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2011.04.26

ヨシダ・ソース

輸入食材を扱うお店を眺めるのが好きだ。 「なんじゃこりゃ?」みたいな商品を見つけるとワクワクする。 特に素材の水煮缶やシロップ煮、調味料やよく分からないソースの類は、もう見ているだけで楽しくて仕方が無い。 で、いくつか「怖いもの見たさ」ならぬ「怖いもの食べたさ」の誘惑に負けて買ってしまうのが常。

かと思えば、いつも気にしているのに迷いつつも買わなかったものもあって、その代表格が『ヨシダ・ソース』だった。 アメリカでテリヤキと言えばヨシダと決っているほどに、現地では有名だと聞くが、照り焼き味は砂糖とみりんと醤油で簡単に作れるし、普段着の和食とは切っても切れない関係で食卓にもしばしば登場するから、わざわざ買うには踏ん切りがつかなかったのである。

そんなこんなしている間に、かれこれ20年近くが経過し、そろそろ踏ん切りをつけたいと思っていた矢先、ちょっとしたきっかけを得たので、えいやっ!とばかりに一瓶買ってみた。

結果としては「甘さの強い照り焼き味」・・そのまんま。 ちょっと醤油を足さないとウチではつらい。 でも、煮詰めなくてもトロミが付いている様子は、使いようによっては便利なのかもしれない。 不思議なのは香りで、これは何か特別な良い香りがするのだ。 醤油とみりんと砂糖を煮詰めただけでは、こんな芳香はしてこない。 スモーキーなものではなく、どちらかというとバニラっぽい甘い香りで、食欲がそそられる良い香り。 香りの調合は完璧だ。 魚介類を相手にした時にも、この芳香のおかげで生臭さが一気に消える。 外国の方は魚の匂いには敏感なので、評価が高いのも頷けるが、逆に、日本人の感覚から言わせて貰うと、魚が魚たる所以まで消されてしまう印象で、「この味でこの香りだったら、素材に何を使おうが同じ味に出来上がってしまう」、と、感じる。 たかが照り焼きでも、何を美味しいと感じ、何が邪魔だと思うかで、好みや国民性がはっきりと現われる様で面白い。

とりあえずオーソドックスに鶏やブリ・厚揚げなどと合わせてみたが、まだ相当量残っているので、色々とチャレンジしてみたいと思っている。 海外の「じゃじゃ馬調味料」をどのように調教し手懐けてゆくかも、ある意味においては腕の見せ所か。

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2011.04.20

「ひとりじゃない」と言うけれど

実は昨年の大晦日に(多分私の人生で初めて)、「紅白歌合戦」をちゃんと見た。 それこそ私が幼い頃から唄い続けているような大御所さんには、「ああそれなりのお歳になったのだな」などと思い、初めて見るような若い歌手には、「どういう曲が流行っているんだろう?」という気持ちで、それなりに楽しんでいたのだが、ひとつ、とても気になったことがあった。 特に若い歌手の曲の中に、『(君は)ひとりじゃない』とか『ひとりにしたりはしない』というフレーズが、表現を変えてたくさん出てきていることに気づいたのだ。 たくさんの人が違う曲を歌っているのに、みんなして『ひとりじゃない』なので、「またか!」と、なんだかとても違和感を覚えた。 そして、「ふーん、今の若い人はみんなそんなにひとりが嫌なのか。」と、思った。

そして、今回の震災。 またしても誰も彼もが「ひとりじゃない」の大合唱で、ふと「紅白歌合戦」のことを思い出した。 「ひとりじゃない」のフレーズを聞いたり読んだりしない日は無かったんじゃないだろうか。 結果、またしても私の中では、強い違和感だけが取り残されている。 いや、応援メッセージを送ること自体に別に異論は無い筈なのだが。

