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2007.10.31

クロッカス

買い物の途中でDIYのお店に寄ったら、園芸コーナーに球根の段ボール箱がたくさん並べられていた。 一番の人気商品は水仙らしく、結構な品種の数だ。 それぞれの箱に、この球根はこんな花が咲きますよ、みたいな写真が貼り付けてあるのだが、色も花弁も大きさも本当に様々なら値段もピンキリで、妙に感心して眺めていた。

端っこの方に懐かしい水栽培用の入れ物を見つけて、釘付けになった。 プラスチック製のものの隣には、「あの頃」のままの分厚いガラス製のものも。 首の部分が細くくびれた形が、とても懐かしくて郷愁をそそられる。 よく見るとデザイン性を重視した洒落た製品や、同時に複数の球根を乗せられるような構造のものも売られていた。 それなりに進化している様子に、胸を撫で下ろすような気分になったのはどうしてだろう。

ヒヤシンス用の大型と、クロッカス用の小型の商品が並んでいる光景は、兄弟みたいで可愛い。 義父も懐かしんでくれるかと思って、テーブルの上でも邪魔にならない小さなクロッカス用をひとつ、球根とセットで買った。 容器が60円、球根が30円程で、合算して消費税をつけても100円でおつりが来た。

父の元へ持ってゆくと、介助の手助けをしてくださっているヘルパーさんの若い男性が、クロッカスを知らないというので、父と苦笑してしまった。 成長を楽しみにしてくれる人が思いもかけずひとり増えて、きっと球根も育ち甲斐があろうかというもの。

何色の花が付くのかは内緒にしておいた。 小さな命を育てることで、みんなにハッピーな気分が運ばれてくることを期待したいと思う。 「園芸店で見つけたクロッカスの水栽培セット100円。 日常に変化のある喜びプライスレス。」なんて、上手くいきますかどうか・・。

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2007.10.30

口癖 その2

世間的にペンションは「アットホーム的な家族経営」というイメージと結びついている業態。 なので、お客さんの前にオーナー夫婦の幼い子供が出て行ったりしても、たいてい大目に見てもらえるものらしい。 メモリアが稼動していた10年以上の間で泊まりにいらしたお客様の中にも、オーナーの家族構成に興味がある方も多く、どんな家族がこの宿を切り盛りしているのか興味深々という質問をたくさんお受けしてきた。 不思議なもので、『ますたあ』と私が揃ってバーカウンターに居ると、お客様の女性(ご家族のママ、夫婦の奥さん、カップルの彼女などに当るわけだが。)が、大抵私に「お子さんは?」と質問をぶつけてくる。 その度に私は内心「オンナの敵はオンナなんだな」、と、思っていたものだ。

私たち夫婦には子供は居ない。 死産もしたし流産もしたのは事実だし、それなりに泣いたが、あまり「人為的な妊娠」を望まなかったのも、また事実だ。 自然に授かればそれに従い、自然に授からないなら、それはそれで受け入れるような、そんな気持ちだった。 ありがたいことに親戚の理解もあったし(本音の部分は判らないが。)、かつての私の職場がたまたま新生児を毎日40人ぐらい世話するセクションだったので、「子供との触れ合いは職場で満たされる」みたいな背景も影響したと思う。

普通こういう状況下で「お子さんは?」などと聞かれたら、神経を逆撫でされたような気分になるところだろうが、あまりに慣れっこになってしまったせいか、たいしたストレスも感じずに、普通に淡々と「子供は居ないんですよ」と、答えていた。 ただし、だ。 その後に必ず続けて言う。 「今のご質問、私は大丈夫ですけれど、他の方には気をつけてくださいね。」

私がそう言うと、大抵の質問者は何を指摘されているのか解らなくて、怪訝な顔を返してくる。 そこで、その質問は無意識に人を傷つける可能性があることを説明するのだった。 家族に恵まれた女性の多くは、それが当然の普通のことだと思っていて、「子供が居ないこと」で苦痛を覚えている同性には、かなり理解が薄いことを私は知った。 初対面の既婚女性に対して、話の取っ掛かりを掴む為に、口癖のようにその質問をしているし、してきたのだろう。

たまたま「40歳からのスタート」というブログで、こういった内容に触れられているのを読んで、いろいろなことを思い出していた。 そうなんだよな。 何気ない一言が人を傷つけることは、確かにある。 その言葉を使っている人に、その危険性の認識がないところが厄介なのだ。

きっと私に悪意もなく「お子さんは?」と尋ねて、お説教まがいの話をされた宿泊客の方々は、すっかり懲りて、もうその質問をむやみに誰かに投げかけることをしなくなったと思うけれど、相手を傷つけた認識がなかったら、いつまでもその質問を使っていることと思う。 尋ねられて気分が悪い質問を受けたら、そのことをしっかり相手に伝えた方が良いのではないか。 そうしないと、いつまで経っても終わりが来ない。 私だってどこかできっと、自分で気付かないうちに、誰かを傷つける質問をしたりしているに違いない。 相手が指摘してくれたら、「ごめんなさい」と、素直に謝れる自分でありたいと思う。

コミュニケーションは相互関係だ。 建設的で冷静ならば、いくらでも修正することができる。 必要以上に恐れる必要もないし、我慢して泣き寝入りする必要もない。 その場で黙っておきながら、別の場所で文句を言うのは嫌だ。 『誰でも使える道具』が凶器にならないように、活かしてゆけるように、注意深さを持って使ってゆきたい。

このブログにも書いているが、この夏、私は子宮を摘出した。 隠す必要もないし、全く負い目も背負っているつもりがないので、平気で公にしてしまっている。(その感覚自体が、ちょっとアブノーマルなんだと思うが。) 今度どこかで「お子さんは?」なんて尋ねられたら、さめざめと泣いて一芝居打って見せ、最後に「な~んてね!」とでも言って、相手をギャフンと言わせてみせようかな、と、いたずらっ子の血が騒いでいる。 子供を授からずに子宮摘出なんて、そんな芝居をするには充分過ぎる貫禄の経験だろう。 ・・あらヤダ、怖い怖い・・。 

