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2010.02.26

たまには

明日は真面目なお勉強をしに、ちょっこら出かける予定。 ちゃんと入試受けて、合格通知もらいました、うん十年振りに。

・・たまには頭も使わないと。

通常はお出かけに雨だと残念ですが、この時期だけは助かります。 しかも、前日から雨続きなんて超ラッキー!(←花粉症患者の本音。)

良い報告ができるように、しっかり頑張ってきたいと思います。

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2010.02.25

その軽さは哀しくもあり、満ち足りたものでもあり。

朝、『ますたあ』が小鳥が死んでいるのを見つけた。 そのまま放置して荒らされてしまうのも何なので、土に帰してあげることに。 庭の隅の地面に穴を掘ってから、亡骸を迎えに行く。

メジロだった。 手のひらに乗せると、驚くほどに軽い。 翼を広げた姿勢のままで硬直していた。 そっと外側から包むようにして翼を閉じて、しばらく押さえていたら落ち着いたので、餌場になっていた山茶花の赤い花を一輪手向けて、土を被せる。

あっけなく死んでしまったメジロの命、その亡骸の軽さが少々ショックだった。 鳥の骨は空を飛ぶための軽量化で中空になっている、なんて、昔、生物の時間に習ったことを思い出しながら、それでも命がここまで軽くなくても良いような気がして、ギャップだったのだ。 人間はついつい亡骸の物理的重さと、命や魂の扱われ方の重さとを混同してしまう。

看護師のトレーニングを受けていた学校で受けた教育は、キリスト教精神に基づいていたので、讃美歌を唄う機会がたくさんあった。 入学してすぐ、「♪命のために何を食べても、ただ少しさえ(寿命を)延ばせない。 体のために何を着て(い)ても、明日はかまどに投げられる」、という歌詞に同級生が驚いて、「キリスト教って、残酷で恐ろしい事を言うんだね」と言っていたのを思い出した。 歌詞の内容は、つまり、『余計な心配をしたところで、運命は全て神様がお決めになるんだから、考えたってしょうがないものに心を惑わされずに、日々を丁寧に暮しなさい』という前向きな意味合いなのだったが、確かに「かまどに投げられる」と言われればギョッとするし、そこだけ切り取ってしまえばひどくグロテスクだ。

神様の視点から見たら、きっと人間だってちっぽけで、メジロの亡骸のように軽いものに違いないと思う。 その謙虚さを忘れたらお終いなんだろうな、とも、何となく思う。 どうせちっぽけで軽いんだから、気負わずに与えられているものに満足して、のびのび生きてゆけば良いという気にもなる。 他の全てと比較して人間だけを特別視したくない気持ちが、自分の中にはいくらか確かに存在している自覚もある。 だからと言って仙人のような生活を送れないのも、また哀しい現実なのだが。

メジロの亡骸の軽さが、やけに胸に染みた。 図らずも、イースターの準備期間である四旬節に相応しいような黙想の機会になってしまい、苦笑した。 

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2010.02.24

来た来た

出かけて帰ってきて車から降りた瞬間、いきなりくしゃみの津波に巻き込まれる。 20も連発するから、思わず笑ってしまった。 くしゃみをして、吐き出した分の息を吸うと、それがまたもれなくくしゃみになる感じ。 さて今年の花粉症の幕開けのようだ。

嫌だな、憂鬱だな、と、思っているのも癪なので、わざと平静を装って、来るって分かってたもん、大丈夫だもん、と、心の中で唱えてみる。 受け入れたら少しは症状が減るか?・・なんてことある訳ないよな。