結論を書いてしまうと、「人は誰しも、ひとりじゃないか。そんなの当たり前だろう。」ということだ。 ひとりで生まれてこなかった人が居るだろうか? ひとりじゃなく死んだ人を見た人が居るだろうか? 心を寄せることができても、共感することができても、ひとつの価値観を共有することができたとしても、ひとりひとりは別々の筈で、隣の人をそのまんま経験したり共有することはできない。 違うことを考え、違う人生を生きている人同士だからこそ、相手を思いやる気持ちに価値があり、それが相手を慰めるの力を生むのではないのか。

せいぜいこちら側から言えるとすれば、「あなた(方)のことを案じている者がここに居ます。」とか、「あなたのことを気にかけています。」であって、「あなたはひとりじゃない。」では、あまりにおこがましくはないか。 いったい何様か?と返したくなる。

単に「気の合う誰かと一緒に過ごすこと」がみんなの言う「ひとりじゃない」状態なのだとしたら、あまりに薄っぺらい。 いつも一緒に過ごすか、メールやおしゃべりを途切れることなく続けて、相手との安全な関係を言葉で確認し続けなくては不安でならないだろう。 別々の行動、沈黙やひとりでじっくり考える時間は、相手への信頼が確立されていなければ不可能だからだ。 お互いが自分の持つ寂しさを背負った上で寄り添うからこそ、相手の寂しさにも思いを馳せることができるのではないか。 自分が自分の力で立っていない人は、どんなに足掻いたって相手を支えることはできない。 共倒れになる。

恋人が居ようが居まいが、家族が在ろうが無かろうが関係なく、みんな本質はひとり。

極端なことを言えば、私は、ひとりで生きることのベースにある寂しさをしっかり背負って独立できていない相手を、心から信頼することはできない。 それを背負えないと、生きてゆく責任も果たせないし、自由も全うできないと思うから。 だから、「あなたはひとりじゃない」という表現を使いたくないのだろう。 「誰だってひとりですよね。 ひとりは寂しいし自分で決めなくちゃならないし、大変ですよね、うん。 でも、あなたのことを気にかけていますよ、わたし。」・・これが関の山。  

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2011.04.04

お酒は感情の溶剤でもある

いろいろと

思うところはあるけれど

黙って呑もう Twice up

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2011.04.03

文末は大事

ちらほらと桜も咲き始めて、春なんだなあ、と、どこか他人事のように思う。

今年もウグイスが家の周囲を回りながらきれいな鳴き声を響かせているが、早朝にやって来る決った一羽が、どうも妙なのだ。 一般的な(?)ウグイスは当然『ほーほけきょ』と鳴くのに、それは何の鳥か分からないくらいにめちゃくちゃに鳴き散らかしている。 歌を唄っている様でもあり、おしゃべりしている様でもあり、ぴーちくぱーちく囀り続ける。 何か一定の鳴き方を繰り返すのではなくて、息が続く間ひっきりなしに喋っている感じ。 そしてお決まりのように最後に『けきょ』が付く。 ウグイスなのか、ウグイスの真似をしている誰かなのか。 とりあえず『けきょ』だけは、立派なウグイスの『けきょ』なのだが。

まだ夜明け直後で薄暗い時間なのに、やけに元気な声で囀りまわって、その上に妙な鳴き方だから、こちらは気になって目が冴えてしまい、最後に『けきょ』などと言われれば、「そこに『けきょ』だけ付くんかい!!」と、いちいち突っ込みたくなってしまうし、その後に二度寝すると目覚めがすっきりしないし。 で、参っている。

文末までちゃんと聞かないと文章の意味が違ってくる日本語の国に鳴く、正に日本的なウグイスなのかも知れないが、ウグイスならウグイスで正しい鳴き方を誰かにちゃんと教わって欲しいものだ。 それとも、ウグイスとしては、文末に『けきょ』さえ付ければウグイス語として成立してしまうものなのだろうか。 もしかして、ウグイス語も進化しているのか、「超やばくね?」みたいに。 ・・まさかね。

なにかと落ち着かないのも、思わず春のせいにしたくなってしまう。

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