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2009.07.31

自信を持ってお薦めします

ビール好きなので何かと「御当地ものビール」を飲む機会に恵まれますが、多くは「可もなく不可も無く状態」の中、たまにスマッシュ・ヒットに出会うことができます。

ここのビール、今のところ3本の指に入ります。 久し振りにビールで感激しました。

近くに行かれる機会があれば、是非! (通販もあるようです。)

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2009.07.25

実はまだこちらは梅雨明け前

毎日ずっと雨続き。 降ったり止んだりしながらどよーんと湿気っぽい。 勘違いして廊下でのんびりくつろいでいるアマガエルを外に放す。 ええ、山の中に住んでいると、家の中でもたくさんの小動物に出会えます。 ほんのちょっとの隙間からいつの間にか入って来る、そのテクニックには、全く勝てる気がしない。 いちいち驚いてばかりいられないので、淡々と見つけたら殺すか外に出すかのどちらか。 こちらに危害を加えないもの、攻撃してこないものは、基本的に外に出すことにしている。

晴れを待ちくたびれて枕カバーを洗濯してしまったが、乾くのだろうか?

夏に旬を迎える野菜がだいぶ元気になってきて、毎日わさわさと食べている。 放牧されている牛や馬や、青虫の気持ちが、少しだけ分かるような気になる。 最近のヒットは実家の母が見つけてきた沖縄の「油味噌(あんだんすー)」という甘味噌。 切っただけのキュウリに乗せて食べると美味しい。 ご飯に乗せて食べるのもいいようだが、ちょっと甘すぎるので、唐辛子で辛さを加えてアレンジさせてもらっている。

ビールは言わば「あって当たり前」のお楽しみとして、それとは別にマイヤーズのホワイトを一本買ってきた。 思いっきり冷たくしてワンショットでクイッと呑むと、体の奥に残ったどんよりとした熱の塊が、さっと抜けてゆくのが分かる。 ホワイト・ラムだったら、私はマイヤーズが一番好き。 ええ、別に、たいていの物は美味しく呑みますけれど。

新潟からクール便で送られてきた枝豆、伯母が自宅の庭で作ったものだが、これが近年になく絶品でびっくりした。 品種の問題か、土か、気候か、手入れか、何が功を奏したか本人にも分からないそうだ。 どさくさに紛れて、私の茹で方も良かったということにさせてもらおう。 何もかも判ってしまうことばかりが良いこととは限らない気もする。 

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2009.07.22

書いちゃった

実は先週から父がまた入院生活を送っている。 恒例により肺炎だ。

こんな事を書くのもナニだが(百歩譲って元医療従事者ということでご勘弁願えるとありがたい)、人間というもの、最後は心臓の力だ。 まあ最初の一週間を過ぎれば急性期を乗り越えたと言える誤嚥(間違って食物や唾液や喀痰が肺へ送られてしまうこと)性の肺炎で、今回も心臓ががんばってくれたみたいだ。 こちらも少し気持ちが楽になる。

一方、またガックンと少なくなってしまったのは、語彙と一時記憶容量のようで・・はあ。 それもDay by day。 残念なことにもう会話は成立しない。 こちらが言うことは判る様子だが、それも「聞いた時点では」という条件付きで、あっという間に消え失せてしまう。 「快」を感じた時だけはケラケラと笑う。 老人は子供に戻ってゆくという誰かさんの言葉を思い出した。 赤ちゃんをあやしている感覚に共通する部分もあることを否めない。 脳の力が落ちると抑制も利かなくなるのか、我慢することができない。 その上、もじもじと自分が動かせる体の部分を使って、何とも理解に苦しむような不穏な動きを絶えずしているので、その内に偶然点滴のルートを引っ張ってしまったりするから、またじ悪い。 必要になったら最低限の抑制を最小限に行ってもらう旨の承諾はしていても、やっぱり見慣れたパジャマではなく抑制服を着させてもらっている父を見ればため息が出る。(完全看護で看護師達のレベルも低くなく、安易な理由で抑制するような病院で無いことは十分判っている。)

入院しているということは、イコール「信頼して任せている」ことな筈だが、それでもやっぱり色々と心が重い。 普段とはまた別の意味で「生きる」ことを考えさせられている気がする。 私は本当に言葉が悪い自覚を持つ上で書けば、人はなかなか死なせてもらえないものなのだな、と、思う。 それは「神様に」なのか、「社会に」なのか、「家族に」なのか?