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2007.10.29

口癖

多分年に一度くらいの頻度で関電工の職員がやって来て、電線に届いて引っかかってしまいそうな庭木の高い枝を枝落とししていってくれる。 ゴンドラ付きの高所作業車で乗りつけ、バサバサとチェンソーで切ってくれるから結構大掛かりで、数人のチームを組んで作業しているようだ。

玄関のチャイムを鳴らして、「関電工ですが、今から作業をします」みたいな事を挨拶に来てくれるのも恒例なら、言いに来てくれる人も毎回同じ人である。 残念ながら私は彼の顔を覚えているわけではない。 では、どうして同じ人であると思い出せるかといえば、内側から私がドアを開けた瞬間に、必ず「ああ、びっくりした!」と、特別驚いた風でもないのにサラリと言う、その口癖である。 「ああ、びっくりした!」の言葉と、その人の状態のギャップを怪訝に思うを瞬間に、「あっ、この人、去年も同じこと言ってた」、と、思い出す。 で、「前回だけじゃないな、その前も、その前もそう言われたな。」・・こうなると芋蔓式。

作業の説明を型どおりにしてくれている間もずっと、私と視線を合わせようとはしないので、人慣れできないタイプのシャイな人なのだろうと思う。 他人の家の玄関でいきなりチャイムを押して無関係の他人を呼び出し、説明をしなければならないことは、彼にとって決して小さくないストレスなんだろう。 多分、それを誤魔化す為にわざと驚いたように見せる癖を身につけて、初対面の緊張を中和させているに違いない。

一日の内に何軒回るのか判らないが、毎日毎日、毎回毎回「ああ、びっくりした!」とサラリといっているのかと思うと、どこか滑稽でもあり切なくもある。 どんな仕事であれ、お金を稼ぐということはそれなりに大変なことだな、と、思った。 ストレスに押しつぶされてしまわなければいいが、などと、余計なことを考えた。 来年もまた、ある日ドアを開けた瞬間に「ああ、びっくりした!」と言ってみせてください。

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2007.10.28

洗濯日和

台風一過の秋晴れ。 シーツも枕カバーもパジャマも一気に洗濯して、それらがまた、ことごとく一気にカラッと乾いて、なんとなく気分がいい。 その日の内に、洗濯物がちゃんとすっきり乾くということは、単純ななんということもないことなのに、洗濯担当者の気分を大きく左右するような気がする。 日常の中で、思いの外、重要なポイント。

我が家は衣類乾燥機を持っていない。 毎日決まった通勤をしているわけではないので、夜に洗濯をしなくてはならない状態でもなく、昔ながらの感覚での洗濯だ。 育ち盛りも居ないので、大人だけの小さな所帯では洗濯物の量も限られているし。 若い頃に住んでいたマンションでは、白物衣類をベランダで干すと、すすが付いて黒ずんでしまうほど、空気の汚染が深刻だったが、今は野鳥や虫のフンだけ注意していればいいので、ありがたいことだと思う。

庭の柿の実がようやく色付いてきた。 まだかまだかとヒヨドリが狙っていて、毎朝彼等の鳴き声で目が覚める。 平気で物干し竿の上にとまるのだけは勘弁して欲しいのだが。 まあ、人間の方が後からやって来た新参者だから仕方ないか、と、苦笑しつつ、心の中で半分は、身近に見ることが出来る野鳥の様子を面白がっている。

日常の小さなことが、いちいちありがたい。

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2007.10.26

むかごでしみじみ

毎年、窓の外の庭木に山芋の蔓が巻きつく。 そこにムカゴがたくさんくっついたのだが、今年は例年になく粒が大きい上に数も多い。 なんとなく「採って食べてみようかな」という気分になった。

竹箒を上に向けて払うようにすると、小指の頭くらいのムカゴが、ぱらぱらと音を立てて落ちてくる。 それを拾って、片方の掌にこんもりする量が集まった。 市販のムカゴのように整った形のものは少なくて、明らかにいびつだ。 これもご愛嬌の内。 中には隣同士で融合してしまったような双子、三つ子も混じっていて、まるでアメリカ出身で幕張にも出張している某有名ねずみのシルエットのようなものも。

真っ先に思いついたのは、やはり「むかごご飯」なのだが、「ちょっと量が少ないかな。 これじゃあ、ご飯の味に埋没してしまうな、きっと。」、と、思い、薄く油をひいたフライパンで丁寧に炒って塩をぱらぱらと振り、そのまんまの直球勝負でいただいた。

これといって個性の強い食べ物でもないけれど、いかにも秋の味と香りで、お箸で丁寧に摘みながら神妙に味わって食べていると、日本人だなあとしみじみする。 この「しみじみ感」を自分の中で大事に持ち続けていたいと、これまたしみじみ思った。

 

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2007.10.25

レーズンバター

間違いなく「美味しい」と思うのに、その立ち位置がよく理解できていない食品がいくつか存在する。 例えばお弁当に入れられた「甘い豆の煮物」、洋食のコース料理の最後に供されるチーズの数々、おせち料理の栗きんとんも私にとってはちょっと難しい感じがある。 要するにどのタイミングで食べたら良いのか迷うような存在だったり、このタイミングで出されるよりはもっと別の時に食べたいと思うような、そんな食品。

バーなんかでも、ちょっと迷うものを供されることがあって、先日はブリオッシュに擦り付けたチョコレートのムース・・。 まあハーシーズのキスチョコも使われるくらいだから、世間的にはそんなに妙なことではないのだろうな。 食事を終えてお腹は足りている状態で、ちょっと強めのお酒を楽しむような場面では、ありなんだろう、と、思うし、ウィスキーやラム、コニャック、ブランデーなどが相手だったら、組み合わせとしては悪くない。 そして、問題のレーズンバターだ。

