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2008.09.28

特別な日

プレゼントを貰った。 ビールがひと箱。 さすが私のことをよく知っている方なので、ど真ん中ストライクの品物を選んでくれるのが嬉しい。 ここ数日はめっきり肌寒くなり、ビールもあまりキンキンに冷やしすぎないようにして楽しんでいるが、冷やさないとちゃんとしたビールかそうでないかの差が非常に大きくなり、結果として安易な商品には自然と手が伸びなくなる。 ビール好きの人は心得ているので、何も言わなくても商品選びに間違いが無い。 そのあたりの信頼感が、実はとてもありがたい。

普段何気なく過ごしている「ただの一日」、又は単なる「ある日」であったとしても、お祝いの言葉をいただいたり、実際にプレゼントをいただいたりすると、いきなり「特別な日」に変わる。 「特別な日」は誰かに位置付けてもらうものなのかもしれない。 そうなると、自分も当然意識せざるを得なくなり、慌てて意味合いを考えてみたりするのも可笑しい。

『誰かに位置付けてもらう』と言えば、思い出したことがある。

かつて、仕事で今知り合ったばかりの相手に、いきなり「お誕生日はいつですか?」、と尋ねられ、『えっ、どうしてそんな質問に答えなくちゃいけないの?』と内心驚かされたことがあった。 「あっ結婚されているんでしたら、結婚記念日も。」 質問には答えないまま、どうしてそんなことを聞くのかを、逆にいろいろ聞いてみると、その人は知り合いの記念日には必ずカードを贈ったり、電話をかけたりしているとのことで(今ならきっとお祝いメールということになっているのだろう。)、手帳にはぎっしりと誰かさん記念日が書き込まれていた。 私は相手の「マメさ」に感動しつつも、半分呆れてしまった。(別にその方は客商売の仕事ではなく、一般的な事務の仕事に就いていた。)

「どの辺の親しさの相手までお祝いしてあげるの?」、と、尋ねたら、「出来るだけ多く。」だそうで、「だって、お祝いされたら誰だって嬉しいじゃないですか?!」、と言われた。 「切手代、大変じゃない? カードだってただじゃないし・・」 「そうですね、もういろんなカード買うのが趣味みたいになっちゃってますね。」、と笑う。 私はしばらくウーン・・と考えてから、「大丈夫。 例え私があなたにお誕生日をお祝いしてもらえなくても、あなたのことを仕事仲間としてちゃんと忘れないようにしますから。 これから個人的に友達になれるかどうかは、まだ分からないですけど、とりあえずそんなことで友達かどうかを量ったりしませんから、安心していいですよ。」、と言ったら、そんな事を言われたのは初めてだ、と、いきなり泣き出されてしまった。

私は、尋ねても記念日を教えてもらえなかったのが悲しくて泣きだしたのかと思っていたのだが、ずっと後になってその人から手紙をもらい、実はそうではなかった事を知らされた。 相手に嫌われたくないという過剰防衛で、相手の記念日を祝ってあげないと不安で仕方なかったという話だった。 きりが無いのに止められず、自分でも爆発しそうで途方に暮れていたような状況だったらしい。 「脅迫記念日お祝い症」みたいな状況だったのだろうか? 結局、その相手とは個人的友人に発展しなかったので、お互いの記念日を祝う関係にはなれずじまい。 でも、とても印象に残っている。

世の中には、「相手と出会った記念日」に始まって、「デート記念日」、「告白記念日」、「キスの記念日」などなど、事細かに全部大事にしている人もあると聞くが、そういうものにほとんど拘らない私には、どこか別の世界の話のように思える。 本当に大切にしているのは、他の人の記念日も含めて両手でお釣りがくるほどしか無い。

