ウズラの卵を見ながら
久しぶりにウズラの卵を買ってきた。 鶏卵ひとパック買ってしまったら余りそうだし、冷蔵庫の手持ち分だけでは心細いし・・6個入りパックとかばら売りという選択肢もあるな・・などと考えていたら、ふとウズラの卵が目に付いたのだった。 早速茹でて皮を剥く。 つるんとした感じも懐かしい。 この小さくまとまったコンパクトさが、可愛らしさの要点だろう。
ウズラの卵が可愛いと思うのは、普段使っている鶏卵と無意識のうちに比較しているからであって、例えば、普段ダチョウの卵を使い慣れていたなら、鶏卵だって十分に可愛い筈だ。 そんな風に思うと「可愛いらしさ」が持つ曖昧さがよく分かる。(例の日本平動物園で種々の鳥類の卵が展示されているのを見たので、ついついそんなことを考える。)
審美眼という言葉があるが、最近「審企画眼」とか「審集団眼」みたいなものもあるな、と、思う機会があった。 企画を考える時に実行できそうか・継続できそうかを把握して、その障害となり得る部分を見定た上で修正できたり、ある種の集団を動かそうとする際に遠くから全体を見渡すような、そんな能力。 そこがブレていると物事は上手く進まない。 かといって、そこばっかり何人もいたら「船頭多く・・」になってしまうのは一目瞭然で、話は結局、それぞれの役割で必要とされている頭数が違うということに繋がってゆく。 現場の人数が揃わなければ、どんなに良い企画であっても実行できないのも然り。
ウズラの卵でオムレツを作ろうとしたら、いったい何個割らなければならないだろうか。 適・不適というのは、物でも人間でも必ず存在している。
それでも根気強く割り続ければ、ウズラの卵でオムレツを作ることは可能だ。 同様に比較的「審企画眼」や「審集団眼」を持っている人がそれを努力して磨くことで、その役割を担うことができるようになる場合も多々あるように思うし、(小規模な集団の場合は)みんなで持ち寄ればそこそこの意思統一の元、集団としてその能力を持つことも可能になるような気がする。(実際はかなりの時間と労力が必要とされるだろうが。)
とある女優さんが「中華丼にウズラの卵が乗っていなかったら、かなりがっかりします」、と、言っていたのを思い出した。 可愛いことと存在感は反しないのも、また興味深い。 大きさと能力の出力は一致しないのと同じことか。
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