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2009.10.31

別の意味でズブズブ

「感覚とは何か」について、別のアプローチの方法を模索した揚句、哲学に頭を突っ込んでみた話は過日に触れた。 と、言ったところでこっちは丸っきりのド素人。(「ソフィーの世界」がベストセラーになった時、「これは違うぞ!上手く言えないけど・・」という感じでそっぽを向いたっきりだ。) はなから偉人達の文章を読んで付いて行ける筈もないだろうと踏み、自ら異端であることを明言し、また、「純粋な本質は、普通の日本語で表現できる筈」をモットーに、近年に昇天した池田晶子氏の本に手を伸ばした。

正直なところ、最初の本では頭を抱えた。 書かれている日本語は確かに普通なのに、ちんぷんかんぷんなのである。 読んでいるのにページが進まないのは、ずいぶん久し振りだった。 途中で投げ出そうか、と、いう気持ちを思い留まらせたのは、考えの過程はちっとも伝わらないのに、氏の導いている結論が、私の経験則からのそれとかなり近いという確信で、似た者同士が喧嘩しているような状況を肌で感じていたからだった。 もうちょっとだけ我慢して読んでみるか・・そんな感じ。 この本が感覚的に他の何と似ているかと問われたら、物理や数学、宇宙飛行士の文章、その辺と同じ匂いを嗅ぎ取った。 案の定、2冊目の中ほどくらいで、何がきっかけか判らないが、回路がズバッと繋がったようで、そこからは「ああ、なんだ、これか。」、と、急に面白くなってすいすい進んだ。

今まで自分で考えてきて、それでも人に説明しようとすると理解してもらえなかった部分が、普段使いの日本語でちゃんと書かれている。 私はずっと「こんな考え方をしているのは、自分がかなり変わり者なのだ」という自覚を持っていて、ある所から、それを他の人に伝えることを諦めることで、一般人の顔をし続けてきたのだったが、「あっ、他にもこんな人が居る(た)んだ!」と知って、心底安心するような嬉しい感覚に襲われたのだった。

多分、氏と私の大きな違いは、氏は「言葉」に絶対の価値と信頼を見出しているが、私は「言葉」については少々懐疑的で、「現象」が先に来ている点だと思う。 この現象を理解する為にはどうしたら良いかを探っている。 「言葉」によれば、私に起きている現象は、「錯覚以外の何物でもない」と一刀両断だ。 だとすれば、私は今すぐ精神科に受診しなくてはならないだろう。 が、現象は私の現実であり、少ないものの、同じような人も世の中には居ることもどうやら現実だ。

私は言葉に対する能力が氏ほど高くは無いので、自分のやり方で探ってゆくしかない。 でも、入り口はどこであれ、デスティネーションつまり行き着くべき所は、同じ場所ではないかとも、楽観的に思っている。 氏は「あんたなんかに言われたくない!」とあちらで一蹴するだろう。

・・で、「感覚」の話は何処へ行った?? まさに「考えることに終わりなく」か・・。

●「知ることより考えること」 池田晶子著 新潮社 初版2006年

●「人間自身 考えることに終わりなく」 池田晶子著 新潮社 初版2007年

●「私とは何か さて死んだのは誰なのか」 池田晶子著 新潮社 初版2009年

●「魂とは何か さて死んだのは誰なのか」 池田晶子著 新潮社 初版2009年

●「死とは何か さて死んだのは誰なのか」 池田晶子著 新潮社 初版2009年

 

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2009.10.27

示唆を受け流す

午前と午後の2回、ワサワサと落ち葉掃きをして、夕方から久しぶりにトレッキング・コースへ出かける。 雨の後だったせいか、空気が透き通っている感じ。 秋空はどこまでも高くて、思わず空を見上げて背伸びをした。

気の早い落葉樹はここ数日で一気に葉を落としたようで、今まで葉に隠されていた「向こう側」の景色が良く見えている。 日差しが届く分だけ明るさも増して、見慣れた風景とは違う印象を受ける。 青い山の稜線が、筆を迷わずに描かれた線のようにクリア。

「近くのなんだかんだを切り捨てれば、遠くの大きなものが見えてくるということか・・」、などと、うっかり示唆的な意味を考えそうになった。 でも、とりあえず頭の中の回路を強制遮断。 走ったり歩いたりしている間にそんなことを考えるのは、なんだか野暮な気がしたので。