あまりたくさん抱え込んでいると、特別のありがたみが薄れてしまうから、やっぱり「特別な日」は少数先鋭くらいでちょうど良いんじゃないか、という気がする。  

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2008.09.26

嵐の後で

昨夜からずっと風がビュービューに吹いていて、おまけに雨まで叩きつけるような大荒れが続いていた。 夕方になってようやく静けさが戻ってきたので、気分転換を兼ねてウォーキングに出かける。 ほぼ一時間かけるが、最近はウォーキング+ランニングのような現状になっており、全体距離の半分近くは軽く走っている。 まあ、その時の気分や体調によってで、何かの縛りがあるわけでも無く、至って気楽なものだ。

雨雲の向こうから青空も覗いて、それが時間の経過に応じてだんだんと、走る私の頭の上まで移動して来る。 嵐の後で空気が澄んでいる上に、秋の空は高くて、まるで天井がずっと押し上げられたみたい。 いつもより酸素も多いような気がして、伸びをしたりストレッチをしたり。 トンビに見下ろされながらマイペースで楽しむ。

ついこの間までちょっと走ると汗が流れていたのに、気が付くと暑さも気にならなくなっている。 そろそろ9月も終わりだものなあ。

強い風でせっかく咲いた彼岸花が、茎の根元からことごとくぽっきり折れていた。 茎に比べて頭でっかちな花が裏目に出たようだ。 まだ命の勢いが感じられるものを何本か持って帰って、水上げをしてからテーブルに飾ってみた。 見る間に水を吸い上げて、しゃんと背筋を伸ばして何事も無かったかのように咲いている。 「頼もしい」というのはこういうことを指すか、と、ふと思った。 命は、儚くか弱いようでいて、それでいて、周囲を驚かすような勢いも持っていて、強い底力もあり、本当に不思議なものだと思う。 それを自分も与えられていることが、なんだか俄かには信じ難い気持でもあるのだけれど、でも、とりあえず今のところは生きているし・・。 今さらながらひとつだけ強く、確信のように感じるのは、「これはとてもじゃないが、人間が好き勝手に操れるようなものじゃないな」、ということだ。

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2008.09.24

焼くのに飽きたら

美味しくなってきた秋鮭。 いつもと違うものを作ってみたくなったので。

鮭の揚げマリネ 2人分

  • 鮭     2切れ
  • タマネギ  4分の1個
  • プチトマト 6個くらい
  • レモン汁  大さじ2
  • 砂糖    小さじ1
  • タバスコ  5滴くらい
  • 片栗粉   適宜
  • 塩と胡椒
  1. 鮭は皮と骨を取り除いて一口大の削ぎ切りに。 タマネギはスライスして(タマネギの辛さが苦手な場合は水で晒して)おく。 プチトマトは2~4つ切り。
  2. 耐熱性のガラス等「酸」の影響を受けない容器に、レモン汁と砂糖、タバスコを入れて混ぜる。 そこへスライスしたタマネギとプチトマトを入れて、軽く混ぜる。
  3. 鮭に塩と胡椒でやや強めに下味をつけて、片栗粉を薄く均一にまぶし、高温の揚げ油でカリッとするまで揚げる。 揚げ上がったものから、油を良く切るようにして直接2の容器の中へ入れてゆく。 余裕があればその度にササッと絡めてゆくようにすると良い。
  4. 鮭が全て揚げ終わったら、全体を良く混ぜて冷めるまで放置。 時間があれば、その後冷蔵庫で冷やして味を馴染ませる。

もちろん、セロリやピーマン、ニンジンの千切りやパセリのみじん切りなど加えても美味しいし、マリネ液の中に粒マスタードやディル、ケッパースを入れたりすればお店っぽい味に。 鮭にまぶす片栗粉にカレー粉を少々混ぜると、よりプロっぽくなる。 レモン汁を好みのお酢で置き換えたり、タバスコの代わりに豆板醤を使ったりしても。 鮭をエビや鶏肉に代えてもきっと(多分)美味しい筈。 ・・まあ、作る方の腕の見せ所で、いかようにもいじってくださいね。

