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2009.02.25

塵(ちり)

キリスト教では今日は「灰の水曜日」と呼ばれる特別な日。 (ここでは詳しい説明をすることは避けるので、興味がおありの方はウィキでも読んでいただくこととして・・。) この日のミサでは、儀式を仕切る司祭(神父)が、祝別した特別な灰を参列者に授ける。 木の枝を燃やして予め作っておいた本物の白い灰だ。 授けるといっても、紙に包んで渡したりするのではなくて、灰に指を突っ込んでからその指で参列者の額に十字のしるしを描くか、または、2本の指で摘まんだ灰を頭の上にパラパラと降りかけるかのどちらかである。

で、灰を受けながら各自はこう語られる。 「あなたは塵であり、塵に帰ってゆくのです。(塵に戻るのです、と言われたこともあった。)」

まあ宗教的意味はさて置き、私はこの一文が大好きだ。 ミサの中で使われる言葉は本当に多種多様に亘るが、一年に一度これを言われる時、自分が本当に心の底からホッとするのが判る。

だって「塵」ですよ、塵。 言うなれば、「お前なんか、なんぼのもんじゃい!」ってトコだろうか。

自分に能力があるとか知識があるとか、そんなことを思って自惚れているわけではないにしても、生きている毎日の中でいろいろな役割を期待されたりしている内に、どうしても自分自身にプレッシャーを与えていることは多い気がする。 で、挙句の果てに「なんで上手くできないんだろう」、とか、「もっとあんな風にするべきだった」、などと思ったりもする。 それは自分自身の進歩の為であると同時に、重圧にも成り得るもので、なかなか扱いが難しい。 意識していないのに、いつの間にか肩に力が入って「がんばっちゃっている」状態になっていることも多い。

そんな中で「あんたなんて、たかが塵。」、と、言われると、一気に肩の荷が下りる気持ちになる。 「そうじゃん、たかが塵の塊なんだから、すぐに出来なくったって当たり前なんだし、そんなに期待されているわけでもないんだし、自分ができることなんてどうせ微々たるものだし・・。」 そして、儚い存在であることをとても幸せに感じる。 儚い塵だからこそ、誰かの助けが必要で周囲の力に支えてもらい、それを素直にありがたく受け取ることが出来る。 一度謙虚にオール・クリアして、改めて気楽に始める・・私にとってはその呪文のような言葉だ。

「大きな力の持ち主」がふっと吹き飛ばせば、すぐにでも塵に戻ってしまう身。 自分に対しても謙虚でいたい。

 

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