ちょっと前、俳優の長門弘之さんが、妻の南田洋子さんのアルツハイマーという病名や介護の日々を赤裸々にマスメディアに語った。 その数週間後、うちで購読している新聞の投書欄に「奥様は病名を公にすることを望んでいるのだろうか。」という問題提起をした投書が掲載された。 残念ながら、現状として南田さんはその判断ができない状況下にある。 私はそれを読んで「うーん・・」と、しばらく唸った。 私もこのブログに、幾度となく父のことを書き、父は書かれることをどう思っているのか判断が付かない状況下、つまり長門さんと立場は一緒だ。 この話題には触れるべきではないのだろうか、と、しばらくはその話題を避けてきた。

しかし、人は誰でも老いるもので、脳の機能の低下も身体的能力の低下の一部であることを思えば、(また、若年性アルツハイマーであったとしても、)それは病気なのであり、隠したりこそこそする必要は無いのではないかと思う。 それよりも、こんな風に家族は看ていますとか、こんな感じで過ごしていますというような生の声を発信することによって、誰かの何かに参考になったり、社会から必要なサポートを引き出したりすることの方が、本人も社会の役に立って嬉しいのではないかと思い直したので、こうしてまた父の話題を持ち出した。

もちろん家族によって置かれている環境は様々だし、考え方も色々あるだろう。 その上で、やっぱり、他の人がその家族の事に口を挟むのはどうかとも思う。 本人が判断できない以上、それは法的に指名した誰かに任せるか、家族が代理で判断するか、そのどちらかしかないのだ。 それがどんなに重たいものか、どれだけ悩むものか、放棄したくなるような苦しみだってあることを理解していない他人が口を挟んでくるのは、やっぱり面白くない。

とりあえず今は、早く父の病状が軽くなって早く退院できるように、それだけを思う。 

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2009.07.20

呼び方呼ばれ方

高校時代の級友がクラス会のお知らせをメール送信してくれている。 やり取りの中、相手をどんな呼び方にして文章を作るか、ふと迷うことがある。 例えばビジネスメールなら何も迷う必要もないのだが、会うのは久しぶりとしても、それよりもずっと個人的な親しい相手なのだから、「○○様」というのはいかにも他人行儀だし、かと言って「○○ちゃん」というのもこっ恥ずかしい年齢だ。 直接相手を目の前にしていれば呼び捨てにも親愛の情が込められて問題が無いけれど、文字列を送る文章での呼び捨ては冷たいし。 結局、当時呼んでいた呼び方をそのまんま使うのが、一番無難で落ち着く感じがする。

実は私の「リーボー」という呼ばれ方は、部活の先輩がつけてくれたものなので(しかも、本当は『りー坊』だったりする)、クラスメイトからは別の呼ばれ方をしていた。 男の子からは名字を呼び捨てまたは「さん付け」で、女の子からは名前の呼び捨てまたは「リーさん」が多かったような。 で、部活で過ごす時間は「リーボー」だった。 今はこうしてBlogで自分のことを「リーボー」と書いているのを読んでくれているせいもあり、当時の友達の多くからも「リーボー」と呼ばれる。 部活の仲間以外から「リーボー」と呼ばれると、なんだか5%くらいいまだに違和感がある。 でも、その違和感と同時に、名字以外で呼んでもらえる呼び方を持っていて良かったな、とも思うのだ。 結婚やご実家の事情によって名字が変わった人、離婚で元に戻った人、事実婚なので名字が変わらない人・・長く生きる分だけ色々な事情があるので、誰がどうしたとか訳が判らなくなる。 そんな意味でも便利だからだ。

