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2009.05.31

お寺さん

法事(仏教なので回忌法要と呼ぶのだろうか)に行ってきた。 客観的に参列するというよりは、もう少し内部的な、半分はおもてなしの役目といった立場だ。 東京なので地方都市よりはあっさりしているが、それでもそれなりになんだかんだと・・。 まあ若い年齢層の人たちは仕事で忙しいので、実質的にはそれぞれの家族の中のお年寄りが代表として出席している感じで、雰囲気も独特だ。 菩提寺サイドもその辺りは対応に手慣れているようで、例えば御本堂内が和風の椅子席だったり、ちょっとしたバリアフリーの設計がなされているし、ご住職のお話もはっきりと大きな声で聞き取りやすい。 法要自体がゆっくりと余裕を持って進行してゆく。

残念ながら細くて柔らかい雨が降ったり止んだりしていたので、お墓に参拝するにも傘が必要だったのだが、港区という東京のど真ん中にありながらどこかしっとりとしたお参りになって、逆に良い意味での印象が深かった。 やはり祈りの時間と空間には、ある程度「脱日常的」な落ち着いた雰囲気が相応しい。

今回は十三回忌だった。 参列者のことを考えると、多分もう回忌法要はできないんじゃないかとのこと・・。 今回も病気があったり体調が悪かったり歩けなかったりして、出てこられない方がたくさんおられたようだ。 卒塔婆代やお仏前を送ってくださった方には、それなりのお返しを手配しなくてはならないので、参列してくださった方への対応とは別に、もう一つ別の仕事になる。 施主はその辺りの二度手間も精神的に負担なようだった。 施主自体ももうそれなりの「お年寄り」なので、自分の能力が落ちてきたことの自覚があるし、それを子供たちの代に、全てそのまんま受け継がせる必要もないと考えているようだった。

法要が終わってから、ご住職と個人的に少し話をさせていただいた。 若い人たちにお寺を身近に感じてもらおうと「座禅の会」や「写経の会」を開いてみたり、地域のフリーマーケットに駐車場を提供したり、大晦日には一般の方々にも除夜の鐘をついてもらったり、いろいろと工夫なさっておいでのご様子だ。 「それでもねえ、やっぱり難しいですよ。 そんな簡単には仏さんのお話は聞いてくれませんよ。 毎日のことに必死の世の中ですからね、無理もないですよ、分かりますよその気持ちは。」だそうだ。 門前の小さな掲示板のような場所にも、「なんとか自殺を踏みとどまってもらいたい」との思いから、命の大切さをダイレクトに書く機会が増えていると、お話してくださった。 「拝まなくたって仕方ないですから、せめて生きていてください、死なないでくださいって、もはやそういうレベルの話ですね。 あなた自身の中に仏様もおいでだし、お先祖さま方もおいでなんですよ、決して一人ぼっちで生きているわけじゃないんですよと、お伝えしたいんですけれども。」 

祈りの気持ちは変わらなくても、その形態は時代によって少しずつ変化してゆく。 変化せざるを得ないのだろうとも思う。 本質を変えずに時代のニーズにどう応えるのか、宗教の難しさはその辺りにあるのかも知れない。

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2009.05.28

きっとセンスが無いんだと思う

ニュースを見聞きするにつけ継続的に気になっていた「裁判における精神鑑定」というものの存在・・とりあえずとっかかりが欲しくて本を読んでみる。 実際に鑑定医として800件以上の精神鑑定を行った著者の書いた「罪と罰と精神鑑定」という本だ。

何をやっているのか、その結果が裁判の過程においてどのような位置付けで使われるのかについては、とりあえず理解できた。 しかしながら、読み終わってもなお、いや、尚更にブラック・ボックスが深まってしまって、頭を抱えたくなった。