お雛様がしらっとしたお顔で、鼻をかむ私を見ていた。 私もガラスケースの中に入ってしまいたい。

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2010.02.22

キジと一緒に

やっと春が近づいた、と、実感できるような、久々のよく晴れた暖かい穏やかな日。

そろそろ干していた布団をしまおうとすると、庭の方で何やらでガサゴソ音がしている。 ふと窓の外に視線を向ければ、立派なオスのキジが一羽! 美しい玉虫色ブルーの羽をキラキラさせながら、足とくちばしで地面に積もった落ち葉をほじくり返して虫やミミズなどを食べている様子。 かなり大型の個体で肩幅も立派だ。 堂々とした風格に思わず見とれる。 時折ちらりとこちらを気にするが、だからといって避けるでもなく、あくまでもマイペースのお食事を楽しんでいるみたい。

あれだけの体を維持するには、結構な量を食べなくてはならないだろう。 寒かったから大変だったろうな、などと思いつつ、自分用にも熱い紅茶を淹れる。 紅茶とブラウニーで午後のお茶を楽しんでいる間にも、ずっと一定の間隔でガサゴソ音は聞こえ続けた。

妙な一体感を楽しませてもらった。  

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2010.02.19

鶏レバーの炒り煮

新鮮な地鶏のレバーが売られていたので、濃い目でしっかり煮てちょっとした常備菜にしようかと。

 鶏レバーの炒り煮

  • 鶏レバー     250グラム
  • ごぼう       3分の1本
  • 板こんにゃく   半枚
  • しょうが      一片
  • 醤油・砂糖・酒  大さじ2ずつ
  • みりん       大さじ1
  1. 鶏レバーは流水で良く洗い流して、表面の水気をキッチンペーパーで拭き取り、心臓部分を切り離す。 心臓の上の方2割程度をすっぱり切り落とし、脂肪が残っていたら包丁の先で引き剥がすようにして取り除く。 厚みが半分になるように縦二つに切り、心臓内部に血の固まりがあれば取り除く。 レバーは付着している脂肪を取り除きながら、3㎝角くらいを目安に切る。(加熱すると縮むので、仕上がりの予想よりも大きめに切る。) 断面の血の固まりは適宜取り除く。
  2. ゴボウは泥を落とし、一口大の乱切り。 コンニャクは手でちぎるかコップの縁で押し切り、一口大にする。
  3. ショウガをスライスまたは千切りにしておく。
  4. 鍋に湯を沸かし、ゴボウとコンニャクを下茹でする。 簡単に火が通ったら、ゴボウとコンニャクをざるにすくい上げ、お湯は鍋に残しておく。
  5. 沸騰した状態の湯に、切ったレバーと心臓を入れて下茹でする。 ゆらゆらと沸騰し続ける状態で加熱し、3分ほどしたら別のざるに茹でこぼす。
  6. 流水を使いながら、レバーと心臓を表面をやさしく撫でるように洗い、表面に出てきた血の塊を流す。
  7. 適当な鍋に調味料全てとショウガを入れ、水少々を加えて沸騰させたら4と6の具材を全て鍋に移し、再沸騰を待ってからひたひたになるまで水を足し、そのまま強火で煮詰めてゆく。
  8. 煮汁が少なくなったら鍋を煽って、煮汁がほぼなくなるまで。
  9. 器に盛って、お好みで七味唐辛子を振る。

日持ちします。 ぽつりぽつりつまみながら、貧血予防。 ちなみに食品中の鉄分はビタミンCと一緒に摂取すると吸収率が高まります。 生野菜とか果物も一緒に。 

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2010.02.16

雛飾り

数日前、ようやくお雛様を出した。

晴れて湿度が下がる日をずっと待っていたが、いつまで経っても埒があかないので痺れを切らした格好に。 目覚めさせておいて毎日雪続きなのも、内心は申し訳ない気持ちで、一方あんまり遅くになって「出したらすぐに引っこめる」ようになってしまうのも、それはそれで申し訳ないし、で、複雑だ。

