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2009.02.27

独活(うど)

この春、お初の独活。 まずはそのまんま、皮を剥いただけで味噌をつけてシンプルにいただく。 まだ香りは薄いけれど、みずみずしさといい、しゃきっとした歯ごたえといい、生命力に溢れている感じが嬉しい。 皮と芽はいつものようにささっと炒めて「きんぴら」に。 こちらの上品な苦みも魅力的。 実と皮のどちらが主役かは微妙なところだ。

思いもよらない冷え込みで、すっかり冬に逆戻りしている。 都内は雪だそうだ。 三寒四温の「三」が身に沁みる。 飾ってあるお雛様も寒そうに見えてしまう。

その一方で独活や苺、菜花、キャベツ・・と、春の食材が並ぶ機会が増えてきて、次の季節を待ち望む気持ちと、現実の気候とがせめぎ合いしているみたいだ。 早く暖かくならないかなあ、と、思っているからこそ、ちょっと気の早い食材にもついつい手を伸ばしてしまう。

次の「四」が来たら、寒さで抑えられていた花粉が一斉に飛んでしまうのではないか、と、恐れつつも、やっぱり春の陽射しが待ち遠しい。

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2009.02.26

それで大丈夫なのか?

過日に実家の両親が、そう遠くない場所の温泉旅館に宿泊した際の話である。

両親が暮らしている地方自治体と保養施設協定を結んでいる旅館だそうで、「住民特別価格」で格安に利用できるらしいことは、前もって聞いていた。 ところが、チェック・アウトした後で実際にいくら支払ったのか尋ねてみたところ、「夫婦二人で2泊して、それぞれ朝夕食の計4食付で、日本酒を少々飲んで、全部で2万円」という、とんでもない答えが返ってきた。 この際お酒の値段は考えないことにしても、単純計算で一人1泊2食付でたったの5千円である。 宿泊先を聞いてインターネットで調べたら、正規料金(旅館希望小売価格とでも言おうか)は1万5千円からの筈なのに。

一体どうなっているのかと詳しく聞いてみると、「住民特別価格」の格安設定の他に、住んでいる自治体から高齢者に支給される金券のようなものがあり、それは地域内の商店や介護サービス等で利用するそうだが、その金券が今回の宿泊代の一部として利用できたらしい。

もちろん正規の宿泊料金で泊まるよりも、「住民特別価格」の宿泊者は、食材のレベルが下げられていたりするにしても、泊まった本人達曰く、「お風呂もお部屋もとってもきれいで、仲居さん達も親切で丁寧だったし、料理もとても美味しくて・・」、と、かなり好印象だった様子。 「また来年来ようって話していた」そうだ。

当然ながら、その値段で泊めても後で市区町村からお金が補填されて、旅館は損をしないようになっている。 じゃあ、その「補填されるお金」は誰が出しているのか、と、考えれば、その地区町村の若い住民の税金だったり、企業からの税金だったりする訳で。 お年寄りを大事にしてくれるのはありがたい話だけれど、そこまでお金出してもらっちゃって良いのだろうか?、というような、変な後味の悪さが残った。 折も折、ちょうど『ますたあ』と、「今の日本は、人ひとりが暮らしてゆくのが『高コスト』過ぎて問題だ」という話をしていたので、両親の話を聞いて思わず「うーん」と唸ってしまった。

あんな旅館にひとり5千円で泊まれるなんて、世の中の仕組みはやっぱり不思議。

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2009.02.25

塵(ちり)

キリスト教では今日は「灰の水曜日」と呼ばれる特別な日。 (ここでは詳しい説明をすることは避けるので、興味がおありの方はウィキでも読んでいただくこととして・・。) この日のミサでは、儀式を仕切る司祭(神父)が、祝別した特別な灰を参列者に授ける。 木の枝を燃やして予め作っておいた本物の白い灰だ。 授けるといっても、紙に包んで渡したりするのではなくて、灰に指を突っ込んでからその指で参列者の額に十字のしるしを描くか、または、2本の指で摘まんだ灰を頭の上にパラパラと降りかけるかのどちらかである。

で、灰を受けながら各自はこう語られる。 「あなたは塵であり、塵に帰ってゆくのです。(塵に戻るのです、と言われたこともあった。)」

まあ宗教的意味はさて置き、私はこの一文が大好きだ。 ミサの中で使われる言葉は本当に多種多様に亘るが、一年に一度これを言われる時、自分が本当に心の底からホッとするのが判る。

