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2007.10.05

おおらかでありたい

そこの場に居合わせたことがないので、60デシベルという子供の声が、どのくらいの騒がしさなのか、ピンと来ないのはさて置き・・。

確かに10年前くらいと、漠然と感覚で比較すると、幼い子供たちの歓声とか大声の発し方が、だいぶ違ってきたように感じている。 以前は普段の声がそのまんま大きくなったような感じだとすると、この所は、恐怖を覚えた時の叫び声に近い、音が高くて張り詰めたような声が目立つ。 たまたま私の住んでいる場所がグラウンドに隣接しているので、週末や連休を利用して子供たちが集まるような機会も多いわけだが、朝の寝ぼけた時間帯にキャー!!と叫ばれると、一瞬「何か起こっているのではないか?!」と心配になり、厨房の窓から覗きに行って、単に広い場所を楽しんでいるだけな事を確認して、こちらも安心する、なんていうことがそこそこある。

特に都市部では大きな声を出せる場所が少ないだろうから、慣れていないんだろうな、とも思うし、それほどに普段からストレスフルな状況下にあるのか、とも思う。

一方で、いい歳をした大人が幼い子供に目くじらを立てて、何かに付け気に入らないような態度をとっている姿も、良く見かけるようになった。 ちょっと子供がダダをこねただけで怒鳴りつけたり、威嚇したり、聞こえよがしの暴言を吐いたり。 訳の解らぬ理屈をこねるクレーマーの一種だろうか。 こんな大人たちに囲まれていたのでは、子供もストレスが溜まるだろうな、と、同情したくなるときもある。 増してや、自分の親がその手の人だったら、子供にとっては命の問題だ。

子供も、子供を取り巻く大人も、どちらも過激な方向に引っ張られているように見えて、一発触発の感じ。 子供と大人に限らず、この構図がいろんな場所に見え隠れして、溜息が出る。 時と場合によっては、歩み寄りとか、中庸とか、バランスとか、その辺の曖昧さに、もう少し価値を置いても良いのではないか、と、思う。 頭の中で作り出した、金で価値を計る主義や思想には曖昧さは存在しないのかもしれないが、人間は元々そんなにきっちりと割り切れるようには出来ていない気もするのだが。 朝のニュースに、そんなことを考えていた。

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