今読んでいる本は、(あの『ソフィーの世界』、『世界がもし100人の村だったら』の)池田香代子さんと、(あの『がんばらない』の)鎌田實さんの往復書簡をまとめた本。 (感想等は後日にでも。) お二人は高校時代の同級生で、しかし、卒業後の交友も無いまま、お互い忙しく有名になってから再会を果たしたという間柄だそうだ。 往復書簡の最初の手紙は互いの「何と呼んだらいいですか?」で始まる。 池田さんに至っては、迷いに迷った挙句、「どうぞ決めてください」と鎌田さんに丸投げしている。 鎌田さんは「じゃあ、カマタクンで。」といった具合だ。 この空気が手に取るように伝わってきて、クスクス笑いたくなった。 やっぱりみんなそうなんだな、と、思った。

当時の呼び名を使えば一気に時代が戻る瞬間もあるし、お互いの関係性の距離によって呼び方が変わる時もある。 呼ばれ方によって、呼び出される人格が微妙に変化することもある。 どんな風に相手を呼び、どんな風に呼ばれたいのかは、人間関係において意外と大事なポイントなのではないだろうか。

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2009.07.13

落とし所

● ここ数日、ダイナミックなことがいくつかあって、それぞれに対して悶々としているのだが、ひっくるめて一言で集約すれば、それは「落とし所をどこにするか」なのだということに気が付いた。

今までの私は、物事の過程を評価の対象とする考え方をしてきたように思う。 それで困らなかったのも確か。 しかしながら、創り出すことよりも、維持したり零に戻すコストの方が高くなってしまった現在においては、どうやって後始末をするのかまで見届けなければ、評価として不十分なのではないかと思うようになってきた。

いのち、会社、街づくり、組織、製品や商品。 悶々としつつ低レベルで、且つ持続的に考えている。 見聞を広めるということは、時として自分の首を絞めることとニアリー・イコールなのではないかと思ったりしながら。

● 教育テレビで2回に分割されて放映された、佐野元春さんと小田和正さんの公開対談を見る。 テーマは作詞。 思考を前面に出す小田さんの音楽作りに対して、感覚で切り込む佐野さんのスタンスの対比が、とても面白く感じられた。

自分に近いやり方の人ではない視点から自分を見てもらうことは、自分に新たな発見をもたらす可能性がある。 「この人、分かんないな」とか「不思議だ」と思う相手の存在は大切なのだな、と、改めて思った。

ひとつの単語の背景は、人それぞれ違う。 なのに、それを共通認識として使っている「言葉」というものは、本当に不思議だと思ったり、それは同時に恐ろしいことでもあるなと思ったり。

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2009.07.11

経験は無いけど。

無垢な気持ちで相手のことを思いやったり、相手の幸せを願ったりするには、自分が相手に対して安心していることが前提条件として必要ではないかと、いきなり何の脈絡も無く考えた。

既婚者の相手と恋愛をしている人の辛さは、その安心が得られないことなのではないだろうか。

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2009.07.08

野菜の勢いに押される

収穫したばかりの瑞々しい野菜をたくさんいただいた。 包丁を入れるとピシッと音を立てて割けてしまうようなキュウリ、ほくほくの大きなジャガイモ、しゃきしゃきと甘いインゲン、鮮やかな緑色のモロッコインゲン・・どれもこれも野菜の内部に、はち切れんばかりの「勢い」が貯め込まれている感じで、うかうか料理しているとこちらが負けてしまいそうだ。 完全無農薬での栽培だそうだ。 趣味の域をとっくに通り越している出来栄えに、思わず「御商売でも始められそう」などと、余計な冗談が出た。

少し前、地域のJAが経営する農作物直売所へ行ったら、隣の建物がプロユースの農機具や肥料などを扱う購買所になっていた。 一角に農薬のコーナーがあり、当然農家用なので日曜菜園用と違って販売単位も大きい。 そこの壁にでかでかと『農薬の使用は消費者のために』という文字が掲げられていたのを、同行者が見たとのこと。 「ために必要です」なのか、「ために少なくしましょう」なのか、で、大違いになるな、と、聞きながら思ったのを覚えている。 でも、JAは農薬も売る側の立場だから、あんまり購買意欲を削ぐようなポップは掲げないような気もするし?・・真意の程は謎である。