本来、科学における客観性というものは、「同じ実験を同じ条件で同じやり方で行った場合、必ず同じ結果になる」ということだった筈だが、「同じ被告人に精神鑑定をしても、全く違う結果が出る」ことを「客観性がある」とは言えないだろうし、それを証拠として採用するかしないかも裁判官に任せられているとなれば、何を基準に何を調べているのかの根源がぐらぐらで、風に吹かれて水面を移動する浮き草のように感じられてならない。 そもそも精神医学は科学に含めてしまって良いのだろうか、という疑問にも突き当たる。

折しも裁判員制度が導入されたばかり。 うーん・・。 「まあ法律も裁判も科学じゃないんだし、人間の作り上げた社会システムは多かれ少なかれそういうものだよね。」という開き直りで納得するしかないか。 それ以前の問題として、どうも自分には人文系の分野の概略を理解するためのセンスが足りないのが、とほほである。

●「罪と罰と精神鑑定 『心の闇』をどう裁くか」 影山任佐著 集英社インターナショナル 1365円 初版2009年4月

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2009.05.25

「一粒で二度美味しい」?

スナップエンドウを下茹でしようと思って背中の筋の部分からふたつにぱっくりと開いたら、中の豆がつやつやと色具合も鮮やかに並んでいた。 いくつか見ている内に、「豆は豆として食べても美味しいだろうな」などという考えが頭に浮かんできて、それでは・・と早速試してみることに。

スナップエンドウの筋を取りながら鞘をふたつに開いて、中に収まっている豆を取り出し、豆と鞘に分ける。 鞘は塩少々を加えた湯でさっと茹でて、適当に刻んでから「胡麻和え」に。 で、豆は「豆ご飯」に。 最近は豆に皺がよるのを嫌がって、別に煮てからご飯と合わせるのも流行っているらしいが、私は炊き込みご飯なら素材の香りや味がご飯にしみ込むところに価値があると思っているので、オーソドックスに最初から一度に炊く。 お米2合を研いで、炊飯器に普段の分量の水を入れて吸水させておく。 豆は荒塩少々で揉み10分放置。 その後塩を洗い流して、新たな塩小さじ1と酒大匙と共に炊飯器へ。 いつも通りに炊き上げ、スイッチが切れたら更に酒大さじ1を振って、いつも通りに蒸らして出来上がり。 俗にグリーンピースとして売られているものよりも、豆の甘みが強くて青臭さは少ない印象だった。 白状すると実は私、グリーンピースはあまり好きではないのだが、これならば美味しく食べられる、と、思った。

体(てい)の良い「使い回し」・・これはこれで二度楽しめて良いかも。

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2009.05.22

やるべきこと

気になっていた電子レンジの庫内掃除をして、気分がさっぱりする。 結構汚れていたんだな、と、改めて思った。 加熱最中にたまにバチンと音がして、素材が跳ねてしまっていると気づくことはあったものの、予想以上に天井部分にまで汚れが付着していて少々反省。 これからはもうちょっと小まめに掃除しよう。

じめじめした季節を迎える前にしておかなくてはならないことは、なんだかんだとたくさんある。

テレビのニュース番組は、最近どこでも「新インフルエンザ関連の話題」がトップの扱いだ。 神戸の映像で画面に映りこんでいる全ての人がマスクをしている姿に、異様なものを強く感じた。 一応書いておくが、医学的見地では、マスクは自分の持っているウィルスや細菌などを他に撒き散らかさないという意味はあるけれど、外部にあるそれらを貰わないことには役立たない。(ここの記事、よくまとまっています。) 外から貰わない目的を達成するためには、俗に言う「防毒マスク」みたいな型と構造でなければ。 つまり、罹った人はマスクをする意味があるのに対し、罹っていない人には意味が少ない。 あんまりにもマスクに拘るのは、おかしな話だという気がする。 まあせいぜい「意識の上で。」という所なのだろうが。 それに対し、手洗いはマスクより相当有意義。 せっせと洗いまひょ!