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2008.09.23

緩急

穏やかに晴れた祝日。 がーっと集中して本を読んだり、反動のように、匂い始めた銀木犀の木の下でぽーっとしたりして、緩急のある一日に。 敷地の片隅に彼岸花が2本だけ、いつの間にか生えてきて紅色に咲いているのに、ようやく気付く。 一体いつの間に? 確か去年まではこんな場所に生えてくなかった筈だが。 謎だ。 今年は中秋の名月に間に合わなかったススキの穂が、いつの間にか金色にふわふわと風に揺れている。 グラウンドの向こうの杉林からは、まだ蝉の鳴き声。 夕方にはちゃんとヒグラシも鳴いた。 日に日に蝉の数が減ってゆくのが判る。 一方で鈴虫やコオロギはうるさいくらいだし、鹿の哀愁漂う鳴き声も山間に響く。

放送用語に「スニーク・イン、スニーク・アウト」という言葉がある。 「フェイド・イン、フェイド・アウト」よりも更にゆっくりと時間をかけて、音源を徐々に大きくしたり小さくしたり操作することを指す。 自然界の季節の移り変わりというのは、まさにスニークの状態で、じっくりと時間をかけて、じわーっと徐々に徐々に入れ替わってゆくように感じられる。

アメリカのサブプライムローン・ショックから続いて激しく動く経済のニュースに、追いかけられているような気持で接していることが多いのだけれど、「ぼんやりしてたっていいんじゃないですか」、と、山に言われたのが聞こえた気がして、「それもそうだな」、と、ふと立ち止まった。 動いているものを見ようとする時には、自分も同じ速さで動いていた方が良く見えるが、それでは止まっているものやゆっくりしているものを見落とすことにもなる。 たまには自分も速度を変えて、見落とすものが無いようにするべきなのだろうな。 その切り替えも、なかなか難しいんだけれど。  

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2008.09.21

「じゃがいもりかこ」って。(苦笑)

ちょっとしたきっかけで、カルビー社の学童向け食育ブックを読んだ。 冊子の巻末に「なんでもQ&Aコーナー」というページがあって、原料や製品についての質問が並んでいる。

その中で商品名についての質問があり、回答に記載されていたもの。

「じゃがりこ」という商品名を考えたのは開発担当者の男性で、新しくできたじゃがいものお菓子を友人の「りかこ」さんに試食してもらったら、とても美味しそうに食べてくれたので、「じゃがいもりかこ」を短縮してネーミングしたとのこと。

友人だか彼女だかは大きなお世話にしても、「じゃがいもりかこ」はないんじゃないか? 「りかこ」さん、あんまり嬉しくないんじゃないかな。

そう言えば、最近「じゃがりこ」食べていないな。 スナック菓子そのものにすっかりご無沙汰だ。 今度、売場くらい流してみようか・・。

●わざわざもう一本記事を建てるほどでもないので、追伸。

世の中には「酒粕焼酎」というものがあるそうですが、「おばあちゃん家(ち)飲んでいる味」がするのだそう。 ・・どんな味がするのか全然分からないのに、反して、すご~く解る気もして笑ってしまいました。 でも、飲んでみたいとは思えないなあ。

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2008.09.20

時々ケチャップ

半端に残っていた豚の薄切り肉を何にしようか迷って、久しぶりにケチャップ炒めを作った。 子供の頃に食べた懐かしいメニューだ。

特別な材料は必要なく、至ってシンプル。 バターで塩胡椒した豚肉を焼きつけ、拍子切りの人参とタマネギを加えて炒め、火が通ったらピーマンも入れる。 あとはケチャップと少々のウースターソースで味付けするだけ。 単純なんだけれど(単純だからかもしれない)、たまに思い出して食べたくなる。