ああ、穏やかな暖かい陽射しが待ち遠しい。

いかにもお雛様に相応しく作られた「雛あられ」や「菱餅」や小型のあんこやゼリーのお菓子などを、毎年少しばかり用意する。 それらはそのまま供えられるようにきれいな透明の袋に入れられて、口を結んだ所にプラスチック製のピンクの桃だか梅だかの花が一枝添えられていることが多い。 その花飾りを捨てずに雛ケースの片隅に入れておいたら、いつの間にかそこそこの本数が貯まったので、まとめて挿し飾ってみた。 普段は人工的な造花はどちらかと言えば苦手な範疇だが、ここまで寒い日が続くと生花を飾るのも逆にちょっと不自然な感じがするので、バランスがとれて良いのかもしれない。 人工的なピンク色が、部屋の空間の中でぽっかりと浮かんで見える。

とりあえずで用意しておいた「雛あられ」とプレミアム・モルツを、お供えしてある。 「相変わらずここの家では、白酒の代わりにビールなんですね」、などと、ケースの中で呆れられているに違いない。 いくらビール好きの私でも、この寒さではビールの代わりに温かい甘酒でもお供えしてあげたくなる気分だ。

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2010.02.15

絶対的なブランド

過日、『ますたあ』が叙勲なさった方のお祝いパーティに参加した。 帰りにお祝い返しというか、手土産というか、で、いくつかのお品をいただいてきたのだが、包みを開けてみると、記念品には金色の「菊の御紋」が貼り付けられているし、和菓子には個別包装の一個一個にまで、やはり御紋が印刷されている丁寧さだ。 思い出せば郵送で届けられたパーティーの案内状にも金色の御紋だったし、御本人のプロフィール紹介や式次第を小冊子にしたもの、当日の席次表、手提げ袋に至るまで、「菊の御紋」オンパレードである。

叙勲された方は陛下から勲章をいただいたのだから、賜ったお品に「菊の御紋」があるのは当然としても、その方へのお祝いのお返しにまで天皇家の御紋を使うのは、どうしてなんだろう。 その方の家紋が入れられているなら理解できるのだが。 お福分けのような意味合いなのだろうか。

確かに「菊の御紋」があるとありがたい気がするし、それがあるだけで価値が上がるような感覚も覚える。 調べてみれば、叙勲された方々の為のトータルプロデュースをやる会社まであるようで、それこそパーティーからお返しの品まで一手に引き受けてくれるらしく、そこにも当然ことごとく「菊の御紋」付き商品が扱われている様子。 ・・しかし、小洒落たナチュラルテイストの「卓上電波時計」に、わざわざ金色のプラスチック製の「菊の御紋」エンボスを貼り付けるとは、どうなんだろう。 複雑な気持ちで見ながら首を傾げていた。

「菊の御紋」がブランドのロゴデザインのように安く使われてしまうのは、なんだかちょっと残念な気がする。 あー、でも、「菊の御紋」や「宮内庁御用達」や、もっと言ってしまえば皇室の方々のご存在そのものが、日本人にとっての絶対的なブランドみたいなものなのかも知れないなあ、と、書きながら思いつつ・・。

 

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2010.02.11

鳥だんご

鶏だんご、ではなくて、鳥だんご。

部屋のすぐ外にあるネズミモチの木には、この時期になっても紫色をした小粒の実がたわわに実っており、それが野鳥たちの格好の餌場になっている。 みんなこの実をついばんで、飛び立つ際におまけで紫色の糞を落としてゆくので、庭のいたる所、何となく紫っぽい。

その枝に先週辺りから、メジロのつがいが陣取っているのが目立つようになった。 冬の寒さにふくふくと膨らんだ二羽が、ぴったりと寄り添っているのだ。 ころころ丸いものが二つくっ付いているものだから、私は勝手に『鳥だんご』と呼んでいる。

ぼんやり日向ぼっこを楽しむようにトロトロとまどろんでいる時もあれば、お互いの体にちょっかいを出して毛繕いしているような時もあって、見ていて飽きない。 こちらからすればメジロはどの個体も同じように見えて全く識別できないので、つがいも同じペアなのかどうかすら定かではない。 みんな同じようにふくふくと『鳥だんご』になっている。