もともと人の体表面や消化管内部(ついでに女性の場合には膣にも。)には、うようよと色々な菌が付着していて、四六時中それらの陣取り合戦が繰り広げられている。 そうした動的均衡の中で、より問題になるような菌を寄せ付けずにいるだけのことだ。 動的均衡の状態は、免疫機能にも大きく関わっていることが分かっている。 新しいウィルスはありがたいことに、今のところはあまり病原性が高くないようだ。 特別扱いして怖がるのではなく、これを良い機会として生活習慣を見直したり、自分の身につけている細菌などの動的状態をより良くするための工夫をしたら意味があるのではないか。

多分近い将来に、もっとシビアな状況が訪れるだろう。 できることからやってゆくしかない。

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2009.05.21

ウズラの卵を見ながら

久しぶりにウズラの卵を買ってきた。 鶏卵ひとパック買ってしまったら余りそうだし、冷蔵庫の手持ち分だけでは心細いし・・6個入りパックとかばら売りという選択肢もあるな・・などと考えていたら、ふとウズラの卵が目に付いたのだった。 早速茹でて皮を剥く。 つるんとした感じも懐かしい。 この小さくまとまったコンパクトさが、可愛らしさの要点だろう。

ウズラの卵が可愛いと思うのは、普段使っている鶏卵と無意識のうちに比較しているからであって、例えば、普段ダチョウの卵を使い慣れていたなら、鶏卵だって十分に可愛い筈だ。 そんな風に思うと「可愛いらしさ」が持つ曖昧さがよく分かる。(例の日本平動物園で種々の鳥類の卵が展示されているのを見たので、ついついそんなことを考える。)

審美眼という言葉があるが、最近「審企画眼」とか「審集団眼」みたいなものもあるな、と、思う機会があった。 企画を考える時に実行できそうか・継続できそうかを把握して、その障害となり得る部分を見定た上で修正できたり、ある種の集団を動かそうとする際に遠くから全体を見渡すような、そんな能力。 そこがブレていると物事は上手く進まない。 かといって、そこばっかり何人もいたら「船頭多く・・」になってしまうのは一目瞭然で、話は結局、それぞれの役割で必要とされている頭数が違うということに繋がってゆく。 現場の人数が揃わなければ、どんなに良い企画であっても実行できないのも然り。

ウズラの卵でオムレツを作ろうとしたら、いったい何個割らなければならないだろうか。 適・不適というのは、物でも人間でも必ず存在している。

それでも根気強く割り続ければ、ウズラの卵でオムレツを作ることは可能だ。 同様に比較的「審企画眼」や「審集団眼」を持っている人がそれを努力して磨くことで、その役割を担うことができるようになる場合も多々あるように思うし、(小規模な集団の場合は)みんなで持ち寄ればそこそこの意思統一の元、集団としてその能力を持つことも可能になるような気がする。(実際はかなりの時間と労力が必要とされるだろうが。) 

とある女優さんが「中華丼にウズラの卵が乗っていなかったら、かなりがっかりします」、と、言っていたのを思い出した。 可愛いことと存在感は反しないのも、また興味深い。 大きさと能力の出力は一致しないのと同じことか。

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2009.05.18

山頂の爬虫類館

● 日本平動物園へ行く機会があった。 動物園はウン十年振り。(水族館は大好きなのでそこそこ行くのだが。) いかにも「昔からやってます」という感じで、どことなくノスタルジックな香り漂う懐かしい雰囲気だった。 ミミズクが白内障になっており、目はほとんど見えていないらしいが、聴覚が発達しているので生活は自立しているとの解説があったり、アリクイが「足のけがの治療中」とのことでまっ白い包帯を巻いていたり・・。 動物たちも色々とあるのだろうな、などとちょっとしんみりする。

● 「なんだかどこからか鯖臭い匂いがする」と、思って近付くと、そこはペンギンのブースで、餌として鯖を貰っているとの解説に納得。 隣のアザラシは鯵だそうだが、そちらは匂わなかった。 鯖、強し。