考えないで、たくさんのイメージだけを受け取って帰ってきた。 きっとそのうちに、落ち着くべき場所に集約されてゆくでしょう。 熟成を待つように、他人事のように待ってみるのも、また面白そうだ。

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2009.10.25

秋の一日

今日は午後から、父のお世話になっている施設での「運営懇談会」。 以前に比べて的外れな質疑発言が少なくなったのは、出席している方としても助かる。 入居が長期になってきて、現場スタッフとのやり取りから、様々な現状を理解している家族が増えたからなのか、それとも、施設運営が合理化されて入居者の家族にも経過がよく見えるようになったからなのか。 とにもかくにも不毛なやり取りを聞いているだけで疲れていたので、今回は非常にありがたく感じられた。

報告された事故(例えば転倒とか尻餅とか・・)の件数についての質疑応答の中で、「俗に言われるような『寝たきり』になってしまえば、逆に事故はほとんど起こらなくなる」という内容に、思わず納得する。 問題は筋力の衰えに気付かないまま、以前と同じように行動しようとしてしまう期間なのだろう。 人というのは、身につけることには慣れているのに、衰えることを学ぶのはかなり難しいものなのだな、と、考えさせられる。 老いること、いつかは死ぬことに対しても、成長することと同じように学んでゆきたいものだと、ぼんやり思いつつ。 果てさて、どんなバアチャンになってゆくことやら・・?? 明日は我が身の話。

まだ雨は続くらしい。 日差しが無いと体の中に沁み込んでくるように、じんわりと寒い。 体と心がお互い深く関係していることは知っているけれど、せめて体の疲れがしっかり抜けるまで、心の悲しみが何処かに置き去りにされているように、と、肉親を失った直後の友人のことを想う。 じんわりした寒さが、深い眠りを導いてくれると良いな。 悲しむのは疲れが取れてからでも、充分間に合う。

建物への取り付け道路には、雨にぬれた落ち葉がたくさん積もっていた。 晴れて乾いたら、一仕事しなくては。 やれやれ、落ち葉との格闘の時期が今年も始まったみたいだ。 頭の中でひとつゴングが鳴った。

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2009.10.20

きっと「開けっぴろげ」

まだ上手く表現できないのに、見切り発車してみるけれど・・。

「開いている」と、「勝手に繋がる」ことが多くて、それはこちらの意思や都合とは無関係に、どどどーっと流れ込んでくる感覚に近い。 (すみません。 何が開いていて、どこに繋がっているのか、自分でも分からない状態でして。) しかも、圧縮ファイルのように一瞬で届いて、その後で徐々に解凍されてから、やっと内容が判ってくる。

相手が人間でも、動物でも、植物でも、なんだか得体の知れないエネルギーのようなものでも、勝手に繋がって、勝手に来る。 理解できることもあるし、さっぱりちんぷんかんぷんなこともある。 理解できる時も、言葉で分かる時、画像で分かる時、イメージの塊のようなものの時、と、様々。 妙なことにどれもこれも感覚の質感があって、凄くリアルな感じだ。

そんな時、こちらも同時に何処かに繋がりに「行っている」のかは、まったくもって不明。

幻視・幻想・幻聴などとは種類の違うものだということは、多分、間違いがない。 分からないだけに100%とは言えないが、頭の中で作られているものとは別物だと思う。 リアルなくせに、実際は見えている訳でも、聞こえている訳でもなくて、いったい何の感覚器官で捉えているのか、自分でも他人事ように不思議だから。

余りに訝しすぎるから自分では否定したいのだが、徐々に最近、それらのシステム?が系統立って構築されてきているような気がして怖い。 その怖さは、得体の知れないものに対する怖さであると共に、狂ったりしなければいいがなあ、と心配する怖さでもある。

で、そもそも「感覚」とは何かを別のアプローチから探ろうと、哲学の本を読み始めた。 (・・先は深く長そうで、これも別の意味で怖い。 完全に私の理解の範疇を超えている気がする・・お~怖~。 とりあえず足だけ突っ込んで、ズブズブだったら、とっとと見切りをつけて逃げて来よう。)

「開いている」という感覚と、それも多分「開けっぴろげ」になっているような自覚だけは、ある。 で、どどどーっと流れ込んでくるものに圧倒されて、結構疲れている。 そのくせ、どうやって何を閉じたらいいのかを知らない。