レーズンバターは美味しい。 誰がこんな食べ物を思いついたのか、と、ひたすら感心する。 でも、食事に出すのは違う気がするし、お酒に合うか?と尋ねられたら、どちらかと言えば私の中ではNOだ。 じゃあ、どこで食べることができるかと考えると、間違いなくバーで、それもちゃんとこだわりのあるバーでなければ扱ってくれていない。 さもなくばショッピングセンターにでも行って、小岩井農場ブランドの市販品を見つけ出すしかない。 子供の頃、実家にご進物で小岩井ブランド製品の詰め合わせが届けられていたが、その中には例の三角柱の紙箱に収まったレーズンバターが、必ず一本入っていた。 で、バターだのチーズだの他の商品は食事の材料として使われて無くなってしまうのだが、レーズンバターの三角の箱だけは誰も手をつけないまま、冷蔵庫の奥にいつの間にか追いやられ、ある日突然「ありゃりゃ、こんなところにレーズンバターが・・!!」、ということになる。 賞味期限はとっくに過ぎていても、全く痛む様子も無く、丁寧にスライスして並べられる高カロリーの禁断の味は、それはそれで不思議に美味しいものだった。 干し葡萄の甘味と酸っぱさ、そこにバターの塩気がちょっとプラスされて、飲み下した後に脂肪の甘い後味が残る絶妙のバランス。

結婚した当初、手作りしてみたこともあった。 別にレーズンでなくても良い訳で、他に干しアンズとプルーン、クルミを砕いたものも用意して、発酵バターを有塩3分の1、無塩3分の2の割合の中に混ぜ込んで、スプーン2本で小さく丸めて冷やす。 これがなかなかの出来で、元々高カロリー食品が大好きな『ますたあ』が、すごい勢いで平らげてしまったのを見て恐れをなし、それ以来作っていない。

レーズンバターを相手にお酒なり紅茶なりを飲むと、胃袋の中で上手く混じっていないような、分離するような自覚があって、実際にそんなことは無いのだろうと思うが、どうもしっくりこない。 それでいて、単独でスライスしたものを1・2枚だけつまむというのも、なんだか用意するのが面倒くさいし、おやつの時間が相応しいのか、夕食の後なのかも迷う。

レーズンバターも私にとっては、立ち位置が把握できない食べ物のひとつで、扱いが難しい。 それに、あれはいったいどこの国の料理なんだろうか? 美味しいのに困った食品である。

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2007.10.24

サツマイモでおかず

この時期はいろいろな芋類が八百屋さんの軒先を賑わせている。 サツマイモは甘くて美味しいのだが、それが邪魔をして、『おかず』として成立させるには、ちょっと工夫が必要・・?

豚肉とサツマイモの中国風炒め物    4人分くらい

  • 豚もも薄切り肉      300g
  • サツマイモ         300g
  • サラダ油          大さじ2
  • ニンニク          2かけ
  • 甜麺醤           大さじ2
  • 中華だしの素       小さじ半分
  • 水              60cc
  • 醤油・酒・酢        それぞれ大さじ1
  • 砂糖             小さじ1
  • 片栗粉・水         それぞれ大さじ1
  1. 豚肉は3cm幅くらいに切り、分量外の醤油少々を揉みこむ。サツマイモは(皮をつけたまま)縦と横それぞれ半分に切ってから、7から8mm幅に切り分けて、水でしばらく晒してから、水気を拭き取っておく。
  2. フライパンにサラダ油の大さじ1をひいて熱し、サツマイモの全てのカット面を丁寧に焼きつけ、取り出す。
  3. フライパンに残りのサラダ油大さじ1をひき直し、スライスしたニンニクをじっくり弱火で炒める。香りが立ったら豚肉を入れて、火が通るまで炒め、甜麺醤以下の調味料と水を加え、焼いておいたサツマイモを戻す。
  4. 全体を絡めるようにして2~3分煮てから、水で溶いた片栗粉を加えてとろみを付けて、できあがり。

サツマイモ300gは中型のもの1本くらいです。 中華だしの素は省略も可。 体重を気にしなくても良いならば、豚バラ肉で作っても。 お好みでサラダ油を胡麻油に置き換えても、また違った美味しさに。 甜麺醤が手に入らなかったら、オイスターソースと味噌を大さじ半分くらいずつ混ぜて、調味料の醤油を半分に減らして作ってください。 キノコ類を足したりしても良いかと。

こっくりとした秋の一品で、ご飯にも合います。

・・書いていて、おや?っと思って調べてみましたが、テンメンジャンの「メン」は「麺」でも「面」でも、どちらの表記も使うみたいですね。 ふーん、知りませんでした。

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2007.10.23

魅惑

若い頃からずっとそうだが、私が聴いているのは俗に「Jポップ」とか「日本のロック」などと呼ばれるような、国内アーティストの音楽が主だ。 版権の都合なのか、最近、一度廃盤になっていた昔のレコード盤の楽曲が、デジタルにリマスターされてCDに焼き付けられ、昔とは別のレコード会社から再販される、というケースが目立つ。 で、それを機会にしばらく表舞台から遠ざかっていたアーティストが、またライブをやったりしてくれる。 あまり大きくないライブハウスのような場所でさり気なくという感じで。