● 車道を挟んだ向こうの隣山の山頂に爬虫類館がポツンと建てられていて、晴れていれば「動く椅子」のような施設で移動できるのだが、生憎の小雨模様で操業を停止されており、テクテクと山登りを強いられる。 ちなみに「動く椅子」は別料金。 何故にわざわざ山頂に爬虫類館?? 市街地や海まで見渡せてなかなか気分の良い場所ではあったものの、蛇や亀やワニ・カメレオンなどの唐突さに圧倒されて、不可思議な印象が強く残る。 ワニは微動だにせず、作り物のようでお見事。

● 某乳業メーカー協賛で、地元歯科医師会が「無料乳幼児歯科検診」みたいなものを、動物園内の管理棟でやっていた模様なのだが、雨のせいか入園者自体がまばらで、果たしてどれだけの参加者が集まったのか、他人事ながら心配になる。 帰ろうとしたら、屋根付きベンチでスーツを着た歯科医師2名が男同士でお弁当を食べていた。 隣りのベンチには乳業会社の女性2名が。 一緒に食べればいいのに、とか、動物園で大人がスーツ姿でお弁当という不釣り合いさとか、気になってしまう。 お仕事ご苦労様です・・。

● 幼児を連れた両親と祖父という組み合わせに見えるご家族。 サイのブースに向かって歩きながら、おじいちゃんが孫に大声で、「ホラ、象だ! あれは象だらぁ!(静岡弁で『だらぁ』は『だよ』の意味)」と言っている。 両親は他人のふり。 思わず代わりにツッコミしてあげなくてはいけないような気分に襲われて困った。 おじいちゃん、それは象じゃなくてサイです。 

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2009.05.12

風は緑色

この時期は風が緑色をしている。 夏のむっとするような「草いきれ」ではなく、もっと穏やかな清々しい印象の香り。 庭の片隅の恒例の場所に青紫蘇の幼葉が芽生えてきたので、周囲に蔓延っている雑草を抜いて「えこひいき」。 また今年もわんさか茂って食卓を楽しませてくれることを期待する。

しばらく前、父が施設の介護ヘルパーさんと喧嘩したというので、何が起きたかと思って詳しく聞いてみると、「ちょっと感情的な言い方をした」という程度のものであったらしく、相手のヘルパーさんはそんな風に感じていなかったようだ。 感情を露出できるくらいに、ヘルパーさんにも心を開くことができるようになったかと、逆にちょっと安心するような気持ちになってしまった。 思うようにならない身体・言葉・思考を抱え、父だってイライラする時は当然のようにある筈で、周囲の者はそれを軽減したり受け止めたりするのが役割のような部分も否めない。 プロとはいえ、赤の他人にしてそれを平然とやってのける介護ヘルパーさん達には、本当に頭が下がる思いがする。 彼らは「いえいえ、他人だからできるんですよ。」なんて言ってくれるけれど。

日の暮れる頃「歩き&軽い走り」で汗を流すと、緑色が肺の中から入ってきて体中に広がってゆくような気分になる。 単に老廃物のみならず、心の中の灰汁とか毒のようなものまで押し流してくれるような気がして。

田んぼに植えられたばかりの稲の苗のようにホヨホヨと風に吹かれながら、色々なことを断片的に考えたり想ったりしている。 無理に結論に繋げようとせずに、そんまんま考える過程も風任せにホヨホヨとさせておくのが、また快感だったり。 繋がるものはそのうち勝手に繋がってどこかに落ち着くだろうし、どっかに行ってしまったとしても、それはそれ。Cocolog_oekaki_2009_05_12_21_33  

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2009.05.08

月光天文台へ

しばらく前に静岡県下の函南町にある「月光天文台」に行った。 ずっと気になりつつも、なかなか訪れる機会が無かった場所のひとつ。 広い畑が広がる丘陵地の高台に突如現れるドーム型天井を持つ白い建物・・ちょっと不思議な印象すら受ける。