ケチャップはあまり出番が無くて、いつも冷蔵庫の中でなんとなく余りがちなので、時々意識的にガツンとケチャップ味のものを作ることにしている。 「豚のケチャップ炒め」もそのひとつで、他には「ケチャップ炒めご飯」とか「昔風のスパゲティー・ナポリタン」とか。 胡椒をたっぷり目に使うと相性が良いようだ。 甘みが強めの懐かしい『おこちゃま味』も、たまの登場ならば魅力的。

昔と比べると、世の中の食べ物はどんどん複雑になってきている気がする。 ケチャップに誘われるように、子供時代のくだらないことをいろいろ思い出したりするのも、きっと美味しさの内に含まれている。  

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2008.09.18

流動体

このところ義父はどうも調子がよろしくない。 医療機関で検査してもらっても、特別に「これが原因!」という病気は見つからないのだが、ぽつりぽつりと単発的に良くない症状が『現われては消え』している。 年を取った身体というものは、つまりはこんな風になってゆくものなんだな、と、明日は我が身の気持ちになる。

私たちの身体は時間によって刻々と変化し続けている。 古い細胞は壊され新しい細胞が再生されるのはもちろんのこと、血液中に含まれる種々雑多な成分のように、数値として定量化できるものだけを見ても、全てが完璧に同じ状態というのはあり得ず、当然のように「今の自分は、昨日までの自分とは違う」のだ。 それでもほとんどの場合は、昨日までと同じように体調は悪くないし、昨日と同じように生きている。 内部を分析すれば時々刻々変化し続けているのに、全体を見ればその状態を維持し続けているというのは、実はすごいことなのではないかと、改めて意識する。

これだけたくさんの細胞が集まって、組織としてたくさんの役割を分担しているのだから、多分小さな問題は限りなくたくさん起きているのだろうけれど、他の何かがそれをカバーしたり調整を取ったりして、大抵の問題はクリアしてしまうのだろう。 例えば発熱するとかどこそこが痛いとか気付く時には、それなりに問題が進行している「次の段階」になっている筈。

それぞれのシステムがちゃんと機能し、それなりに余力がある状態ならば、問題をリカバリーする働きも大きいのだろうけれど、年齢を重ねるにつれて残念ながら、個々のシステムが持つ余力が小さくなったり、事によっては既に機能していないシステムと化していたり、そんなことが多くなってゆくもののようで。 となると、小さな問題が一つ起こっただけでもリカバリーが難しくなって、あっという間に症状となって表面化する。 義父の身体は丁度そんな感じなんじゃないかな、と、思う。

これは例えば、人間社会のこと、社会経済のこと、地球の生態系や気候のこと等々、実は他のたくさんの分野にも共通していることなのではないだろうか。 スヤスヤと昼寝をしている義父の背中を見ながら、そんなことを考えていた。

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2008.09.17

所かまわず

催してトイレに入ったら、先客で蚊が一匹。

散々追い回してやっと捕まえた。

そのまま用を足さずにトイレを出ようとして、「違う違う」ともう一度仕切り直し。

迷惑な奴・・この時期の蚊はしつこいから嫌いだ。

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2008.09.14

怒れる美人

システムの不都合とやらでANA便がたくさん欠航されたらしい。 昼にちょっとだけ見たテレビのニュースで、背景に空港ロビーのANAカウンターの映像が流れていた。

長い行列を作ってカウンターでの対応を順番待ちしている乗客、それとは別にロビーに出ている大勢のアテンダントさん方が個別対応に追われている。 制服をきっちり着こなしつつ、お化粧も顔立ちも綺麗であることは、こういう場面ではある種の威力を発揮するように思えて、何となく映像に心奪われて見ていた。

映像の場面が切り替えられて、カウンターの様子に。 すると、第一線で接客しているアテンダントさんの後ろで、お客さん側に背を向け携帯で何やら「内部の話」をしているアテンダントさんがひとりアップになった。

