に一方的に押し付けていたら、ますます産科医の成り手は減るに違いない。 挙句の果てに訴えられたのでは、身体がいくつあったってもたないだろう。

赤ちゃんは生まれてから自分(たち)の子供になるのではなく、お母さんの胎内で育っている時から、もうちゃんと自分(たち)の子供だろう。 この感覚は妊娠を自覚した一般的な女性なら、誰でも理解できる感覚だと思う。 私の拙い経験においても、言葉を越えた感覚として理解できるものなのだ。 それを人は母性と呼ぶらしい。

妊娠経過を診てもらうことは、自分の身体を守ることに留まらず、宿った命を守るためにもとても重要で、尚且つ親になる立場の人にとって、子供への基本的な義務なのだ、という意識を強く持っていただきたい。

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2007.09.07

丼の上の秋

今年は鮮度の良いサンマが、しかもお手頃な値段で出回っている気がする。 塩焼き、刺身、酢でしめる、ショウガと甘辛く煮たものも魅力的。 蒲焼も大好きだが、今回は目先を変えて味噌風味で。

  焼きサンマ丼

  • サンマ           ひとり1尾
  • 味噌            ひとり大さじ1
  • 砂糖と日本酒       ひとり大さじ半分
  • 水              ひとり大さじ1
  • あればショウガまたは柚子の皮のすりおろし  少々
  • 小麦粉と胡麻油かサラダ油      適宜
  • 万能ネギまたは大根おろし、カイワレ大根、ミョウガ等お好みで適宜
  • ごはん(できれば麦飯や雑穀ごはん)   適宜
  1. サンマは3枚におろす。 腹骨をすき取り、ひれを落として、皮に数ヶ所切れ目を入れる。 長さを半分に切る。
  2. 味噌・砂糖・日本酒・水を耐熱容器に入れ、ラップをかけて電子レンジで30秒ほど加熱するか、小鍋で練りながらひと煮立ちさせる。 手元にあればショウガ汁や柚子の皮を少々加える。(省略も可。)
  3. サンマに小麦粉をまぶし、油をしいたフライパンで皮側からこんがりと両面を焼く。  身が軟らかいのでフライ返しを使って。
  4. ごはんを丼に盛り、焼きあがったサンマを乗せ、合わせ味噌をサンマの上にかける。 お好みで小口切りにした万能ネギや薬味を天盛りに飾る。
  5. 身を崩して、全体を混ぜるような感じでいただく。

●この頃はおろした状態に作ってあるサンマも売っているようですから、忙しい時はそれを使えば楽。 ●薬味はお好みで、手持ちのものを使ってください。 七味唐辛子や粉山椒を振っても美味しい! ●アジやイワシを使って作ることもできます。 季節に合わせてどうぞ。 ●素朴な青魚の香りは、麦飯や雑穀米、玄米などと組み合わせると、美味しさが引き立つような気がします。

野菜たっぷりのおかずを添えて、お昼ごはんにでもいかがでしょう。

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2007.09.06

嵐だ

まあなんとも見事な「台風っぷり」を発揮してくれている台風9号です。

凄い雨降りで、暴風域に入ってから風も吹き荒れていますが、おかげさまで今のところ、家の中は平穏に過ごしています。 当方については、どうぞご心配なく。

これから東京の方に進路を取るようですので、どうぞみなさまもお気をつけて。

・・・停電になりそうな予感がするので、とっとと早寝を決め込んでいます。 大義名分をもらったようで、ちょっと嬉しい眠り姫です。

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サントリー贔屓?

普段はビール一辺倒なのだが、やはり発泡酒といえども新製品は気になる。 なので、いろいろと浮気で冷やかしては、「んーやっぱりビールだよな」などとブツブツ言い訳をした挙句に、結局元の鞘に納まることを繰り返すはめになる。

発泡酒は、ビール好きが本当に羨ましくなるほどに、新製品や期間限定商品が次々と発売される。 いいなあ、羨ましいなあ。 ビールに比べて、それだけ売れているということを暗黙の内に語っているようにも見え、酒屋さんの店頭で嫉妬に近い気持ちを抱く。

今、ちょうど手持ちのビール箱が空になっているので、件の浮気癖で秋の発泡酒を2種類続けて飲んでみた。

ひとつはアサヒビールの「本生クリアブラック」。 ・・これはちょっと。 私の趣味からは大きく外れていた。 ロースト麦芽使用とのことだが、ローストの風味だけが発泡酒本体の味から突出している印象で、ちぐはぐな感じがする。 「ロースト風味のフレーバードビールみたいだ」と言ったら、笑われた。 色合いや香りは秋らしくて良いのだけれど。

