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2010.02.25

その軽さは哀しくもあり、満ち足りたものでもあり。

朝、『ますたあ』が小鳥が死んでいるのを見つけた。 そのまま放置して荒らされてしまうのも何なので、土に帰してあげることに。 庭の隅の地面に穴を掘ってから、亡骸を迎えに行く。

メジロだった。 手のひらに乗せると、驚くほどに軽い。 翼を広げた姿勢のままで硬直していた。 そっと外側から包むようにして翼を閉じて、しばらく押さえていたら落ち着いたので、餌場になっていた山茶花の赤い花を一輪手向けて、土を被せる。

あっけなく死んでしまったメジロの命、その亡骸の軽さが少々ショックだった。 鳥の骨は空を飛ぶための軽量化で中空になっている、なんて、昔、生物の時間に習ったことを思い出しながら、それでも命がここまで軽くなくても良いような気がして、ギャップだったのだ。 人間はついつい亡骸の物理的重さと、命や魂の扱われ方の重さとを混同してしまう。

看護師のトレーニングを受けていた学校で受けた教育は、キリスト教精神に基づいていたので、讃美歌を唄う機会がたくさんあった。 入学してすぐ、「♪命のために何を食べても、ただ少しさえ(寿命を)延ばせない。 体のために何を着て(い)ても、明日はかまどに投げられる」、という歌詞に同級生が驚いて、「キリスト教って、残酷で恐ろしい事を言うんだね」と言っていたのを思い出した。 歌詞の内容は、つまり、『余計な心配をしたところで、運命は全て神様がお決めになるんだから、考えたってしょうがないものに心を惑わされずに、日々を丁寧に暮しなさい』という前向きな意味合いなのだったが、確かに「かまどに投げられる」と言われればギョッとするし、そこだけ切り取ってしまえばひどくグロテスクだ。

神様の視点から見たら、きっと人間だってちっぽけで、メジロの亡骸のように軽いものに違いないと思う。 その謙虚さを忘れたらお終いなんだろうな、とも、何となく思う。 どうせちっぽけで軽いんだから、気負わずに与えられているものに満足して、のびのび生きてゆけば良いという気にもなる。 他の全てと比較して人間だけを特別視したくない気持ちが、自分の中にはいくらか確かに存在している自覚もある。 だからと言って仙人のような生活を送れないのも、また哀しい現実なのだが。

メジロの亡骸の軽さが、やけに胸に染みた。 図らずも、イースターの準備期間である四旬節に相応しいような黙想の機会になってしまい、苦笑した。 

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