仲が良いからか、見ていてこちらの気持ちまでホンワカすることはあっても、マイナスなイメージは何も湧いてこない。 平和とか、睦まじいとか、小春日和とか、のんびりとか浮かんでくるのはそんな単語ばかりだ。

見ているのがもしも、人間のペアだったらこうはいかないだろうな、と、思う。 例えば駅のホームで、電車の中で、街中で、店の中で、『人だんご』をつくっていちゃついているのを見るのは、あまり気分が良いものではない。 思わず視線を逸らすだろうし、虫の居所が悪かったらいらいらするかもしれない。

何が違うんだろう、と、考えてみても、よく分からなくて不思議だ。 嫉妬心だけではないような気がする。

(平和な感じのメジロの『鳥だんご』の様子は、こちらの写真で。)

暑いくらいの気候に驚かされたのもつかの間、今夜は雪になるとかならないとか・・。 たくさん着込んでメジロのように膨らみながら、一緒に春を待ちたいと思う。

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2010.02.06

同じもの

昨夜テレビで『ポニョ』をやっていて断片的に見ていたら、「半魚人」という言葉が出てきて、思わずびっくりした。 なんだかすごく久し振りに耳にした気がする、「半魚人」という単語。

『ますたあ』とそのことを話していて、「半魚人」と「人魚」ではずいぶんイメージが違うよね、という流れになり、笑う。 「人魚」は容姿端麗で平和的関係が築けそうだが、「半魚人」だとヌラヌラした化け物のイメージで、逃げなくちゃいけないんじゃないかと思う。

言われてみれば「半人魚」という単語も使わないしなあ。

・・でも、「人魚」も「半魚人」なんだよね。 イメージは不思議だ。

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誰のせいでもないのか

父が尿路結石を持っていることは、以前から指摘されていた。 が、このところ痛みの訴えがひどく、泌尿器科で詳しく調べてもらったら、膀胱内にたくさんの石があって、根治には手術しかないとの結果。

現在でこそ『胃ろう(おへその近くから胃に直接通じる穴)』を作って、強制的に必要な栄養と水分と飲み薬等を流しこんでいるので過不足は無い筈だが、それ以前は数年にも渡って水分摂取不足の状態が続いていた。 とにかく飲み物を嫌がったのだ。 水やお茶はもう論外で、何とか気分をなだめようとジュースやコーヒーでだましだましすすめたり、ご飯を全粥にしたりといろいろ工夫をしたし、施設内でも様々な試行錯誤が繰り返されたものの、「嫌なものは嫌!」とばかりに飲んでくれなかったのである。 ゼリーなんかを増やすと今度は食事が入らなくなるしで、本当に手を焼いた。 そもそも何故にそれほど嫌がるのかでさえ、結局分からないままであった。 施設の医師によると、認知症が進むことによる一種の拘りなのではないか、という解釈だったが。

普通の人が相手なら、どうして水分を摂る必要があるのかをちゃんと説明して納得してもらえば、本人の好き嫌いに係わらずある程度は水を飲んでもらえる結果が期待できるし、どうして嫌なのかが分かればこちらも対策が立てられる。 また、どうして水を飲まなくてはならないかが理解されれば、自ずから習慣は変えられる。 しかし、父は認知障害のために通じなかったり、表現できなかったり、考えられなかったり、数分後にはすっかり聞いた話を忘れている状態だったり、自分の我儘を制御することができなかったりして、つまりは目の前のことしか頭になく「誰が何と言おうが、嫌なものは嫌!」に終始してしまっていた。 で、血液検査をすれば多血(血液中の水分が不足した状態、ドロドロ血とも呼ぶのか。)だし、膀胱炎は頻発するし、挙句の果てに、結石をたくさん作っていたということだ。