届けられた野菜の作り主が「御商売でも始められない」のは、それがシスター(修道女)だからだ。 自分達が修道院で食べる野菜の一部を、修道院の庭で作っている。 それも、私が暮らしている場所なんかよりもよっぽど都会の街中で。 伺ったこともあるが、畑にはちゃんと虫も集まり、それを餌にする小鳥達もたくさん鳴いていて、タヌキなんかも集まってくるそうだ。 「こんな街中にこんな自然豊かな環境があるなんて!」と、本当に驚かされた。 自然は隠れているだけで、その気になればちゃんと正体を現すのだという底力が、心強くもあり、それを押さえつけて抑制している人間の存在が怖く感じられもした。

今年はその修道院の庭の木にカラスが巣を作ってしまい、花壇の手入れをしていたシスターが襲撃を受け、頭から血を流す事故が起きているらしい。 役所に依頼して巣を取り除いてもらうべきか、子育てが終わるまで近寄らずにそっとしておいてあげるべきか、思案中とのことだ。 自然との共存は、口で言うほど生易しいものではない。 結局は「生きるか・負けてつぶされるか」なのだという部分を、隠し通すことはできない。

自然と人間の生活、生産者と消費者・・どこまでの線でどちらがどこまで妥協するのか、どこまで我慢できるのか。

冷蔵庫にたっぷり詰まった、元気満ち溢れる野菜たち。 新鮮なうちに食べてあげなくては・・という大きなプレッシャーも感じつつ。 食べ物から元気を貰って、じめじめの鬱陶しい時期を乗り切ろう。 

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2009.07.06

何事もチャレンジ

しばらく前に何気なく見ていたテレビで、「うちでは納豆にチーズを入れて食べます」、と、言っている人がいた。

納豆にチーズ?・・と、怪しく思いつつも、納豆にキムチを入れても美味しい(と個人的には思う。)のだし、学生の頃の友人の中には、納豆にプレーンヨーグルトを混ぜて食べるのが好きというのもいた(これについては、個人的には同意しかねたが、まあ食べられないというほどのひどいものでもなかった。)くらいだから、発酵食品同士ならさほど問題も無いのかな、と、思い、早速やってみる。

3連パックの納豆ひとつに、プロセスチーズを1枚、大豆の粒と同じくらいの大きさに切って混ぜるという。 ご飯に乗せて食べると、「・・ん??」。 チーズの味がしない。 口の中でチーズの存在が判らない。 違和感が無いレベルを通り越して、入れてある意味が無い、という状態。 私の味覚がおかしくなったかと思って、『ますたあ』の反応を見るが、「完全に埋没しちゃってるね、これは。」

チーズ嫌いの方がチーズを食べる為の方法としてはお薦めできるが、チーズが好きな人にはチーズが勿体ない。 例えばブルーチーズとかウォッシュタイプような癖の強いチーズを選んだら、違う結果になるだろうか。 そのうちやってみよう。

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2009.07.04

旧友は『復元ポイント』

久し振りに街へ出てゆき、学生時代からの友人とビールを飲みながらみっちり話をしてきた。

普段の社会生活の中で特別な意識もせずに採用されている方法やルールの中に、「やっぱりそれは、人間としておかしなことなんじゃないか?」、ということがたくさん隠されているという話をして、「そうだよね、間違っていないよね、この考え方。」、と、確認し合う。 飲み込まれそうな毎日の濁流の中で、この感覚を共有できるだけでもどれだけ心強いことか。

寝転がるドランカー、公園でひたすらハトにパンをちぎって与え続けているスーツ姿の男性、客寄せのチラシを配る人、街頭演説で声を枯らす某政党の議員、濡れながらギターを掻きならすストリート・ミュージシャン、弦で指を切らなければいいけど。 ・・駅前の雑踏の景色に、たくさんのイメージの断片が浮かんでは消えしていった。 社会に対して自分の中でもうとっくに諦めた筈のことと、まだ諦めきれずにいることの境界線が雨に滲んで揺らぐ。

昔からの友人達はいつも私に「つまらない大人に落ち着くなよ!」という無言のエールを送ってくれる。 正義感を思い出す『復元ポイント』のような存在なのだろう。 みんなそれぞれがそれぞれの場所で、社会の何かと毎日小さな戦いを続けているみたいな、一種の連帯意識が不思議だ。

学生の頃に抱いていた大人のイメージと、今の自分は、だいぶ違っている。 このギャップの正体はなんなんだろう?

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