アーティストも初老の域に足を突っ込もうかという年齢ならば、あの頃ティーンエイジャーだったオーディエンスも今ではすっかりおじさん・おばさんで、中には制服を着た子供と一緒に来ているなんていう方も居られる。 「ここで踊ってしまって良いものか・・」と、内心ちょっと躊躇する気持ちはみんな同じみたい。 舞台の上のアーティストも、気張って過度に意気込んだりしていないし(もちろん、いいかげんにやっているというのとは違う。)、聴いているオーディエンスも穏やかでありながらワクワク期待している状態だから、双方が丁度良い塩梅で肩の力が抜け、会場全体の雰囲気がどこかほんわかとあったかい。 なんだかライブにしてはちょっと不思議な、でも、居心地が良くてしっくりくる。

ティーンの頃やはたちそこそこで聴いていた音楽というのは、今でもどこかで心の奥を鷲づかみにされているような状態で、表現を変えれば「逃げようと思っても逃げられない」的な部分を否定できない。 いろいろな感覚が総動員されて強く揺さぶられてしまうのは、「匂いや香り」の持っている影響と良く似ている気がして、面白いなあ、と、思う。 魅惑という言葉が相応しい。

こんな年齢になってもライブハウスに足を運んでしまう言い訳を、ちょっと考えて書いてみた。

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2007.10.20

想定外の芋掘り

夏の間に伸びた庭の雑草を、『ますたあ』が刈り払い機で刈ってくれている。 なにせ暮らしている場所が山の中だから、放っておけばビシバシと雑草が茂ってしまう。

午後のお茶で一休みしていた時に、「そういえば、コンポストの傍でジャガイモがごろごろしてたよ」、と言われた。 はて?そんな所にジャガイモを投げておいた記憶は無いが。 コンポストの中身を埋めて土に返す際、混じっている種だの野菜屑だのから色々なものが芽を出して、自主的に勝手に育っていることがままあって、思い出せば去年はカボチャの若い実を何個か収穫し、ズッキーニみたいで美味しかったっけ。

果たして見に行くと、『ますたあ』の報告のとおり、握り拳くらいのジャガイモが。 とりあえず3個も。 もしかして、今年はジャガイモが勝手に育っていたのだろうか? 背の高い雑草に紛れて、全然気付かなかった。 用心深くその辺にスコップを入れてみると、出るは出るは次々にごろごろと現れる。 メークインらしいものもあれば、男爵っぽいのもあり、『インカの目覚め』っぽくやけに黄色い芋もある。 予期せぬ芋掘りになってしまった。 ジャガイモと一緒に掘り起こしてしまったミミズやアマガエルや、何かの昆虫の幼虫?などを軽く埋め戻してから撤収。 両手に余るほどの収穫を得る。

地表に出ていたジャガイモは、刈り払い機の歯で傷が付いていたので、とっとと食べてしまうことにして、早速ポテトサラダに仕立てた。 予期せぬ収穫、計画外のメニューだっただけに、意表をついた美味しさで大満足。 自分で掘り出したことも、美味しさの一因だっただろうか。

もう、何がなんだか・・。 これってもしかして、エコロジカルな生活と呼ばれるもの?

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2007.10.19

お店での違和感

過日、何の気なしに入店した、よくあるタイプの外食産業のお店で、食事が喉を通らなくなってしまった。 泣いていたわけでもないし、精神的に不安定な状況でもないし、さほど美味しくなくてもそこそこ食事を楽しめるタイプの私である筈が、こんなことは珍しい。

お店に足を踏み入れた瞬間に、荒んだ感じが強烈に伝わってきて、「何かあるな」とは思っていたのだが、何と、食事をしている最中に、専門の業者が店の経営者と従業員を相手に「店をたたむ段取り」について相談をし始めたのだった。 他の数組の客を含め、みんなに丸聞こえである。 中古品として買い取る厨房用品の商談を、聞くとも無く聞いているうちに、だんだん食事が喉を通らなくなってきて、早々に引き揚げてしまった。

諸般の事情でお店をたたむのは仕方ないとしても、最期の客が帰るまでは、せめてそんな素振りを見せて欲しくないものだ。

お店が成立するためには、実にたくさんの要素がある。 それらのどれかひとつがミスマッチなだけでも違和感が生まれる。 私の場合、そのような違和感を感じると、何とかして払拭しようと心の中で葛藤し、大きくエネルギーをロスしてしまう体質のようだ。 たかが食事をしただけでグッタリし、そこから先の半日は使い物にならなかった。

そんなこと、世の中的にはよくある事なのだし、お店にいちいち文句を言うつもりも無く、情けなかったのはまさに私の過敏さのほうで、「いい歳をして、もうちょっと何とかならないものか・・」と、思っていた。 潔癖症とか完璧主義とも違う気がするのだが、妙な所にだけ過敏で自分を持て余すことが未だにある。 もう少し、何とかしたい。

  

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2007.10.18

珍しく、本のおすすめ

戦争や殺人事件のニュースを見聞きする度に、いつも内容が頭の中に蘇ってくる一冊の本がある。

コンラート・ローレンツ著 「攻撃」。

著者の紹介や要約は、みすず書房さんのこちらの頁に詳しいので、興味のある方はどうぞ。

初めて読んだのは中学3年の時。 当時の理科(今は生活科なのか)担当の教諭が勧めてくれた。 文章は難しくなく、専門用語も出てこないから(これは訳している日高敏隆氏の力量のおかげだと思うが。)通読できた覚えがある。 大学入試の際の二次面接でも、この本の話題を持ち出したのが記憶に新しい。 その後、いじめの問題や湾岸戦争、イランとイラクをはじめとする中東の問題、そして、9・11事件などなど、事ある度に「そういえば、あの本にあんなことが書いてあったな」、と、思い出して、何年かに一度、何度も読み返している。 こんなに繰り返して読んでいる本は、自分としてはとても珍しい存在だ。

全ての動物が本能として持っている、同種の他者に対する攻撃性について、簡潔な文章で、深い洞察を与えてくれる。

その分野ではそこそこ有名な本らしいので、地域の図書館でもたいてい扱いがあるようだ。 今まで私が引っ越した先の図書館で、置いていない所は無かった。 小説や随筆とは違うので、独特の硬さは否めないものの、決して読みにくい本ではない。