「だからあんなにみんな口を酸っぱくして言ったじゃないの。」などという理屈は通じる筈もない。

今は痛みの原因が結石であるということすら何回聞いてもすぐに忘れてしまい、理解できていないみたいだし、とにかく目の前の痛みが苦痛で、「痛い!痛い!!」と大騒ぎ。 人ごみの中、駄々をこねて泣き叫ぶ子供に近い。

で、手術となればまた入院で、多分父の状態では石を粉砕する処置を受けるにしても、自分でじっとしていることができないからそれなりの麻酔が必要で・・と、医療費が発生する。 自分たちが支払うお金云々のことを問題にしているのではなくて、その大半を社会保険で支払ってもらっていると思うと、本当に「世間様に足を向けられない」ともいうべき状況なことが、私にとっての問題だ。 自分が生活習慣の改善を拒んだことによって病気になり、それを他人の税金で治療してもらう・・、それってどうなんだろうと、あらためて思ってしまったのだ。

認知障害だから仕方がないと言えなくもないなだろうが、逆をとれば、全面的に判断ができない状況でもなく、ある程度自分で選びとれる中で飲むことを拒み続けてきたのだし。 何処までが本人が選びとった結果の苦痛なのか、どう線引きをすればいいのだろう。

これは考えてしまうと非常に広がりの大きな問題で、例えば生活習慣病の情報がこれだけ溢れているにも拘らず、生活を見直そうとしなかったり、見直せなかった人たちが発症し、それらの多くは保険という公費で治療されている。 それでも年齢が若ければ、治療を受けることでまた働いてもらい、社会的にお金を産んでもらえるという期待で成り立っているだろうが、じゃあ高齢者はどうか、とか、いったいどの病気のどこまでが自分で防ぎ得たもので、どこからがやむを得なかったのかの線引きは不可能、とか。 とにかくどこまで社会で面倒をみるべきで、どこからが自己責任の範疇になるのか、もうわけが分からない。

こんなことで多額の出費を社会に強いてしまって良いのだろうか? だからと言って、無理強いしてこのまま治療を受けさせなければ、それは私のエゴという名の責任の放棄になるだろうし、何よりも激しく痛がる父を目の前にして無視し続けるなどできる筈もなく、その前に私の気がおかしくなりそうだ。

なんだかんだ言っても、結局は、社会に甘えてすがって治療を受けることになるのだと思うけれど、私の心の中の葛藤は消えない。

父が暮している現状の中でこの手の葛藤は尽きることが無く、いつも私の心を包み込んでいる。 理屈が通らない因果応報のツケに付き合わなければならないストレスへの対処を、未だに私は学べていないようで、がっくり。

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2010.02.05

本でフード・ジャーニー

図書館の新着案内を見てタイトルに惹かれ予約を入れたのだったが、引き取りに行って想定外の大きさと重さに驚かされた。 まるで画集のようだ。 いや、画集で正しいと言えるかも知れない。

ナショナル・ジオグラフィック社がまとめた「世界の食を愉しむ Best500」は、食べることや料理が好きな人には文句無しの楽しさだと思う。 ありとあらゆる国の食材・料理・市場・酒・レストランが次々と紹介されている。 社が元々写真の質の高さに定評を持つことを随分昔に片岡義男氏のエッセイで読んで以来、社の写真を目にする度にいつも思い出すことではあったが、その力が何の惜しげもなく集約されている。 色鮮やかな食材や料理は当たり前のものとして、畑や海や建物といった光景や、そこで働く人々の表情に至るまで、これでもかという迫力だ。

食の背景には必ずそこの人々の営みがあり、文化があり、日々の生活がある。 現地の食べ物を通じて垣間見える人々の暮らしに思いを馳せるのも、また楽しい。 旅行者の目線で、訪れるに相応しいシーズンや、ちょっとしたアドバイスが織り込まれているのもオツである。