もう一種類はサントリーの「秋生」。 こっちは気に入った。 この商品も焙煎麦芽使用とのこと。(片やロースト、片や焙煎というのが、なんとも笑ってしまう。) 色合いの違いは若干濃い目くらいの範疇に収まっていて、見た目のインパクトは無いが、飲んだ時の全体のバランスが、発泡酒なりに丁寧にまとまっている印象を受ける。 これはシーズン中にもう一度買ってこようかな、と、思った。

何を以て美味しさの基準とするかは個人的趣味の問題なので、いろいろとご批判はあることを覚悟するが、最近はキリンもアサヒもバランスの悪いビールが目立っていて、私が「あっ、これ、美味しい」と思うと図らずもサントリー、というパターンが続いている。 別にサントリーのラグビー部の監督が清宮克幸氏だから贔屓している、というつもりも無い(はずだ)けれど。 苦笑。

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2007.09.05

「旬」は頭の中に

今日の夕ご飯に並んだものを、冷静に眺めていたら妙な気分になった。

メインのおかずは「戻りカツオのたたき」。 カツオは高知県であがったもの。 そして、その隣には「茹でたトウモロコシ」。 トウモロコシは青森県産。 昨日のうちに煮ておいた「切干大根と厚揚げの煮物」。 素材はほぼ全て近所のものなので静岡県産。 それにちょっとしたサラダ。 デザートのスィートパインはフィリピンからの輸入品。 幸水梨は愛知県のものだ。

今頃カツオなんてなんだかピンと来なくて、魚屋さんの店先でしばらく迷っていたのだが、先だって新物のサンマを食べたばかりだったこともあり、目先を変える気持ちで、期待せずに買ってみたものだ。 しかし、なかなか脂ものっていて美味しい。

トウモロコシもこんな遅い時期に?、と、半信半疑の気持ちだった。 「まあ、この夏最後にもう一度味わっておくか」くらいの気持ちで一本だけ買い、皮をむいて茹でてみると、なかなか立派である。 ちゃんと香りもあるし、出回り期のものに引けを取らない。

昔はそれこそ時期を過ぎたら手に入らなかった食品も、一年中店先に並んでいる。 で、それら全てが美味しくないかと言えば、そうでもなくて案外イケるものもある。 余程路地物のしっかりした野菜などでなければ、良い勝負をしているものも多い。

全て流通のお陰なんだな、と、ぼんやり考えていた。 日本列島だって南北にこれだけの長さがある。 九州で採れていた物が、徐々に北上し、本州最北にたどり着くまでにはそこそこの時間が必要なのは当然で、それらが流通してくれば、今回のカツオやトウモロコシのようになったって、何の不思議もないだろう。 ましてや常夏のフィリピンでは、もしかしたら一年中パイナップルが栽培可能なのかもしれないし、それを輸入してくれば、旬も何もあったもんじゃない。

料理において季節感を大事にしたり、旬の食材を使うようにするのは、栄養の面のみならず、食べてもらう人へのおもてなしのひとつだろうことは認めているけれど、これだけ日本全国の、また各国の食材が簡単に入手できるような流通の時代で暮らしていることを考えると、「旬」は頭の中・記憶の中の感覚であって、味や風味そのものは選びようによって簡単操作できてしまうのではないか、とも、思ってしまった。

こんなご時世に、「旬」を教育しようとする「食育」は苦労が多いだろうな。 教わる側の子供たちは、「旬」をどれだけ肌で感じることができるだろうか。 地産地消でこじんまりとまとまっていた流通の時代でこそ、「旬」の感覚は大事だっただろうが、今、果たして「旬」がどれほど重要なことなのか、正直ピンと来ない気もして首を捻っていた。

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2007.09.04

リーボー、煮物をもらう

昨日の夕方。 お店が集まっている地域の路地を横断しようとして、お店の駐車場の片隅で通ってゆく車をやり過ごしていた。 そこへ小学校低学年くらいの子供と母親がやって来て、私の隣で同様に車が切れるのを待ち始めた。 子供の手には炭酸飲料。 アルミ製の、飲み口がちょっと大きめでスクリュータイプのキャップがついているやつだ。