だって「塵」ですよ、塵。 言うなれば、「お前なんか、なんぼのもんじゃい!」ってトコだろうか。

自分に能力があるとか知識があるとか、そんなことを思って自惚れているわけではないにしても、生きている毎日の中でいろいろな役割を期待されたりしている内に、どうしても自分自身にプレッシャーを与えていることは多い気がする。 で、挙句の果てに「なんで上手くできないんだろう」、とか、「もっとあんな風にするべきだった」、などと思ったりもする。 それは自分自身の進歩の為であると同時に、重圧にも成り得るもので、なかなか扱いが難しい。 意識していないのに、いつの間にか肩に力が入って「がんばっちゃっている」状態になっていることも多い。

そんな中で「あんたなんて、たかが塵。」、と、言われると、一気に肩の荷が下りる気持ちになる。 「そうじゃん、たかが塵の塊なんだから、すぐに出来なくったって当たり前なんだし、そんなに期待されているわけでもないんだし、自分ができることなんてどうせ微々たるものだし・・。」 そして、儚い存在であることをとても幸せに感じる。 儚い塵だからこそ、誰かの助けが必要で周囲の力に支えてもらい、それを素直にありがたく受け取ることが出来る。 一度謙虚にオール・クリアして、改めて気楽に始める・・私にとってはその呪文のような言葉だ。

「大きな力の持ち主」がふっと吹き飛ばせば、すぐにでも塵に戻ってしまう身。 自分に対しても謙虚でいたい。

 

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2009.02.24

百年に一度ってわけじゃあないでしょうが。

重なる時には重なるもので・・。 実家の両親が、住んでいる場所の保養施設提携先であるという、メモリアからもそう遠くない場所の温泉旅館に宿泊するというので、ピックアップしてあちらこちら観光に連れ出す。 それでほとんど丸二日間。 続いてPCが調子を崩してしまい、別人格に生まれ変わっていただくことで何とか再生し、じたばた。 それから、メモリアの建物を見に来た方があってご案内したり、義父に来客があるというので色々段取りを整えて。 そして、生活の全ての根幹に花粉症がでーんと横たわっている状態。 厳密に言うと、ここには具体的に書けないこともいくつかあって、半分やけくその感じで「春だからねえ」とでもオチを付けたくなる。 普段の日常が一般と比較してかなり穏やかな状態なので、いくつか急な案件が重なるだけでもダメージが大きい。 たまにはこんな風に過ごすのも訓練の内かな、と、発想を転換してストレスをかわす。

今年は飛散する花粉の量が多いとは聞いていたが、実際もなかなかエライことになっている自覚がある。 テーブルの上を水拭きすると、例年よりも多量にうぐいすきな粉のように布巾に付いてきて、それを見ただけでもノックアウトされてしまいそうだ。 前掲の記事ではないが、鼻から脱水を起こしてしまいそうな勢い。 伊豆半島は首都圏への花粉の発生源とされていて、なんとも申し訳ないような気分にすらなってくる。 どうぞ伊豆の花粉をよろしくお願いします・・。

花粉症の薬のせいか体内のアレルギー反応のせいなのか、それとも単に春だからなのか、このところ横になるとストンと眠りに落ちる。 寝入りばなの自覚もなく、眠りのブラックホールに吸い込まれてゆくような感じ。 何故だか落ち着きのない日常の中で、逆に何の迷いの余地も無く、ただひたすらに良く眠れることだけは、とてもありがたいと思っている。 怪我のないように事故のないように、気をつけないとなあ。 

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2009.02.19

脱水

勝手に明言させてもらっている通り、私は昆布豆や五目豆といった、「あれ系」の味付けで大豆を煮た料理が苦手だ。 出されたら残すことはしないけれど、自らは選ばない。 だが、嫌いだからと避けてばかりいるのも癪な「へそ曲がり者」なので、たまに市販品を少量買ってきてみては、「やっぱり・・」を繰り返している。

過日、実家の母が老夫婦では食べきれないからと、乾物などをまとめて届けてくれた。 その中にいただきものだという大豆の水煮缶がたくさん入っていたのだ。 缶詰だから賞味期限はずっと先だが、苦手意識のある素材がストックヤードにずらりと並んでいる光景は、どうも精神的にプレッシャーで、できればなるべく早く片付けてしまいたい気分になってきた。