一言で言えば美人。 やや太めの眉をきっちり描いてルージュも艶やかな色、制服のスカーフを結んだ首筋も綺麗。 その人が眉を寄せて眉間に皺を作って、とてつもなく厳しい視線を作ったまま、電話で激しくしゃべっている。 「うわー、本当に怒った人ってこういう顔になるんだ!」、と、釘づけになってしまった。 こめかみの辺りに、漫画でよく見る「かぎかっこを4つ背中合わせにしマーク」が見えた気がした。 Cocolog_oekaki_2008_09_14_21_07

いやー、美人が怒ると本当に迫力がある。 普通の人が怒っているのとは怖さが別次元の勢いだ。 あんな顔で怒られたら、か弱き男性はひとたまりもないな・・。

「こんな映像が流されちゃって大丈夫だろうか?」とか思いつつも、一種の感慨のようなものを覚えて美人の彼女を見つめていた。

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2008.09.08

食事に飽きるということ

義父がお世話になっている施設の給食業者が変わった。 食べている本人に聞いてみると「美味しいよ」と言うし、他の方々にも概ね好評のようだ。 張り出されている献立表を客観的に見ても、おかずの変化が増えたように思われるし、午後のお茶の時間に用意されるオヤツが基本「手作り」のものに変わったらしい。 季節の果物も頻回に顔を出すようになったみたい。

食べるということをあまり重視しない方にとっては、空腹を満たすことが第一条件なのかもしれないけれど、美味しいものを食べたい欲がそこそこ強い私のような者や、他の楽しみが制限されている分だけ食べる楽しみの役割が大きくなってきているお年寄りにとっては、食事の内容が生きる楽しみに直結してくる。

給食業者もいろいろ考えた上で献立を決定しているに違いなくても、やはり同じ作り手・同じ食材仕入れ元・同じ栄養士だと、長い目で見ればどうしてもパターン化してくるのはやむを得ない。 いろいろ工夫して変化をつけたり、関係者を他の施設とローテーションさせるだけの人的規模が必要になったりもするのだろう。

義父は戦後の食糧難を経験した人だから、好き嫌いは多くない方だが、どうも見ていると、食が進まなくなるケースでは「飽きる」という要素が大きく絡んでいるようだ。

私は自分で料理を作るから、毎日少なくとも3回は、自分が選んだ食べたいものや作りたいものを、ほぼ無意識に選んで食卓に並べている訳だが、出されたものを食べている立場の他の家族にとっては、私といえども毎日同じ作り手・同じ献立製作者であることに違いは無い。 それでも「飽きた」といった苦情が聞こえてこないのは、我慢してくれている優しさなのだろうか。  「今日はこんなものを食べたい」とリクエストしてもらえれば作り手としても楽。 でも、そんなに頻回には言ってくれないのも現実だ。 その分だけ、できるだけいろいろな献立を組むように、どこの家庭内の作り手も努力しているのだと思う。 お金や栄養の心配も頭の片隅に置きながら。

私自身も会社勤めをしていた時代は、お昼を社員食堂で摂ることが多かった。 一食だけだしある程度メニューも選べるのに、それでも飽きてしまって、前夜の残り物等をお弁当に仕立てて持ち込んだりしていたっけ。 味付けの微妙な差でさえも飽きることの原因に繋がるとは、何と複雑なことよ・・。

初夏の頃だっただろうか。 学生時代からの気心の知れた友人が、知り合いの初老の方に頼まれて、有料老人ホームの見学に付き合ってきたという報告をくれた。 施設の立派さや葬儀まで取り仕切るというきめ細やかなサービスに感激して、「食事もね、毎日二種類のメニューの中から選べるんだよ!」とテンションの高い報告だった。 私は内心、どう返答すべきかかなり迷ってしまった。 感激した彼女の気持ちを削ぐのは、友人として気が引ける。 でも、食事に飽きるというのはそういうことでは避けきれないことも、義父を通してちょっとだけ学んでいたから。 結局、「まあ内情を知ってしまうとね、いろいろあるような気はするけれども。 今は出来るだけ『自分で作って食べる』のが一番だな、という気持ち。」というようなリアクションを返したように記憶している。

