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2009.06.13

ご飯茶碗

かれこれ数年がかりで、自分の使うご飯茶碗を探している。 手元に置いて使っているものはいただきものの夫婦(めおと)茶碗の片方で、何故かはじめから焼き物としての「ゆう薬(うわぐすり)」がかけられておらず(男性用にはちゃんとかかっている)、だからと言って使っている間に絵柄が剥げるということもないのだが、なんとなく肌触りが滑らかでなくて気になるし、柄もサイケデリックな感じで自分の好みからは少々離れている。 送り主への感謝もあり、使えるものを活用しないのも嫌だったので使い続けてきたものの、ここ数年、生活をコンパクトにしたいと思うようになって以降、食器でも洋服でも身の回りの物は全て「数は少なくても気に入ったものだけ」を使いたいと考えるようになってきた。 それで、ご飯茶碗も探しているという具合である。

実際どこでも買えるような品なので行く先々のお店で覗いたり、ちょっと旅行に行けば現地の陶芸家の作品を覗いたり、骨董屋さんの店先を冷やかしたりもしている。 ところが、いまだにこれというご飯茶碗を見つけられないままだ。 割れてしまったのならば話は違うが、とりあえず使えるものを持っているので焦る必要もなく、新しく買うものに妥協する必要もない。 それが裏目に出てしまっているような気がする。 掌にご飯茶碗を包んでみて「可も無く不可も無く」なら買わない。 なにかぴんとくるような特別な感覚を待ち望んでいる。

どことなく納得しきれないような気分を抱えたまま食べているのは、毎日使っているご飯茶碗に対しても実は失礼なことなのではないか、などと思ったりもするけれど、なにせ一日何回も使うものなので、それを使うことが普通になってしまっており、品選びをしている時以外はさほどの不満も思いだせない。 まるで茶碗に「ほら、やっぱり私のところに帰ってきたでしょう?!」とでも言われている気分だ。 捻じれた変な情。

「離婚」を口にしてからもう何年も経過している、学生時代からの友人が居る。 御夫婦共に残念ながら愛情はほとんど感じられないのだそうだ。 「子供の為だけに結婚の形態を維持しているようなもの」、と、きっぱり言う。 帰るべき家に表面上の不安が無いことは子供の成育環境としては大事だろうと思う反面、御夫婦が「自分の人生はいったい何だったんだろうか」と後悔しないことを望むと、話を聞いているこちらとしてもやり切れない思いがする。 御夫婦双方とも表面上の現状維持に精一杯の様子だから、新しいパートナーを探すとか新たな出会いを求めるという状況ではないようだが、きっとそこにも「捻じれた変な情」が存在しているに違いない。

家庭の現状を維持すること自体が子供の為だとしたら、私も今使っているご飯茶碗を使い続けることに、自分にもよくわからない価値が潜んでいるのだろうか。

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