全く疲れないから、外出がままならない方や長期療養が必要な方へのプレゼントにしても、きっと喜ばれると思う。 私も、「これは借りてくる本ではなくて、手元に置いて思い出した時にぱらぱらめくりたい本だな」、と、思った。 が、私には高価なので躊躇する。 定価の7429円は正直ちょっとシンドイな。

●「一生に一度だけの旅 世界の食を愉しむ Best500 (FOOD JOURNEYS of a LIFETIME)」 日経ナショナルジオグラフィック社 2009年初版

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2010.02.02

積雪

この冬初めて雪が積もった。 薄っぺらであっても、銀世界はそれなりにきれいだ。 雪が積もると土地の境界が消えて、全部フラットに繋がったように見える。

どれだけの人が亡くなったのかも分からないというハイチの地震。 大方の予想を覆して理事に当選した相撲の親方。 地検から繰り返し事情聴取を受けている現役国会議員。 鍋をつつきながら晩酌をする私。 どれもこれも、現実で、それぞれの現場だ。

とても広い範囲で繋がり影響を及ぼしあっているように思える時もあるのに、実はものすごくパーソナルに感じられることもあり、情報は本当に不思議だと思う。

雪の積もった景色をガラス越しに眺めながら、世界と自分、他人と自分の境界について考えていた。

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2010.02.01

イタリアンを食べて思う

あちらこちらのお宅の庭先で梅の花が咲き始めたのをほっこりした気分で見とれていたというのに、今日の天気予報にはしっかり「雪だるまマーク」が書かれている。 そう簡単には春にさせてもらえない。 「恵方巻き」ののぼりも冷たい雨に濡れてしっぽりしているだろうか。

過日『ますたあ』とイタリアンを食べてきた。 「サロバトーレ・クオモ」で鍛えられた方だそうだ。 大きな石焼き窯で短時間に焼き上げたピザは上出来で、打ち粉が良い感じに焦げて香ばしいのが嬉しい。 ワインが飲めない私は、前菜はハートランドの生ビールがお伴。 その後、フロアでサービスに当たっているおねーさんの、よく気を利かせてくれるチーフと思われる方に内緒で頼み込んで、バックヤードに見えていたマイヤーズをショットで出してもらい、「ブルーチーズと無花果のピザ」に合わせて楽しみ、グラスに残った最後の数滴はドルチェの「ババ」に振りかけて楽しませてもらった。 こんな注文をする客もいないだろう、どのグラスでマイヤーズを出すべきか内部で相談してくれているのが分かり、手間をかけさせてしまい申し訳ないと心の中で詫びる。 結局はシェリーグラスで届けられた。 シェリーグラスでラムを飲むのは初めてで、なかなか面白い経験。 メニューにもバックヤードにもシェリーは見当たらなかったけれど、いったい何処から持って来てくれたのだろうか。 おまけだと言って、ピザ生地の切れ端をさっと揚げて粉砂糖を振りかけた素朴なベニエを出してくれたのも嬉しかった。

そのお店、雰囲気を出すためか、お客を迎えたり送り出したり、注文フロアから奥に通す時などわざとイタリア語を使っている。 ・・あれは聞いているだけでも何となく照れますなあ・・。 一部の居酒屋さんや回転寿司店でも決まり文句を叫んでいることがあって、客としてどんな顔をしてその場に居ればいいのか、なんとも座り心地の悪いむずむずするような思いをすることがあるけれど、どうしても「そこまでやってくれなくても」みたいな気分になってしまって照れくさい。

美味しいちゃんとしたお店が経営を成り立たせてゆくためには、そこそこの人口と経済状況が必要なのだな、と、街に出かける度に思う。 その代わりに手に入れているものもたくさんあるから、どちらがどうとは言う権利もないのは百も承知で、それでもたまにこんな時間を持つために数十キロ移動する割り切れない自分はエコじゃないなあ。

季節が移って食材が変わったら、また行こう。 お店が無くなったりしないことを望みつつ、結構混んでいたので大丈夫だと期待したい。

 

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