試行錯誤で探るしかないか? 今週は運動量を増やして、わざと実際の身体を疲れ気味にしながら様子を見ているが、今のところ望ましい影響はあまり出ていないようだ。(おかげでビールとごはんは美味しい! あっ、これはいつもか。)

なんなんだ、これ?? (なんて言われたって困りますよねえ・・ごめんなさい。)

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2009.10.15

塊のまんまで

時々スーパーの精肉売り場で、塊肉をサービス商品にしている場面に遭遇する。 多いのはやっぱり豚の肩ロースとかバラ肉だろうか。 「チャーシューもどき」や「角煮」も美味しいけれど、何に使おうかな・・と、迷った時には、とりあえず保存用に下味をつけておくと便利だ。

豚の塊肉500グラム程度(多少の前後は気にしなくて良いし、適当に微調整して貰ってもかまわない。)に対し、塩と砂糖を小さじ1ずつ。 塩と砂糖は予め小皿で混ぜておいて、それを肉の表面に均一に振りかける。 全ての面に。 胡椒をガリガリ挽いて、手持ちがあればドライハーブ(セイジとかローズマリーがあればなお相応しい。)もパラパラ。 お好みでニンニクスライス3枚ほどを一緒に使っても良い。 チャック付きの食品用ビニール袋に入れて、上からオリーブオイルかサラダオイルを小さじ1投入。 空気を抜いてチャックを閉じる。 ビニール袋の上から塊肉を軽く揉み揉みして、全体を馴染ませるようにしてから冷蔵庫(できればチルド室)で保存する。

この状態なら一週間程度、冷凍しなくても日持ちする。 もちろん、塩と砂糖とオイルだけが必須アイテムなので、ハーブやニンニクは入れなくてもかまわない。

使う時にお好みに切って普通の豚肉料理の時と同様に使えるし、塊肉のまま茹でたり蒸したりしても。 厚めに切ってソテーも美味しい。 焼いてもやわらかくてジューシーな感じに出来上がる。 ただし、豚肉そのものの香りは若干薄くなるので、合わせる素材や調味料や香辛料で香りを補強するひと工夫を。 また下味が染み込んでいるので、調理直前の塩胡椒は省略を。

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2009.10.12

警戒

朝一の仕事は、昨夜のうちに煮ておいた「栗の渋皮煮」のシロップを煮詰めて、保存用の瓶に移したこと。 ちまちまと保存食のようなものを仕込んでいると、いかにも秋だなという感じがする。

この連休は『ますたあ』が庭の草刈りをしてくれて、まるで牧草地帯のような枯れ草の良い香りが、部屋の中まで漂っている。 足元の雑草が消えて、庭木に纏わりついているヤマイモが目立つようになり、思いついてムカゴを集めてきた。 明日は炊き込みご飯でも作るかな。 いつの間にかヤマイモの葉っぱも、もう黄色く染まっていた。

夕方に小一時間程軽いランニングで汗をかく。 最近は日が沈むのがめっきり早くなって、うかうかしているとすぐに暗くなってしまう。 涼しくなった分だけ、体を動かすのは楽。 道端の野菊がどうしたことか根元からバッサリ折られていて、しんなりしていたやつを帰りに拾ってきて水揚げしたら、見事に再生してくれた。 嬉しくなって、テーブルに飾る。 薄紫の花弁が、何事も無かったかのように穏やかに綺麗だ。 清楚とはこういう佇まいのことをいうのか、と、花を見ながら思う。

そろそろ冷え性の対策を強化し始めないと。 去年皮膚科の医者に「最低気温が10度を割るようになったら警戒してくださいね」、と、言われたのを覚えている真面目な患者だ。 たまに、この真面目さ加減が、自分で鼻につくこともあるのだけれど・・。

なんだか自分を置き去りにしたままに、どんどん暦が進んで行くようで、ちょっと焦る。

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2009.10.10

秋はみんなお腹が空く

裏庭に設置していたコンポストをイノシシにやられた。 何度か周辺をほじくり返されていたので、埋める深さを増して対策をとったつもりでいたが、それくらいのことでは結局は無効だったようだ。

分厚いプラスチックの横腹に大きな穴がぼっこり・・。 壊されたコンポスト自体をゴミとして処分センターに運ばなくてはならないこちらが、どうやって小さく壊すか、頭を抱えたくなるほど頑丈なプラスチックだというのに。 某県のHPによれば、鼻先で80kg程度の物は簡単に持ち上げる(ひっくり返す?)ことができる上、20cmの隙間があればくぐり抜け、2mの高さの壁をこえるという。 運動能力高すぎだよ!