時々「うわっ、失敗だ!」と焦ったり、「ちょっとしょっぱかった」とか「今度は甘過ぎた」とか「なんじゃこりゃあ?!」とか「面倒くさーい!」とか文句を言えている内が、本当は一番ありがたいことなのかもしれない、と、思う。 

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2008.09.06

コンダリングハンドルバー

アニメ「巨人の星」の主題歌の「♪思い込んだーら」を、「重いコンダラ」と覚えて、あの整地用ローラーをコンダラと呼ぶと誤解している方がある、というのは、笑い話として有名。

で、その「コンダラ」を通販している体(てい)のジョーク・サイトがあるというので、早速検索をかけてみたら、ちゃんと出てきました。

日本コンダラ製鉄株式会社

ばかばかしくて、非常に良いです。 アンニュイな感じが、だらーんとした週末にぴったり。 気分転換に如何でしょう。

「チョイコン」だったら欲しいかも・・なんて、うっかり考えるリーボーでした。(私って案外こういうのも好き。) 

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2008.09.05

「っぽい」ので「ふふふ」

気になっていた商品を買ってみた。

ミツカン「おむすび山」シリーズの新商品「赤飯風味」。(新商品案内のページへのリンクなので、掲載期間が過ぎた場合にはミツカンのトップページからどうぞ。) 「おむすび山」なので当然混ぜるだけなのだが、もち米を炊いたような『もちもち食感』が楽しめるという。 普通のご飯に混ぜるだけで本当にもちもちするものなのだろうか?、と、半信半疑で、尚且つかなり気になったので買って来た。

お昼ごはんに試してみることに。 「おむすび山」の他ラインナップに比べて粉っぽいような袋の中身を温かいご飯に混ぜ込むと、なるほどおしゃもじの抵抗感が一気に増したのが伝わる。 握ってみると、確かにもちもちした粘り気のある音がする。 付属品のゴマ塩を振りかけて出来上がり。

興味津々で食べる。 思わず「・・ふふふ・・確かにお赤飯っぽいわ、これ。」 小豆の粒など数えるほどしか入っていないのだけれども、それでも充分に「っぽい出来上がり」になっていてお見事。 企画力の勝利という感じか。

ちゃんとお赤飯を炊くのと比べれば割高感は否めないにしても、一度に2合・3合炊いてしまったら困る場合もあるだろうし、ひとり暮らしの方とか、ちょっとお弁当に変化をつけたい時に使える気楽さを考えたら、活用価値は高いように思う。 もち米を買ってしまうと、全部消費するのが意外に大変だったりもするし。 何よりも思いついた時にすぐ食べられるのは嬉しい。

ひとつ持っていると便利そうだということが判ったので、食品庫の在庫リストに加えることにした。 

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2008.09.03

今のうちに

果物を選ぼうと売り場を覗いたら、中央のワゴンに巨峰がたくさん並べられていた。 よく見れば同じ巨峰でもいろいろな種類がある。 種のあるもの・無いもの、驚くほど大粒のもの、房が立派なもの、こじんまりしたもの。 産地もそれぞれのようでパッケージングも違う。 まあ良くぞこんなに巨峰ばかり、と、感心するやら、ちょっと呆れるような気持ちも覚えながら、昔からよくある一般的な種のあるものを選んで、ひとパック籠に入れた。

ショッピング・カートを押してゆくと、売場の壁際の棚にデラウエアを見つけた。 並べられたパックの数も数えるほどしかなく、同じ葡萄でも扱いがずいぶん違う。 今シーズンになって巨峰はもう二度食べているが、デラウエアは食べていないことを思い出した。 たまたまだったのかもしれないけれど、あまり見かけなかったのである。 「これを逃したら本当にシーズンが終わってしまうかもしれないな、それに、巨峰はまだまだこれから食べる機会がありそうだし・・」、と、思い直して、籠の中の巨峰とデラウエアを取り換えた。