秋の夜長に、たまには毛色の違う分野の読書を・・と、お考えの方があれば、是非おすすめしたい。

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2007.10.16

♪だから秋は少しだけ中途半端なのです

暑かった季節には大活躍してくれた冷奴。 この気温だと、さすがにちょっと辛くなってきた。 湯豆腐にはまだ早すぎるし・・という、中途半端な時期なので、冷奴も中途半端に温めて食べている。 名付けて「あったか奴」。

いつもの冷奴サイズに切った豆腐を冷たいまま器に入れ、そのまま電子レンジで加熱する。 一人分につき一分弱程度。 豆腐はそのまま長時間加熱すると、小爆発をすることがあるが、この程度の時間なら大丈夫のようだ。(大きさによって、適宜調整を。) 加熱すると、豆腐から水が出てきて器の底に溜まるので、指で豆腐を押さえるようにしながら、器を斜めにして水を捨て、薬味を乗せる。 食卓に出すと、ちょうど人肌程度(日本酒の熱燗程度とも言えるか)に温まっている状態で、大豆の香りが立って、冷奴とはまた違った美味しさが楽しめる。

薬味は好みで、それこそ冷奴と同じで構わない。 今日、ちょっと面白い出来になったのは、青紫蘇(大葉)と油3分の1タイプのツナ缶を乗せたもの。 コクがプラスされてなかなかの組み合わせだった。 ・・いえ、缶のゴミの収集日が近いもので、半端物を片付けてしまう作戦だったのだが、「瓢箪から駒」状態でラッキー!

だんだんと温かい料理が恋しくなってきて、体も冬の準備を始めたみたい。 食べ物が美味しいのは、寒さに備えて体脂肪を溜め込む為なのか? どこまで体の要求を許して黙認し、どこから欲求をセイブするべきか、いつも迷ってしまう。 中途半端な時期の、いつものジレンマだ。

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2007.10.15

アケビとヒヨドリ

どこかの木の枝から細い蔓でぶら下がっている紫色のアケビの実が、ぱっくりと口を開いた。 実だけが空中で宙ぶらりんになっているような状態。

一羽のヒヨドリが目敏く見つけて食べようとしているのだが、留まる所がなくて、実の周りをぐるぐる旋回するように飛んでは、ちょっと離れた他の木の枝に留まって、まるで「困ったな」とでも言いたげな様子で首を傾げている。 ヒヨドリが留まるには、アケビの蔓は細すぎるようだし、実にしがみついてしまったら食べられないし、で。

そこへ、アケビを見つけた別のヒヨドリが近付いてきた。 ヒョー!!と甲高い威嚇の声を上げながら、「これは私のもの!!」とばかりに追い掛け回す。 しばらくの間、急旋回の追いかけっこが続き、二羽のばたばたした羽音と威嚇の鳴き声が、静かな山に響き渡る。

数分後、どうやら先に来ていたヒヨドリが食べる権利を守りきった様子。 でも、やっぱり留まる場所が無くて食べられないことに変わりは無くて、相変わらず実の周囲を旋回しては困り果てている。

なんだか平和な山の秋。 それをぼんやりと眺めていた私も、おっとりと平和だ。 ここではこんな調子で、おっとりと季節が進んでゆく。 何よりの贅沢なのかも知れないと、まるで他人事のように思う。

あのアケビ、最終的に誰が食べることになるんだろう?、と、はなから権利を放棄している人間が、ことの行方を面白がって見ている。 ・・神様って、もしかしたら、こんな感じで私たちのことを眺めているんだろうか。

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2007.10.14

何がどう違うのか

数日前に『ますたあ』が、何かの虫に足の甲を刺された。 時間や場所、状況などから「多分ムカデなんじゃないか?」と推測されたものの、現場を押さえた訳ではないので確定できない。 翌朝窓から逃げてゆくムカデを一匹確保したが、それにも増して憶測を混乱させているのは、刺された箇所の状態や症状などが、私の時のそれとは全く異なっているせいでもある。

皮膚の状態、痛みや痒みの感じ方、毒の広がり方・・・どれをとっても私の経験とは大きく異なっており、臨床の所見だけを診たら、同じ虫の被害だとは思えない程で、でも、虫の被害であることだけは間違いが無く、ふたりで首を捻っている。

これだけ生体としての反応に大きな差があるのだから、ふたりがもし同じ病気にかかったとしても、全然違う苦痛を訴えをそうだし、現れてくる症状も相当に違いそうだ。 違う個体なのだから当たり前と言ってしまえばそれまでだが、同じ人間なのにこんなに違うとは驚きでもあるし興味深い。 そんな個人差に惑わされないように、系統立ててアプローチされる医学というのは、実は凄い量の情報の積み重ね、裏付けを必要としているわけで、病気との戦いに明け暮れてきた人類の英知と努力に、改めて頭が下がる。

直径1cmを超えるような大きな水泡ができて、そこからじわじわ浸出液が出てくるので、滅菌されたガーゼで軽く覆って保護している。 腫れなどの炎症反応はずいぶん引いた。 私の場合は足一本全体がダメージを受けた上、熱まで出したのに対し、『ますたあ』は局所反応は激しいが、ダメージの範囲も局所に収まっている。 急性期を過ぎて、これから治ってゆく過程で私とどのくらい時間差が現れるのか、半分面白がりながら、せっせとガーゼ交換を手伝っている「昔取った杵柄」の私。

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2007.10.11

焼き芋

ちょうど午後のお茶の時間に玄関のチャイムが鳴った。 出てゆくと、お隣のご主人。 軍手をした掌の上に焼き芋を乗せている。 「今、庭で焼いたんで、おやつにどうぞ。 まだ熱いから気をつけてね。」 受け取った傍から、香ばしい香りがぷーんと上がってきた。