「たまにはやりますか」、と、覚悟をきめての昆布豆。

  気長に昆布豆

  • 大豆水煮缶     140g入りのものひと缶
  • 乾燥昆布       3cm分
  • 砂糖          大さじ4
  • 醤油          小さじ1
  • 水           適量
  1. 昆布はキッチンばさみ等で一辺7ミリ程度の正方形に切る。(煮て膨張した時に大豆と同じくらいの大きさになることを目指す気持で。) 直径15から20cm程度の小型の鍋に1cm位の深さに水を張り、切った昆布を浸して10分程放置。
  2. 昆布をふやかした鍋に、水切りした大豆の水煮を入れ、大豆の表面がしっかり水に隠れる程度に水を足す。 中火にかける。(蓋はしない。)
  3. 沸騰したら砂糖を一度に加え、とろ火に弱めて、蓋をせずそのまんまひたすら煮る。 途中でかきまぜる必要はない。 心配だったら時々鍋を揺する程度で十分。
  4. 一時間弱煮たら鍋の中を確認し、煮汁が少なくなって「水あめ」のようになるまで、鍋を揺すりながら煮詰める。 細かな泡がぶわーっと上がって来るので、時々鍋を火から遠ざけて煮汁の具合を確認すること。
  5. 仕上げに醤油を加えて、ひと煮立ちさせたら火から下ろす。 鍋に入れたまま室温まで冷ました後で器に移す。

大豆の水煮缶はそのままだとかなり軟らかいが、時間をかけて砂糖の高張液で炊いてゆくうちに、だんだんと余分な水分が抜けて、シコシコと歯ごたえのある大豆に戻ってゆく。 次の日以降になれば尚更で、そこが魅力。 大豆本来の味も濃縮されて、市販のものよりは数段美味しく出来るような気がするが・・まあ、「煮た大豆が好きでない者」のセリフなので、あまり説得力がないかもしれない。 (大豆好きな方がいらしたら、是非お試しいただいて、感想をお知らせください。) 少なくとも「煮た大豆が好きでない者」でも、美味しく食べられたことだけは保証します。

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2009.02.18

おまけ

夕方、うぐいすの初鳴きを聞く。

まだ弱々しくか細い鳴き声。 その上、正規の「♪ほ~ほけきょ」ではなく、「ほっ・・・ほけきょけきょ」、と、変なおまけ付き。 ああ春だなあ、と、思いつつ、気持ちの半分でズッコケる。

これからたくさんの仲間や先輩の鳴き声を聞きながら、鳴き方を覚えてゆくんだろうな。 がんばれー!、と、応援したい気持ちになった。 春は様々な初心者がデビューする季節だ。 長い目を持つことを自分に銘じておこう。

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2009.02.17

予想外

久しぶりに寒くなると聞いていたので防寒対策をして就寝したが、まさか雪が積もるとは思っていなかった。 びっくりして、あっという間に目が覚めた。 しかも、まだチラチラと降り続いている。 積雪は3cmくらいか。 初雪にしては立派な銀世界である。

このところ暖かい陽気が続いていたので、寒さが身に沁みる。 本来の2月の気温を体がすっかり忘れてしまったようだ。 たくさん飛散していると思われる花粉が、この雪の湿気で落ち着いてくれるとありがたいのだが。

いくつか使い分けしている花粉症の薬。 内服薬のひとつが、いつの間にか「普通の市販薬」から「医師の処方がないと購入できない薬」に格上げされていたことを知る。 ありゃりゃ不便になっちゃったなあ、と、調べてみたら、どうやら飲酒の後で大量に服用して自殺の手段に使ったケースが続いたらしく、購買管理が厳しくされたらしい。 折も折、中川財政相の例の「G7へろんへろん記者会見」の件もあり、まったくもう!余計なことをしてくれちゃて!!、と、がっかりする。

アルコールを摂取して薬を飲むことはとても危険だと、しっかり自覚したほうがいい。 薬を使わなければならないような症状や体調ならば、お酒は飲んではいけないし、逆にお酒を飲めるくらいならば薬は使わなくても大丈夫な筈だ。 安易に薬効に期待ばかりしてはならない。 どんな薬にも、必ず副作用は存在する。 そのリスクを背負ってでも薬効に期待しなくてはならない場合にだけ、薬を使うべきだろう。