子供がスクリューキャップを捻って開けたと同時に、シュワーッと泡が溢れてきてしまった。 「わっ!!」、驚いた子供は焦ってキャップを元どおりに締めようとする。 すると、ボトルの中で高まっていた内圧が逃げ場を失い、キャップとボトルの狭い隙間から勢いの良い水鉄砲のように、ピューッとジュースが飛び出す結果を招くこととなった。

で、そのジュースが私の太ももの辺りを直撃したのである。 結構な勢いだったと見えて、避けたにも拘らず広範囲で濡れてしまった。

「ああ!ごめんなさい、ごめんなさい!!」慌てて謝る親子。 なんだかまだ呆然としている私に、頭を下げ続けている。 「ジーンズですし、家に帰るだけですから大丈夫ですよ。」 「どうしましょう。 本当にごめんなさい。」 「いやあ、びっくりしましたけど、洗えば済むことです。 故意じゃないのは良く判ってますから、ご心配なく。」 「いえいえ、それではこちらの気が済みません。 せめてお洗濯代くらい(負担させてください)。」 「いや、そんな、普段履きのジーンズですし、洗濯機でガシャガシャ洗えば良いですから、ホント、大丈夫です。」 ・・しばらく押し問答が続いて、ようやく向こうも落ち着いてきた感じだ。

「本当に良いんですか?」 「うん、大丈夫です。」 「申し訳ありませんでした。」 「いえいえ。 それでは・・。」 立ち去ろうとした時、母親が「あっ!」。 振り向いた私に、小さな袋を差し出して、「これ、そこの総菜屋さんでさっき買ってきた煮物なんですけど、良かったら召し上がってください。」 煮物そのものは割りとどうでもよかったのだが、ここで受け取っておかないと、母親の気持ちを無下にしてしまうようで、無視できない雰囲気があった。 「せっかく買ったのに、悪いです。」 「いえ、せめて受け取っていただければ、申し訳ない気持ちも少し治まります。」 「判りました。 じゃあ、遠慮なくいただくことにします。」 3人で笑ってお別れした。

私はお惣菜屋さんの商品を利用する機会が少ないので、どんな味なのか、どんなものなのか、興味深く楽しませてもらった。 いただいた煮物は、里芋と小イカの煮しめ、それから、一口サイズのおからハンバーグのようなもの。(食べても、何が材料かよく判らなかった。) 美味しくいただいた。

世の中、どんなタイミングで何が起こるか、不思議なものである。 ごちそうさまでした。 

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2007.09.03

お墓

ウィークエンドを使って、墓参に行ってきた。 お墓は埼玉なので、移動にもそこそこ距離がある。 さすがに一泊してくるほどのことでもないけれど、なんだかんだと丸一日がかりで、有料道路を使わずにタウン・ウォッチングを兼ねてお気楽に移動していたら、家に帰ってきたのが翌日になってしまった。

お盆やお彼岸など、墓地周辺の道路が混雑する時期を避けて墓参するのが、いつの間にかお決まりのパターンで、シーズン・オフの墓地は、騒がしくもなく、いかにも場所柄に相応しい印象で落ち着いている。 それでもいつ行っても、「思っていたよりは人が居るな」、と、感じるのは不思議なもので、霊園の駐車場にちょっとした物売りの軽トラックが居たり、お墓を掃除している人の様子が見えていたり、うら淋しいという印象とは程遠い。

立派なお墓が建っているというのに、墓石の横に立派なススキの株が根を生やして、若い穂を風に揺らしていたりするお墓もある。 ちょっと苦笑しつつも、視点を変えれば秋らしい風景にも思われて、「まっ、他所様には他所様の事情があるんだから、こちらの価値観で決め付けてはいけないな。」などと自分に言い聞かせているのも妙だった。

どんどん高齢化が進み、「家」の概念が崩れてますます個人単位の世の中になっていった時、これだけたくさんのお墓を誰が管理し維持してゆくのか。 そこまでお金と手間をかけて維持すべきものなのかどうかは、それこそ各々の家の事情や価値観によって違うだろうけれど、ずらりと並んだお墓は、どこか旧体質の象徴のように見えて、無言のプレッシャーがのしかかってくる様な気分になることも否めない。

変わることが良いのか、変わらないことが良いのか、そのあいまいさの中で結論を先送りして誤魔化して、それなりの毎日をそれなりに暮らしている。 この構図は、どこかで知っているような気がするのだが・・。

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