サツマイモを直に火に入れて焼いたらしく、外側は完全に炭化しているが、それがまた「男の料理」っぽくもあるし、いかにも「アウトドアの醍醐味」のようでもあって嬉しい。 中心はホクホク。 真っ黒な外側を分厚く指で剥きながら、皮についた実を削るようにして食べるのもお楽しみの内だ。 何よりだったのは、芋全体にお焦げの香ばしい香りが染み込んでいたことで、私がオーブンで焼いたのでは、こうはゆかない。 焚き火の匂いの美味しさだった。

3本もいただいたので、おやつの残りの1本はサラダにして夜のビールのお供に。 まだ熱いうちに焼けた実をスプーンでこそげるようにして、焦げた皮から分離しておいたもの。 晒したタマネギのスライスを多めに、それとプロセスチーズのさいの目切りと一緒に、マヨネーズとプレーン・ヨーグルトを同量混ぜたもので、ざっくりと合わせる。 塩と胡椒で味を調えて、たっぷりのサニーレタスの上に、こんもりと盛りつけた。 サラダに仕立てても、香ばしい香りがしっかりと残っていて美味しい。

焼き芋を食べたのは、ずいぶん久し振り。 秋の香りを十分に満喫させていただいた。 ごちそうさまでした。

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2007.10.10

魔法の粉

金木犀の花が満開になった。 あちらこちらから良い香りが漂ってくる。 今年は夏の暑さが幸いしたのか、はたまた雨の降り具合がちょうど良かったのか、どの木も例年になく多くの花をつけているようで、木全体が鮮やかなオレンジ色に包まれている。

日向の枝で早く開いた花の中には、もう散り始めるものもあるらしく、下の地面もオレンジ色にうっすらと化粧している。 小鳥が上の枝に止まるとはらはら、風がそよいでもはらはら。 小さな、粉のような花が静かに落ちてゆくのは、どこか勿体無いようでもあり、幻想的でもあり、しばし立ち止まって眺める。 我が家の庭のギンモクセイは、もう2階に背が届くほどの高さに成長しているから、一番下の枝にも届かない。 見上げて楽しむ状態だ。 散歩に利用させてもらっている近隣の施設の駐車場では、植栽の一部に金木犀が使われていて、そちらはまだ小さい木が多く、ちょうど私の背の高さくらい。 ウォーキングの途中で、花をたくさんつけた枝の茂みに、顔を埋めさせてもらった。 体の中まで良い香りが染み込むようで、なんとも贅沢な気分!

家に戻ってから汗をかいたTシャツを脱いだら、髪の毛の間にでも紛れていたのだろうか、金木犀のオレンジ色の花が、いくつかはらはらと自分から落ちてきた。 ウェンディ(だっただろうか?)に魔法の粉をかけてもらうと、人間の子供たちも空を飛べるようになる、ピーターパンの物語を思い出した。 仲間に入れてもらえたような気がして、心に翼をもらえたような気がして、なんだか無性に嬉しかった。 無邪気な気分を思い出した秋の午後。 

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2007.10.08

お手並み拝見の準備

今日は午後から、父がお世話になっている老人施設での説明会に出かける予定。 結局ニチイ学館が運営母体になった会社が、今後どのような運営をしてゆくのかについての説明なのではないかと思う。 「どこかに身売りする予定だが、どこが買ってくれるか判らない」といった前回の、言うなれば『後ろ向き』の説明会ではなく、どうであれ一応は『前向き』の内容なので、参加するこちらとしても気持ちが少しだけ楽だ。

が、以前の説明会のように、実際の入居者にやむを得ない原因がある『不毛の質疑応答』に付き合わされて、精神的にヘロヘロにくたびれてしまうことも考えられるので、時間があるうちに、と、夕食の下準備を整えておいた。 冷凍しておいたひき肉を使ったキーマカレーっぽいもの、カボチャの煮物など。 果物を切って、父に持って行ってあげるつもりなので、ついでの半端も冷蔵庫に冷やしておこう。 あとはごはんを炊いている間に、ちょっとしたサラダと冷奴でも切れば、何とかなる。 都市部での生活だと、そんな時にはすぐ外食に出かけられるが、山暮らしではそうもいかない。 ・・だいぶ対応できるようになったつもりではあるけれど。

多分どこの会社が運営しても、老人介護の分野では「儲からない」のは、変わりがないように見える。 とりあえずニチイ学館さんのお手並み拝見、という感じかな。 

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2007.10.07

続ける理由

ウォーキングにほぼ毎日出かける。 自分で言うのも変だが、結構気合を入れて一時間くらい歩く。 体調や天気によって、また気分によって、そしてその日の都合によって、出かける時間も様々だし、歩く時間も柔軟に対応させている。 決めているのは、空腹時には行かないことくらいだ。 空腹時の運動こそ脂肪燃焼に効果がある、とする説もあるらしいが、私はすぐに気持ち悪くなって眩暈を起こすようなので、自分には向いていないんだと解釈している。 いろいろな条件を試した結果、私には食後1時間くらいで歩き始めるのが、どうやら合っているみたいだ。

気分転換になるとか運動不足解消とか、様々な効用があることは認めるけれども、なんで毎日続けられているかと問われた時、一番の理由は、「頭の中が整理されることが多い」からだと思う。

普段の生活の中で、判断に迷う事柄やどう捕らえたら良いか判らない案件とか、理解できないような事柄に出会った時、しばしの時間真面目に考えてみて、それでもやっぱり結論が出せない場合には、「とりあえずは宿題」ということにしておいて頭の片隅に追いやり、それ以上深追いをしない。 で、時間がある時や他の機会に、改めて宿題を引っ張り出してきて取り組んでみる、というようなことをよくやっている。 で、ウォーキングをしている最中に、ふっとその宿題が解けたり、今までとは違う発想が出てきたり、いくつかの点が線に繋がるようなことが、頻回に起きるのが不思議だ。 最近ではポケットにメモを持ち歩くようになった。 歩くことに集中して忘れてしまうと勿体無いので、キーワードだけでも残しておく。