市販薬の副作用が出たことで一生棒に振るケースだってある。 それは「積雪がきれいだ」などと言っているのとは訳が違って、単に「予想外」では済まされない。 市販薬を飲んだのは自分の意志で決定したことであり、ほとんどの市販薬は「服薬上の注意」に「アルコールを飲まないこと」、と、しっかり謳っているからである。 

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2009.02.12

日常のひとこま

まだ二月だというのに変に暖かい。 洗濯した枕カバーや大型のバスタオルもからりと乾いて、気分が軽くなる。

義父はなんだか「うすぼんやり」している感じで、このところ言葉数もめっきり少なくなった。 ちょっとこちらが別のことをしていると、すぐにウトウトとまどろみに入ってゆく。 体の活動だけではなくて、精神活動の方も低調になってゆくものなんだなあ、と、思う。 興味とか関心とか、拘りとか「気にする」とか、もうそんなものは彼にとってはどうでもいいみたいだ。 与えられるものを食べ、促されたことをして、逆にそれ以外のことは「面倒くさい」か「分からない」。 生きること自体が、既に疲れることの領域なのかも知れない。

とは言え、不幸な日々かというとそうでもないらしく、義父の話を総合的に判断すると、最近は夢の中に、自分が子供時代に周りに居た人達が頻回に登場しているらしい。 私達が「そういう方が居た」ということしか聞いたことがないような遠い親戚だとか、聞いても誰だか分らないような友人とか。 当然の如くほとんどが既に帰天なさっている方々ばかりだが、義父の話では完璧に時間軸が「今、現在形」になっていて、「昨日もさっきも来た」とか「久しぶりなんだよな」とか「そこに居るじゃない」とか・・。 以前に玄侑宗久さんの本の中で、「死に徐々に近づく人はあちらの世とこちらの世を行ったり来たりする機会が増え、やがてその区別がつかなくなることで、死の恐怖を覚えずに済むようになっている」、というような内容を読んだ覚えがあるが、まさにそのような感じなのかも知れないな、と、義父を見ていて思い出す。 「何か心配なことはある?」、と聞くと、「何にもないよ」と笑って、懐かしい人たちとの再会を楽しんでいるようなので、それが夢だと知らせることもせず、逢ったと言われても否定せずにいる。 私には見えないというだけで、本当に逢っているのかもしれないのだし。 うーん、分らないというか、不思議だ。

今日は湿度も低かったので、ようやくお雛様を出してきて飾った。 髪を切りに行く予約もして、私も少しずつ冬を終わらせる準備を進めてゆきたいと思っている。

 名残冷え 集めて白き 雛の頬     (リ。) 

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2009.02.10

会社名

「円天」で社長が逮捕され、ニュースですっかり聞き慣れた『L&G』が、『Ladies and Gentlemen』 を、略したものだったと知って大ウケしてしまった。 そう来ますか・・凄い名前付けたものだな。

もののついでに、サプリメントや化粧品で人気のある『DHC』は、昔は『大学(D)翻訳(H)センター(C)』だったことを、急に思い出す。 いえ、何を扱ってご商売なさろうと構わないんですが。

会社の名前はちゃんと調べたら、変わった由来のものがたくさん見つかりそうだ。

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2009.02.09

ボーっとしつつも「14歳からの社会学」

このところ俄かに「どこそこに旅行に行くけど一緒にどう?」とか、「ランチ会をやろうと思うけど・・」とか、「近くまで行くので、ついでに会えない?」といった連絡が続き、周囲がもぞもぞ動きだしている。 春なんだな、と、思う。 特にちょっとお歳のいった方々は、何かと言えば「暖かくなったらね」を合言葉のようにしていたから、春が待ち切れないみたいだ。

私の所にも風物詩と化している花粉症がちゃんとやって来て、春の訪れを教えてくれた。 これから当分は「ぐっすんな日々」が続く。 そろそろ髪も切りたいし、お雛様も出してあげなくては、などと、気持ちだけは焦っているのに、体が付いてこないようなアンバランスな感覚・・これも私にとっては立派な春らしさの一つだ。 ぼんやりしているのは花粉症のせいだけではないような気がする。 なんと言っても「リーボーのボーはぼーっとしているのボー」なので。 事故がないようにだけ、気をつけないと、な。

