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2008.06.03

言葉の重さ

スポーツの解説で時折耳にする言葉に、「重たい」という表現がある。 例えば野球では、「このピッチャーの球は、同じ球種でも他のピッチャーより重たいので凡退が多い。」と言われたり、ボクシングなどでは同じパンチでも、受ける側に軽いものと重いものとが存在するらしい。 何となく理解できる気がする。 体重が乗って勢いがつけば、初速や加速度が違ってくるだろうし、相手にどのように伝わり、どのくらいのダメージを奪えるかにも差が出てくるのだろう。

色々な作家の著作を読んでいて思うのは、日本語にも「重い・軽い」があるということだ。 重たい日本語を使う人の文章は、たとえそれが日常のひとこまを切り取ったような「軽い題材」であったとしても、読むのに時間がかかる。 なかなか読み進まないような印象。 相対して軽い文章は「重たい題材」であってもスイスイ進んでゆく。 同じ著者がわざと使い分けしようとすることもあるだろうが、「その人の持っている基本の重さ」はだいたい安定しているようで興味深い。 内容に引き込まれるとか話の脈絡の状態といったこととは無縁に、日本語そのものが持つ重量が存在するように感じられるのだ。 なにか、こう、同じ日本語に押し込んでいるニュアンスや背景の量が違っている感じ。

意識してどんな人の使う日本語が重いのか軽いのかを探っているのだが、なかなか掴めない。 ひとつ言えるかな、と、ようやく見つけたのは、その著者が「第二の言葉」を持っているかどうかということ。 日本語以外の外国語でも良いし、同じ日本語でも古文の専門家などは、明らかに重たい。 海外での生活が長かったような場合はもちろん、ご両親のどちらかが外国の方であるとか。 どうやら話せなくても良いようで、翻訳をしている人もここに含まれる。 当然私の読書量では分析に限界があるし、著者の履歴を正しく把握しているとも思われない上で、読んでいて「重い日本語だなあ」と感じる著者を調べてみると、どうもそのような傾向が浮かんできたという程度のことだ。

一方、過日何気なく見ていたテレビ番組で、その道では有名な20代の億万長者トレーダーを取材していたVTRが流された。 私は別に、若くして大金持ちになった人を珍しがるような種類の人間でもないが、一番気になったのは、その人が会話に使っていた日本語の軽さだった。 おちゃらけて軽いのではなく、私にはそれが、相手に対して自分の考えを伝えようとする意志の無さに由来する軽さに感じられた。 大袈裟に言えば、日本語を使ってとるコミュニケーションの基礎が身に付いていない人が大金を手にしている恐ろしさを感じたのだ。 番組の中で、彼は地球環境のことを考えて夏でも冷房もかけない生活をしており、将来はお金をそういった事業の為に使えないかと考えているようなことを報じていたが、空虚な印象が最後まで抜けなかった。 彼にとっては意思を込める対象はお金であり、日本語ではないのかもしれない。 人と人とのコミュニケーション・ツールは言葉ではなくお金、という時代なのだろうか。

日本語に込められた想い・気持ち・ニュアンス・背景・文化…普段何気なく使っている日本語について、最近いろいろと考える機会を与えられている。

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