私の意識の中では、「ああ今日は空がきれいだ」とか「金木犀が良い香り」とか「カエルを踏まないように気をつけないと」とか、お気楽極楽に歩いているだけだが、血行が良くなっていつもと違う脳の分野が活発に動いてくれるのか、閃いたりするような感覚で、情報が整理されてゆくので気持ちが良い。 もちろん、何にも閃かない日もたくさんある。 それでも、一週間に一回でもそんな経験があれば、それは私にとって十分に有効だ。 期待しているわけではなくて、おまけのような気持ち。

なので、せっせと出かけてゆく。 基本的に、体を動かすことはやっぱり快感なんだと思う。


こちらのNOBOさんは、空腹時に出かけて、しかも意識的に朝食を召し上がらないことで、健康管理なさることもあるご様子。 凄いな。 伊豆の秋の写真がきれい。 こんな景色を肌で感じられるのも、ウォーキングの楽しさのひとつだろう。 それぞれのやり方、それぞれのペースで、それぞれの効用・・でも、楽しんで歩くことは共通なんだろうな。

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2007.10.06

F1かぁ?

お昼前のこと。

そういえば今日はF1の中国グランプリの予選だな、と、思いながら、テレビの番組表をインターネットでチェックしていた。

すると、どこからともなく有機溶剤のような変な匂いが。

ほぼ同時に、玄関のスリッパラックに溜まった埃を掃除機に吸わせていた『ますたあ』が、呆れた顔つきで部屋に戻ってきた。

「掃除機が煙を上げて止まった!」

(-_-;) 

なんだかF1のマシンみたいな故障の仕方だな、と、思わず苦笑。

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2007.10.05

おおらかでありたい

そこの場に居合わせたことがないので、60デシベルという子供の声が、どのくらいの騒がしさなのか、ピンと来ないのはさて置き・・。

確かに10年前くらいと、漠然と感覚で比較すると、幼い子供たちの歓声とか大声の発し方が、だいぶ違ってきたように感じている。 以前は普段の声がそのまんま大きくなったような感じだとすると、この所は、恐怖を覚えた時の叫び声に近い、音が高くて張り詰めたような声が目立つ。 たまたま私の住んでいる場所がグラウンドに隣接しているので、週末や連休を利用して子供たちが集まるような機会も多いわけだが、朝の寝ぼけた時間帯にキャー!!と叫ばれると、一瞬「何か起こっているのではないか?!」と心配になり、厨房の窓から覗きに行って、単に広い場所を楽しんでいるだけな事を確認して、こちらも安心する、なんていうことがそこそこある。

特に都市部では大きな声を出せる場所が少ないだろうから、慣れていないんだろうな、とも思うし、それほどに普段からストレスフルな状況下にあるのか、とも思う。

一方で、いい歳をした大人が幼い子供に目くじらを立てて、何かに付け気に入らないような態度をとっている姿も、良く見かけるようになった。 ちょっと子供がダダをこねただけで怒鳴りつけたり、威嚇したり、聞こえよがしの暴言を吐いたり。 訳の解らぬ理屈をこねるクレーマーの一種だろうか。 こんな大人たちに囲まれていたのでは、子供もストレスが溜まるだろうな、と、同情したくなるときもある。 増してや、自分の親がその手の人だったら、子供にとっては命の問題だ。

子供も、子供を取り巻く大人も、どちらも過激な方向に引っ張られているように見えて、一発触発の感じ。 子供と大人に限らず、この構図がいろんな場所に見え隠れして、溜息が出る。 時と場合によっては、歩み寄りとか、中庸とか、バランスとか、その辺の曖昧さに、もう少し価値を置いても良いのではないか、と、思う。 頭の中で作り出した、金で価値を計る主義や思想には曖昧さは存在しないのかもしれないが、人間は元々そんなにきっちりと割り切れるようには出来ていない気もするのだが。 朝のニュースに、そんなことを考えていた。

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2007.10.04

二十世紀梨

新潟で暮らす伯母が、二十世紀梨を箱で送ってくれた。(本当は『二十世紀梨』ではなくて『廿世紀梨』らしい。 『廿』で『にじゅう』なんて読める人はすごい!) 甘みが強い豊水梨や幸水梨に比べると、二十世紀梨は酸味がそこそこあり、そこがいかにも果物らしい味の気がするので私は好きだ。 貧乏臭いようだけれど、甘いだけの果物は食べていてなんだか不安になる。 甘けりゃ良いってものでもなかろうに・・なんて、嫌味のひとつも言いたくなってしまうのだ。 だから、どちらか選べるならば、甘い果物より甘酸っぱい果物の方が好き。

子供の頃には、ミカン類などで唇をすぼめてしまうほどに酸っぱいのが、そこそこあったような覚えがあるけれど、生産技術が上がったのか、品種改良のおかげか、二口目が続かないほど酸っぱい果物にはすっかり当らなくなった。 蜂蜜マリネにしないと食べられないような甘夏柑とか、妙に懐かしい。 苺も酸っぱいの、あったなあ。 でも、酸っぱいのをスプーンで潰して砂糖を入れて、牛乳で溶いて食べると美味しかったっけ。 昨今の苺は砂糖を入れると砂糖に負けてしまう感じで、ちょっと物足りないから、専ら洗ってそのまま食べている。

こうして思い出してみると、日々食べているものはあまり変わっていないように見えて、実はその中身、味、香りなんかは大きく変化しているのかもしれない。 毎日子育てに忙しくしている家族は気付かなくても、たまに逢う友人の子供は急に成長したようでびっくりする、そんな状況に近いか?