良く売れているらしい「14歳からの社会学」を読んだ。 易しい言葉で、難しい内容が書いてある。 これでも一応は学生時代に社会学の単位を取った筈なのだが、「そうか、社会学ってこういうことをやっている学問だったのか!」、と、ある意味において目から鱗。 情け無や。 昨年、このブログにアップした『論点が違うのではないか』という記事内容なんて、社会学の考え方を以てすれば簡単に説明できてしまうのであった。 混沌とした時代だからこそ、社会学の「ものの捉え方」は色々なことを説明できそうだ。 14歳には難しい本だとは思うが、今は理解できなくても「ああ、そう言えばあんなことを書いていた本があったような・・」と、大人になる過程でいつか必ず思い出す時が来るような、そんな本。 大人の私が読むと、「こういうことを前もって言ってくれていたら良かったのになあ」、と、なる。 生きている限り、遅すぎるということはないだろう。 大人になりかけている人達と大人の人達、どちらにも読んでいただきたい。

● 「14歳からの社会学 ~これからの社会を生きる君に~」 宮台真司著 世界文化社 初版2008年11月 1300円

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2009.02.03

ほだされて

東京で育った私にとって「恵方巻きのかぶりつき」という節分行事は馴染みがなく、異文化の域を脱していない感覚である。 ここ数年で凄い勢いを以て勢力を拡大し、今ではどこもかしこも「恵方巻き売り込み合戦」で、今朝の新聞に折り込まれていた近隣のスーパーのチラシも、ことごとく恵方巻き一押し状態。

別に気に入らない行事という訳でもないが、家族がそれぞれに太巻きを一本ずつ抱えて、同じ方向を向いて一言も喋らずにただひたすらモグモグ食べる光景なんて、どうも漫画チックに思えて仕方がなく、やったことは無いけれど実際にやったら絶対に可笑しくて吹き出してしまう自信がある。 どうも私の感覚では神聖さに欠けるのだ。 節分であっても、この歳になって子供もいなければ、実際に豆撒きすることもなく、せいぜいイワシの丸干しが食卓に登場するくらいのものである。

そろそろ昼食の準備にかかろうかと思いつつ、天気概況でもやっていないかと点けたテレビで料理を作っていて、それが「太巻き寿司」だった。 節分なので恵方巻きに、という意図だろう。 ものの5分程ぼんやり見ていたら、「そう言えば最近巻き寿司を作っていないな」、「海苔はあるな。 酢飯は冷凍ご飯で足りるな。 具に使うもの、何か持ってたっけ?」、「干し椎茸はあるし、キュウリは無いけど茹でたホウレンソウで代用すればいいし。 卵焼きは焼けばできるな」、「カニかまぼこがあるから、レタスと一緒にサラダ巻きもできるな」、「なんだ作れるじゃん」、「じゃ、そういうことで!」、と、いつの間にかお昼ご飯に急遽太巻きを作る段取りが頭の中で整ってしまった。

実際に作り始めれば、後は早い。 30分後には太巻き寿司が3本、ゴロンと出来上がっていた。 昨夜の鍋もののスープの残りをベースに、白菜や里芋、蕪なんかを煮込んで即席のけんちん汁に。 ちょっと蛋白質が足りないのでおまけにプレーンヨーグルトも食卓に並べる。

迷ったれど、太巻きはいつも通り切り分けて盛りつけた。 やっぱりこれにかぶりつくのは、どうも抵抗がある。 ほだされて作ったのは間違いなくても、久しぶりに太巻き寿司を食べたことには満足だった。 気持ちの上で福を巻き込んで作ったから、それで善しとしよう。 縁はこちらの意図に関係なく繋がったり切れたりするもののように思われるので、太巻きを切ったくらいでは影響も無いに違いない。

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2009.02.02

ん?

某商店街の片隅に置かれていたタバコの自販機に、いかにも「お年寄りの店主が、同じくお年寄りの利用客の為に書きました」という感じの手書き文字の紙が貼り付けてあった。

1お金を入れる→2タポスをかざす→3たばこを選ぶ

一度通り過ぎてから、「ん?」、思わず引き返す。

こういうのに出会うのも街歩きの楽しみの内。 静岡市清水区にて。

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2009.02.01

書くこと

荒んだように見えるこの世の中にいながら、私の使う日本語が穏やかであるように、そのためのタフさを維持するのは、なかなか大変なこと。

自分を試すように鍛えるように、blogと向き合っている。

今日やっとそのことに気付いた。

・・当たり前だが、実際に出来るかどうかは、また別問題だ。(、なんて言って逃げてる奴。)

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