ちょっとした山間部ではどちら様でも、野生のイノシシや鹿による害の対策に追われていると聞く。 この辺りも当然例外ではなく、田畑の周囲に網をかけたり、針金の柵に通電させたり、夜間に花火や爆竹のような音で威嚇したりしている。 でも、動物は何処かで何かを食べなくては生きてゆけないから、ある一か所から追い払ったところで別の場所に移動しているだけとなり、最終的には駆除するしかないのだ。

ちょっと林道へウォーキングに出かければ、今でも「ここは鳥獣保護区です」という看板が出ている。 保護したり、駆除したり・・人間はいろいろとやるものだと、複雑な気持ちもする。

玄関先の車に空から鳥の糞を落とされたり、スズメバチに軒先を覗かれたり、勝手口のアマガエルを踏みそうになって焦ったり、グラウンドの真ん中で大きな月をバックに佇んでいる鹿に見とれたり、アゲハ蝶にとまられたり、コオロギを家の外に逃がしたり、大ムカデに噛まれたり、そして、イノシシにコンポストを壊されたり。 山の生活は静かなようでいて、意外と賑やかでトピックスに事欠かない。 これらも「豊かさ」の内なんだと思うことにしたい。

秋はみんなお腹が空く時期なんだな、きっと。

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2009.10.08

へえ、作れるんだ。

ずいぶん前、アメリカの一般家庭で普段作られるようなお菓子の本を読んだ時、「マシュマロ・ポップ」という名前で紹介されていたレシピがあった。 ポップコーンを用意し、マシュマロとチョコレートとバターを合わせてポップコーンと同量にしたものを鍋で煮溶かし、そこにポップコーンを混ぜ合わせて、熱いうちにスプーンでひと口大にしてから冷ます、というものだった。 残念ながら分量の配分は書かれていなかったものの、いつか作ってみたいと思っていた。

別件で、しばらく前まで「『難消化デキストリン』を食物繊維として添加した某社のシリアル」を、味も気に入って続けて食べていたのだが、どうしたことか自分のガスが異常に臭くなるという(下品な話題で、ごめんなさい。)デメリットが発生し、パッケージの半分量を残してしまった。(摂取を中止したら、速攻でガス臭も普段レベルに戻った。 一体何だったのかは疑問だ。) で、残ったシリアルを捨ててしまうのも勿体ないので、シリアルクッキーを焼いたりしたが、まだある。 たまたま買い物の最中にマシュマロが売られているのが目に付き、「ああそう言えば・・」と、思い出した次第だ。 ポップコーンじゃなくても何とかなるんじゃないかと、いつものように思いつきのゴーサイン。 タイミングは捕まえておかないと、ね!

アメリカンな家庭じゃないので、できれば熱量は控えたい。 チョコレートは使わず、バターもほんのちょっとの香り付け程度に控えた。 そうしたら、世の中に売られているシリアルバーにそっくりなものが出来上がって、びっくり! なんだ、作れるんじゃないか。