二十世紀に生まれたから二十世紀梨なのだろうけれど、二十一世紀の現在、この二十世紀梨も品種改良され続けているのだろうか。 素朴な疑問。 それにしても凄い名前付けたものだ、二十世紀梨なんて。 一粒ずつ丁寧に「廿世紀」と印刷された袋を被せられて育った大粒の梨を、しげしげと見つめてしまった。 ご立派です、はい。

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2007.10.03

Keep my cool

目覚めて、窓を開けたら、ふんわりと庭の銀木犀が香ってきた。 引き寄せられるように木の近くへ足を運ぶ。

芳しい花を付ける木はたくさんあるが、金木犀・銀木犀の香りに、優しいだけじゃない、冷静さのような印象を覚えるのは私だけだろうか。 冷静さに裏打ちされた優しさは、表面を取り繕った優しさと違って、強い。

淡々と冷静に全てを受け止めていけるように、祈りに近い気持ちを込めながら、香りを漂わせた朝の空気を深呼吸した。

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2007.10.02

マスカルポーネ

マスカルポーネチーズと言えば、まずはティラミスを思い浮かべる方も多いと思う。 フレッシュチーズの一種で日持ちはしないが、味や匂いがほとんど無くて、そのまま食べた時の感覚は「砂糖を入れないで固く泡立てた生クリーム」にかなり近い。

そのマスカルポーネが、中途半端な量で冷蔵庫に残っていた。 わざわざデザート系を作るには量が少ないし、なにか果物のコンポートでも作って乗せて食べるか、などと考えながらパッケージを眺めていたら、背景に真っ赤なトマトが、これまた一つだけ残っているのが見えた。 夏の強い陽射を最後に閉じ込めた様な完熟路地物のトマト。 これもそろそろ鮮度が落ちてくる頃だったはず。 「コンポートとマスカルポーネの組み合わせがいけるのなら、トマトでもなんとかなるんじゃないか」、と、ふと思いつく。 カプレーゼだったっけ?、トマトとモッツァレラチーズの前菜も存在することだし。

大きなトマトは縦半分に切ってから軸を除いて、7mm.程度に薄切り。 種も真っ赤でしっかりしていたから、抜かずにそのまんま使った。 お皿に並べて、それぞれに茶さじ2杯程度のマスカルポーネを乗せてゆく。 岩塩を上からパラパラと降りかけ、多めに黒コショウを挽く。 料理器具も汚さずに、何もかもお皿の上で済ませるところが、なんだかイタリアンっぽくて笑ってしまう。 仕上がりにオリーブオイルをちょろっと回しがけ。 バジルでもあれば完璧だったろうが、今回は庭の青紫蘇で代用。 指先で小さくちぎるようにしながらパラパラと散らす。 やったのはそれだけ。 ほんの2~3分の料理。 作っていたこちらが、なんだか申し訳ないような気持ちになるほどに、簡単で単純。

ところが期待に反して、これがね、なんとも美味しかった! モッツァレラチーズのような歯応えがないので、口の中でいきなり全ての味が馴染んできて、後から岩塩とコショウのインパクト、最期に紫蘇の香りがふんわり。 ある意味、本家のカプレーゼよりも美味しい。 チーズが苦手な方でも心配ないし、ワイン・パーティーの時に重宝しそうだ。

思いつきで作ったものが美味しくて、ラッキーな気分だった。 今度はこれを作る為に、わざわざマスカルポーネを買ってくることになりそう。 機会があったらお試しください。

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2007.10.01

夜中の地震

大きな地震で目が覚めた午前2時過ぎ。 普段どおりに眠っていたが、すぐに目覚めたつもりだった。 体感としては震度3と4の間くらいかな、と、感じ、結構長い時間ゆさゆさと同レベルの揺れが続いたので、それが今までに体験してきた地震とは、少し違う印象を受けた。

隣で同じように目を覚ました『ますたあ』が、すぐにテレビを点ける。 震源地や推測されるマグニチュードの値などを一通りチェックしてから、仕切り直して寝ることに。 どうせ目覚めたんだからトイレに行っておこう、と、立ち上がって歩き始めたら、ふらふらと足元がおぼつかない。 それで初めて、ああ自分はまだ完全に起きているわけではないんだ、と、自覚したのである。 簡単に言えば、半分寝ぼけているような状態だったんだろう。 自分ではしっかりしているつもりでも体が眠ったまま、そんな感じ。

昨夜はちょっと疲れていたので、深く眠っていた。 レム睡眠とノンレム睡眠のタイミングの要素もあっただろう。 急に起こされて、起きたつもりが寝ぼけていた。 ここでちゃんと起きた人と寝ぼけている人とでは、被害の合い方に差が出そうだな、と、思った。 例えば、仕事で夜勤を余儀なくされている人にとっては、真夜中の地震でも、すぐに的確な行動を選択して実際に動けそうだけれど、私みたいに寝ぼけていたら、そのまま押しつぶされて終わりかもしれない。 それは『運』と呼ばれるのだろうか。

もちろん普段から訓練を重ねたり、準備をしておくことは大切だと認識しているが、睡眠とのタイミングについては、自分にもどうしようもないだろう。 常に気にかけて眠らないことなんてできないのだし、わざと浅い眠りのまま毎晩過ごすのは、あまりに非現実的。

もしも、地震がたいしたこともなくて、すぐにまた眠りの続きを貪るのだとしたら、あんまりしっかりと目覚めてしまわない方が、逆に有利だったりもするわけで。 たまたま今回ここでは、問題になるような地震ではなくて助かったな、などと頭の片隅で考えたことだけは覚えているのだが、いつの間にかすぐに眠りの中に引きずり込まれてしまった。

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