小さいながらも立派なプラネタリウムがあり、7月に起こるという皆既日食についての特集と、現在の星空について上映を見ることができた。 入り口でチケットをちぎってくれた方も、上映する方も解説アナウンスをしてくれている方も全て同一人物という、言うなれば「完全ワンマン上映」であることにも、ちょっとびっくりさせられるが、こんな規模でこんな立派なプラネタリウム上映をしていること自体が既に驚きなので、何があっても納得してしまうような気分になっていた。

(隣のオジサンの寝息が気になったものの)子供のころ以来のプラネタリウムに感動しつつ、続いて別の建物へ移動。 観測に利用する大型望遠鏡や展示室で展開されていた「世界の暦展」を見学する。 驚くべきことに職員(学術員)の方が付きっきりになってひとつひとつ解説してくださる。 当然ながら昼間なので星を覗くことはできないが、太陽を映し出して「黒点が少ない様子」を実際に見せてくださった。 夜は夜で定期的に観測会が行われているとのこと。 良いなあ。

さらに別棟の「地学資料館」。 これがまたとてもコアな感じで良い。 展示品のひとつひとつは(私のように無学の者にとっては)大変に地味な、化石だったり鉱石だったりなのだけれど、こちらも付きっきりの解説のおかげで、目の前の化石の何が凄いのか、この鉱物の見どころは何なのか、「この展示品」と「さっきのあの展示品」はどういう関係なのか、導くように教えていただけるのである。 生物の進化、地球の変化、果ては古代生物の研究が近代建築物に活用されていることなど、ありとあらゆる内容を網羅していて、「地学ってこういうことをやる学問だったのか!」、と、目から鱗の思いだった。(「社会学」にしてもそうだったが、最近学問について再認識させられる機会が多い気がする。)

多分地域の子供たちの団体見学などで、学術員の方々の解説は百戦錬磨なのだろう。  大人になってからこのような詳しい解説を受けられるとは思っていなかったので、テレビ等のサイエンス番組や本で見てきた種々の知識の断片が、次々に頭の中で繋がってゆく感覚が、とても新鮮だった。 さっと一通り眺めただけでは、あっという間に記憶から薄れてしまうが、自分の持っていたほかの記憶と繋がることで点が線になると、その記憶と印象は深い場所に刻まれてゆくのが分かる。

最近は町歩きや美術館、歌舞伎の上演などでも、ボランティアや専門家の解説を受けることができるようになってきた。 時間が許されるのならちょっとお金を払ってでも、私は利用したい。(ちなみに「月光天文台」での解説は無料、と、いうか、入場料に含まれていたと考えればいいのか、ともかく別料金は発生しなかった。) コアな知識を持つ方々に日頃抱いていた疑問を投げかけてみたりするのも、大人としては、また数少ない貴重な機会だと思う。

「長い地球の歴史の中では、一種類の生物ばかりが繁栄し続けるというのは、とても異常なことなんですよ。」、という、学術員さんの言葉が、一番印象的だった。 だからこそ、こんな風に小さなウィルスのアタックで命を脅かされ、またそれを恐れているんだろうな。

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2009.05.06

余裕の累積

このGWは静かに落ち着いて過ごしていた。 読みたかった続きものの本をじっくり読んだり、生のタケノコを下ごしらえしたり、庭の生えてきたフキを摘み取ったり、友人たちと連絡をとったり、建物中の照明器具を片っ端から掃除したり・・「なんでもないこと」でありながら「時間のかかること」をわざと選んだような気もする。

現在の我が家では会社員は居ないので、自分の時間は自分で管理することができるが、それでも社会と繋がっている以上は必ず相手方の都合を無視できない。 GWは広い範囲で社会が休んでいるのでこちらも影響を受けずに済み、結果としていつもに比べて、より自由に自分の時間を管理することができる。 ましてや、お休みの日には観光客が流入してくる観光地に暮らしているので、「どうせ道路も混んでいるのだし」、と、はなから諦めて家で「おこもり」することにしていたから余計だ。

