木の芽時
ここ山の中では「木の芽時」はちょうど今頃なのかな、と、思う。 昔からの言葉で、寒さから解放されて急に内蔵の動きが活発になる結果、体内のいろいろなバランスが崩れて感情不安定になったり不定愁訴を感じたりする時期のことらしい。 俗によく使われる「季節の変わり目」と大差無さそうだ。
ちょっと前には義父の体調が急変して救急医療のお世話になったり(一時的なもので済んだようだが。)、私自身も数年振りに急に鼻血を出すなど、おまけにそこそこ大きな地震があったりして、日常を取り囲むいろいろな環境がどこか不穏な印象で落ち着かない。 どれもこれも木の芽時のせいなのだろうか。 ともかく慎重に大事をとる心づもりで気をつけなくては、と、自分に言い聞かせている。
木の芽時には嬉しいこともある。 とにかく植物たちのエネルギーはむっとするほど山に満ち溢れているし、昆虫や動物たちも活発だ。 特に自分が沈んでいるような状況下では、そういった周りのものに力を分けて貰うような気がして、肖り(あやかり)ながら過ごすことができる。
今日はお昼ごはんに、久しぶりに天ぷらを揚げた。 庭の野生のミツバや芹、新玉ねぎと竹輪の小さなかき揚げ、牛蒡と人参。 どれもちょっとずつ、いろいろな種類で。 でも、メインのタネは他にあって、それは「柿の葉の新芽。」 実はこれ、半年ほど前に読んだ女流作家のエッセイに書かれていたものだ。 その方はもう老人と呼ばれるような年齢だが、お子さんの申し出を断って気ままなひとり暮らしを満喫しておられるらしい。 春が来て、庭の柿の木に新芽が芽吹くと、仕事仲間やご近所のお友達を招いて天ぷらパーティーを催すのが、毎年の恒例になっていると書かれていた。
柿の葉は「柿の葉寿司」のように食品を包むのにも利用するくらいだから、食べても毒じゃないんだろうな、というくらいは容易に想像できたが、柿の葉そのものを食べるのは知らなかったので、シーズンが来たらぜひ試してみたいと思っていたのだった。
あんまり硬く開いてしまった葉っぱは、いくら天ぷらにするとしても、ゴワゴワでえぐ味が強そうだから、芽生えたばかりのホヨホヨのものを摘む。 茶摘みではないけれど「一芯二葉」(枝の先端の新芽とその手前に一枚だけ葉が開いた状態)で。 爪を立てずともプチッと千切れてしまうほどに柔らかい。 薄衣をくぐらせて、高温でカラッと揚げてみた。
これと言って特別な風味があるわけではなかったけれども、新茶の香りを薄めたような「緑の味」がほんのりとして遠くの方でちょっとだけ甘い。 渋みは全く感じられなかった。 最初の一口は「別に・・」だったのに、香りや味に気付くとだんだん美味しくなってきて、「ははーん、なかなかいけるじゃないの」、などと、ニンマリしてくる。 奥深い美味しさ。 これは使える。 春の味として覚えておこうと思った。
フキノトウから始まり、土筆、ワラビ、ゼンマイ、タラの芽、のびる、竹の子、野生のミツバや芹、山椒、新茶、そして柿の葉。 次から次へと順番に豊かな山の恵みを御馳走になっている。 美味しいことを素直に喜びながら、同時に心の中では、「食べられる物は何でも食べる」という動物としての人間の本能が持つ『あさましさ』とか『いやしさ』みたいなものと対峙させられている木の芽時だ。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
この時期は芽野菜を摂ると体の調子が整うらしいですね。
私も、どーも調子が悪くて、料理をする気にもなれないし、悪循環だわー。
投稿: かおる | 2008.05.11 22:51
作らなくっちゃ、と、思ってしまうと、作れない自分にいらいらしてドツボにはまってゆくような気がしますので、そのまんまの状況をご家族にぶっちゃけて協力してもらい、外食や中食を楽しんだり助けてもらうのは如何でしょう?
お互い体に無理がきかない年代になりましたか、ね。 ぐっすん。
旬の食べ物は体にいいだけではなくて、やっぱり何よりも美味しさがありますよね。
投稿: リーボー | 2008.05.12 15:40