子供の頃は葡萄といえばデラウエアが一般的で、たくさん売られていたし、よく食べていた記憶があるのに、時代の流れと共に主役の座が巨峰に移ってしまったようだ。 確かに独特の濃い甘さや食べ応えは優っているように思うが、デラウエアにもデラウエアの美味しさがあり、とりあえずシーズンに一度や二度は食べておきたい。 なんだかこの感じだと、近いうちにデラウエアが売り場から消えてしまうのではないかと心配になってしまう。

そう言えば、今年はプリンスメロンをついに食べることができなかった。 そこそこ探したのだが。 他の種類のメロンは何度も食べたのに、である。 学校給食にまで出されていたあのプリンスメロンも、今の世の中では人気が無いのだろう。 ・・懐かしさも相まって、食べたかったんだけどなあ。 欲求は通販でわざわざ送料を上乗せして「お取り寄せ」するレベルには達していないものの、売り場で見かけたら買うつもりだった。 残念。

今、具体的に思い出せるものではないけれど、きっとこんな風に「昔は普通に食べていたのに、いつの間にか見かけなくなってしまった食品」は、たくさん存在しているのだろうと思う。(数年前にバタークリームのデコレーションケーキを探した時にも結構苦労したっけ。) 売れるもの、お金になるものばかりが残ってゆくのは、経済的には自然な流れで仕方が無いのだろうな、と、理解はしていても、ノスタルジックにちょっぴり寂しい気もする。

食べながら、熟した小さい粒がぽろぽろとこぼれ落ちるのも恒例のように楽しみつつ、デラウエアは懐かしく美味しかった。

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2008.09.01

命の豊かさ

ブログに書いたから、である筈もないが、珍しく二日連続の晴天。 もう嬉しくて、洗濯しまくりだった。 シーツも枕カバーもタオルケットまで洗って、しかもことごとくからりと乾いてくれることの、何とありがたいことか。

昼間は蝉が、夜は秋の虫たちが、それぞれに声を張り上げている。 計測機器で測定すればそこそこうるさいレベルかと想像するけれど、こういった音は不快でないから不思議だ。 何かに集中すればあっという間に、意識の外へ追い出されてしまう。

季節に焦るように、スズメバチが神経質そうに飛び回っている。 きっと、そう遠くない場所に巣があるんだろう。 物干し場に出る時は、刺激しないように気を遣う。 怖い虫の一つであると同時に益虫でもあるので、できるだけ共存してゆきたい姿勢でいる。 だからといって、こちらの思惑など通じる訳が無いのも、また事実。 人間なんていつも勝手だよな、と、どこか他人事のように思う。

物干し場のコンクリートの上では、カナヘビが日向ぼっこをしていた。 スズメバチに気を取られて足元に気付かずに踏みそうになり、慌てて足を引っこめた。 ちゃんとこちらを警戒して先手を打って逃げ出してほしい所を、どうしたことか顔を上に向けて空の方を見上げたまま、じーっと佇んでいる。 こちらが洗濯ものをとり込もうが、上を跨ごうが、我関せず。 「ちゃんと生きてる?」と、思わず顔を覗き込むと、円らな眼の視線を私と合わせたまま、「何か?」とでも言うように首を傾げられた。 見ようによっては哲学しているようでもあり、爬虫類や両生類独特の不気味さよりもうっかり可愛らしさを感じてしまって、私の方がどぎまぎ。

たくさんの命に囲まれて生活していることの豊かさを、改めて意識した。 こんな風に何気ない日常の中を、季節は丁寧に進んでゆく。

●明日9月2日、9時~15時の予定でシステム・メンテナンスがあるそうです。 時間中は閲覧は可能ですが、TB張りやコメントの投稿ができなくなります。 よろしくご協力ください。 

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