ペースを乱されることもなく時間を使いながら、気持ちの余裕というのは大切だなあ、と、思った。 感受性も変われば、自分の考えも、使う言葉も口調も違ってくる。 空の見上げ方も、食卓に上がるメニューも、眠りも違う。 ついでにいろいろと考えを巡らすようになる。 相手を思うようになる。

小さな差であっても、毎日の累積となれば大きい筈。 人生ウン十年としたら、その差は・・。 多分、漠然と一般に比較したなら、これでも普段から余裕を「ぶっこいている」生活なのだとは思うのだけれど、それでもこの違いだ。 余裕の貯金ができたらいいんだけどなあ。

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2009.05.01

ふがいないとか、不本意とか。

いつも使っている基礎化粧品の会社から、宅配便が届けられた。 注文した覚えもなくて、おや?、と、思いつつ、箱に貼り付けてある伝票を見ると、どうやら先月注文した際、プレゼントのキャンペーンに自動エントリーされていたらしく、本人の希望のないまま当選してしまったらしい。 無欲の勝利とはこういうことを言うのか。 ちょっと面倒だなと思った反面、まあ普段利用している会社の商品なら何が当たっても困ることはないか、と、考え直して、開封することに。

当たったのはビスケットが二箱。 それも、ダイエット補助食品と呼ぶのだろうか、去年あたりからよく見かけるようになった、「食べ応えのある腹持ちの良いビスケットで、飲み物と一緒に摂ってそれを一食とし、後の二食は普通通りに食べても、一日の合計摂取カロリーは少なくなるので、結果としてダイエットになる」という商品。 (ご存知の方もおられると思うが)私は痩せすぎなので、こういった商品とは無縁の生活で今まで一度も購入したことがなかった。 物珍しさも手伝って、どんなものなのかと興味津々。

とりあえずひと袋、早速夜中に食べてみた『ますたあ』が、「確かにお腹はいっぱいになる感じ」、と、効果の程を驚いていた。 私も朝ご飯として試してみる。 折角だからノン・カロリーの紅茶で、と、思ったが、箱を読むと鉄分も添加してあるらしいので牛乳をお伴に。 小袋に6枚入っていて99kcalだそうだ。 かなりのハード具合で、よく言えば噛み応えがあるし、悪く言えばビスケットより乾パンに近い。 ココアの風味で味と香りはまあまあ。 そんなに美味しくはないが、不味くもない。 ふーん、と、思いながらカリカリ・・。 なんだかドライタイプのペットフードを与えられているような気分になったのは何故だろう。

確かに胃の中でぐぐっと膨張する感覚があって、空腹感は消えた。 が、慣れていないせいだろうか、何か気持の上でしっくりこない感じ。 食事をしたという気持ちではない。 おやつでもないんだけど。 変な感じだ。 「ふがいない」とか「不本意だ」とか、そんな言葉が浮かんできた。

熱量制限食についてはそこそこ勉強して、実際に作ったりもしているけれど、同じ熱量でも使う素材や調理方法によって、食べられる「かさ(嵩)」には大きな差が出る。 熱量の少ない素材はたっぷり使えるし、その逆も当然あり得る。 それらを組み合わせたり、他と入れ替えたりしながら工夫するのだ。 確かに簡単で特別な工夫も必要なく食べられて低エネルギーでなおかつ満腹感が得られれば、それはそれで商品価値はあるだろうが、気持ちの満足感というのはまた別に存在しているものなんだなあ、と、つくづく思った。

このふがいなさは、しこたま深酒した後で空腹を覚えてラーメンを食べようとしたのに、ひと口食べたらウッと詰まってしまった時のものと、ちょっと似ている気がする。 このクッキーは『ますたあ』に任せて、私は、明日の朝はやっぱり普通の朝ご飯に戻すことにしたい。

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