 シリアルバーもどき  10本分くらい

  • お好みのシリアルとドライフルーツ、ナッツ合計で1カップ分
  • マシュマロ  1カップ分
  • バター     10g(大さじ1弱)
  1. ドライフルーツはダイス状に切る。 例えば干しブドウぐらいならそのまんまでも。(硬かったらぬるま湯や洋酒に馴染ませてください。) ナッツは必要に応じて空炒りして、そのまま食べられる状態にしてからお好みに応じて切るか叩き割る。 ピーナッツや松の実なら切らなくても良いかも。
  2. パットやケーキの焼き型、皿、牛乳パックなどを使って箱型の容器を見つけ、内側にオーブンペーパーを敷きこむ。(12センチ程度のスクエアーや、7×14センチの焼き型、1リットルの牛乳パックの一面を切って直方体に整えたものなど。) 型が無ければ、スプーンでひと口大にすくってドロップクッキーのようにすればよいので、平らな場所にオーブンペーパーを広げておく。
  3. フッ素加工の鍋かフライパンにマシュマロとバターを入れて弱火でじんわりと過熱し、木べらで混ぜながら煮溶かす。
  4. 鍋を火から下ろして、シリアルと1のフルーツとナッツを加え、手早く全体が均一になるまで混ぜる。 熱いうちに2の型に移して、木べらで押さえつけるように型に合わせて伸ばす。 または、スプーンでひと口大にすくって、オーブンペーパーの上に間隔を空けて落としてゆく。 扱いが難しかったら掌にバターを薄く延ばして、手で丸めていっても大丈夫。(そんなに熱くは無い筈だが、一応は火傷に注意!)
  5. そのまま冷めるまで放置。 冷めると固まるので、型からペーパーごと取り出して、包丁で好みの大きさ・形に切る。
  6. 蓋のできる容器に入れて保存する。 持ち運ぶならオーブンペーパーでキャンディー包みにするか、アルミホイルで包む等工夫を。

●完全にカリッと乾いた感じではなく、少しウェットな食べやすい感じの物ができます。 よりウェットにしたければバターを増やしてください。 50gくらいまで増量可。  ●マシュマロ1カップと言われても、ゴロンゴロンとして計測が難しいと思いますが、だいたいのアバウトさで大丈夫です。 混ぜ込む時のシリアルの量で調整してください。  ●無糖のシリアルを使えば甘さを抑えられます。 私は加糖タイプで作りましたが、甘すぎるほどではありませんでした。 コーンフレークでも、ライスシリアルでも大丈夫。  ●バターは10gほどなので、わざわざ無塩バターを用意しなくても塩入りで大丈夫ですし、マーガリンで代用することも可能と思います。  ●きっとホワイトチョコを混ぜて作ると、本当に市販の物に近づくような気がします。 余裕があったらいろいろ混ぜて工夫してみてください。

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2009.10.06

今からできること

Dr.パトリシア・ウィーノルセンという方の書いた「死のバイブル」という本を読む。 死を専門とする心理学博士だそうで、カリフォルニア大学やシカゴ大学等で教鞭をとりつつ、何千人もの(!)死に瀕した患者や遺族にカウンセリングを行い、セミナーやワークショップを展開しているそうだ。

今やある程度大人になった人の死因の一番は癌という時代だ。 癌でなくてもじわじわと病状が進み、治療法が確立されていない病気もたくさんある。 当然不治の病を宣告されてから実際に昇天するまでには、幸か不幸かそこそこの時間を用意されているケースも多い。 そんな患者やその家族が、目の前に突き付けられた死とどう付き合って折り合いをつけてゆくか、その方法のヒントを具体的に示している。 死というテーマの独自性に加えて少々翻訳の問題も加味されたか、正直、判りずらくて読み難い本ではあったものの、興味深い内容ではあった。 特徴的だったのが、本文中に何度も出てきた「あなたの人生」とか「あなたの痛み」「あなたの望み」「あなたの毎日」といった表現だったように思う。

身体的な症状も、心の動きも、日々の生活も、今までの経験も、記憶も、それらすべてを総合した人生そのものも、所有しているのは結局本人だけであり、どんなに親しくても、主治医でも、家族や友人でも、共有することはできないのだ、という大きな前提が本の中には流れていた。 同情してくれても、共感してくれても、それは本人が抱いているものと全く同じではないのだ、という姿勢。 そこをまず十分認識し、その上で、いかに相手に伝え、分かちあい、助けてもらい、また、相手の役に立つかを考えるべきであるという、イーブンの関係が著者の書くところの理想形なのだと思われた。

これは憶測にすぎないが、日本人の多くはこの感覚が捉えにくいのではないだろうか。 私が垣間見ている日本の社会においては、多かれ少なかれ「共依存状態」が善とされ、それを求める傾向が強いように感じているからだ。 自分の子供の人生を所有しているのは自分だと勘違いしている親、その挙句に子供が思うようにならないと悩んでいる人。 もう治療のことは医者に全て任せるという人、そして、その過程を本人に説明しようともしないで家族に決断を迫る医療従事者・・未だにそんなことが日常茶飯事のように私の周囲に起きている。

