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2008.05.29

たまたま路上生活者の方を目撃した。 正確に書けば「車中生活者」で、自家用車の中で寝泊まりしているようだ。 公共駐車場に駐車して、設置された公衆トイレから水を調達している最中だった。 何故に車中生活者だと分かったかと言えば、車の中が生活用品で一杯だったのが見えたからである。

ずらっとハンガーにかけた洋服は、洗ったものを干しているのだろうか? おまけに使い古しのペットボトルに水を入れたものを5~6本、ボンネットに並べている。 「お湯にするのかな?」 「そうかもね。」 あまりじろじろと眺めるのも失礼なので、適当に横目で拝見すると、自分の居場所である運転席以外のスペースには、所狭しといろいろな物が置かれており、車内全体がとても狭苦しそうに見える。 バケツ、タオル、古新聞、傘、大型の紙袋もパンパンに膨れていた。

生活には必要最小限といっても結構な量の「物」が必要なんだな、と、ぼんやり考えた。 実家の両親が40年近く暮らした家から引っ越しをする時、「まあこれでもかこれでもかと、本当にたくさんの物が出てきて大変だった」、と、話していたことを思い出した。 ちなみに両親はそんなに物を溜めこむ性質ではない。 すっきりと生活しているように見えていたのに、それでもやはり・・である。 義父の部屋の片付けを頼まれた際、押し入れや箪笥が底なし状態に感じられて、途中でだんだん怖くなってきた記憶も新しい。

「無ければ無いで済む」とはいえ、「あった方が便利または効率が良くなる」という種類の物は本当にたくさんあって、どこで境界線を引くか難しいところだ。 一方で古くなってしまった物や愛着だけで身近に置いてある物の類は、えいやっと踏ん切りをつけることも必要な事くらいとっくに学習している筈で。

おかげさまで「部屋に置いてある物が少な過ぎると逆に落ち着かない」という種類の人間ではないつもりだが、それでも、抱え込んでいる荷物は増えることはあれ、なかなか減ってくれないのが現実だ。 思い切って踏ん切りをつけるきっかけとして、人はたまに暮らす場所を変えるのことも必要なのかもしれない、と、思った。 

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コメント

「思い切って踏ん切りをつけるきっかけ」
それもあるかな?最近、会社によって住んでる場所を変えさせられたのですが(変な日本語だ)、確かにある種のきっかけにはなった。

神戸で大地震に遭った友人が、処分をためらっていたレコードコレクションが家ごとつぶれて諦めざるを得なかった、と言っていたのを思い出します。


投稿: syumei | 2008.05.30 00:55

syumeiさん、お引越しで少し「物」が減りましたか?
現地へ持って行く物が多くないだけで、全体量が減らないということは、あるかもしれませんね。

かつては「全部手元に置きたい」気持ちが強かったのですが、最近は自分よりもっと活かせる方に管理してもらう方が、その「物」の為なのかもしれない、という考え方もできるようになってきたように思います。

地震や天災によって、だと、きっかけと呼ぶにはキツイだろうなあ。 「物」を手放す準備の心構えというものもありますし、ね。

きっかけの回数が多いほど、「物」も少量先鋭になってゆくのでしょうか。

投稿: リーボー | 2008.05.30 15:24

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