でも、結局、「自分がどんな人生を送り、人生にどれだけ満足したか」を決めるのは、一時的な判断によるものではなくて、何十年もかけて積み重ねてきた自分の日常による結果でしかないのであり、故に「今日一日をどう生きる(た)か」が問題で、その為には自分の心構えとか日常生活に対する意識、大事にするべき事柄、気持ちの持ちよう、そういった「本人次第」の内容が大きく作用することを思えば、つまり、「その人の人生は、その人次第」というシンプルな結果に落ち着く。 イコール「その人の人生は、その人が決めた、その人のものであり、どんなに親しくても自分のそれとは違うのだ」、ということになる。

人は生まれた瞬間から、例外無く死に向かって生きなければならない存在であることは、誰でも知っていることの筈。 つまり、今幸いに、死を他者や主治医からわざわざ突き付けられなくても、普段から意識することによって「その人らしい満足した毎日」を過ごすことになり、結果としてその集大成が「その人らしい人生」となるのである。

自分の人生と親しい他者の人生をちゃんと切り離して考えることは、親しい相手を「かけがえのない一個人として尊重する」ことに繋がるのではないだろうか。

●「死のバイブル 豊かな死をむかえるための27章」 パトリシア・ウィーノルセン著 寿美子コパレック訳 原書房 初版1997年   

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2009.10.04

嫁だって食べるよ

茄子はやっぱり油と相性がいい。 熱量が増えると気になりつつも、「仕方ない」と言わせてしまう何かの存在を否定できない。

 茄子と鶏肉の薬味煮 (2人分)

  • 鶏もも肉       一枚
  • 茄子         2本
  • ニンニク       半片
  • ショウガ       ひとかけらの半分
  • 長ネギ        15センチ分
  • 唐辛子        半本
  • 味噌と醤油     大さじ4分の3ずつ
  • 砂糖と酢       大さじ半分ずつ
  • 水           100cc
  • サラダオイル    適宜
  1. 茄子はヘタを除き、たて横半分ずつに4つ割りにして、それぞれに切り込みを入れてから、水に短時間晒してアクを除く。 ざるにあげておく。
  2. 鶏肉は余分な脂を除き、熱量が気になる場合は皮をとって、大き目のひと口大に切る。
  3. ニンニク、ショウガはみじん切り、長ネギは細かく小口切りに。 唐辛子は種を除いて小口切りに。 辛くしたくない場合は省略も可。
  4. フライパンか鍋に多めのサラダオイルを熱して、茄子の表面を焼く。 熱量が気にならない場合は、さっと素揚げにすればより美味しい。 この段階では6割方火が通っていれば良い。 熱した茄子は器に取りだす。
  5. フライパンか鍋に新たに少量の油を熱して、鶏肉を炒める。 表面の色が変わったら、味噌、醤油、砂糖、酢、水を加え、3の薬味も全て入れる。 蓋をして5分ほど中火で蒸し煮する。
  6. 蓋をとって強火にし、煮汁が半分になるまで煮詰める。
  7. 4の茄子を鍋に戻して、煮汁を絡めるように煮る。 味見をして好みに合わせて調整して、なんとなく煮汁がトロッとすれば出来上がり。 器に盛っていただく。

味噌によって塩加減が大きく違うので、醤油は少なめに使って後から増やすなどして調整してください。 茄子を戻してからの最終的な煮詰めも、他のおかずとの取り合わせで、あっさりも良し、こってりも良し。 こってり煮詰めた場合には、粉吹きイモや里芋などを添えても良い相性です。 翌日が心配ならニンニクは省いても。

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2009.10.01

着ぐるみ

全くの別件で眺めていた錦絵。 歌川広重が1832年~34年(天保三~五年)頃に描いたという「東都名所高輪二十六夜待ち遊興の図」というもので、江戸の庶民たちが花火や食べ物屋台で楽しむ様子がディテイルまで見てとれる。

その「浮かれている人々」の中に、なんと、タコの着ぐるみを着ておどけているオヤジを発見し、驚くやら呆れるやら。

200年近くも経っているというのに、人間のやっていることはあんまり変わっていないような気がして一気に脱力した。 よりにもよって、着ぐるみか。 結構歴史のあるものだったんだなあ、着ぐるみ・・。

手足の吸盤まで細かい細工が見えて、江戸時代の着ぐるみ、なかなか良い手仕事がなされていたようである。

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