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2011.04.20

「ひとりじゃない」と言うけれど

実は昨年の大晦日に(多分私の人生で初めて)、「紅白歌合戦」をちゃんと見た。 それこそ私が幼い頃から唄い続けているような大御所さんには、「ああそれなりのお歳になったのだな」などと思い、初めて見るような若い歌手には、「どういう曲が流行っているんだろう?」という気持ちで、それなりに楽しんでいたのだが、ひとつ、とても気になったことがあった。 特に若い歌手の曲の中に、『(君は)ひとりじゃない』とか『ひとりにしたりはしない』というフレーズが、表現を変えてたくさん出てきていることに気づいたのだ。 たくさんの人が違う曲を歌っているのに、みんなして『ひとりじゃない』なので、「またか!」と、なんだかとても違和感を覚えた。 そして、「ふーん、今の若い人はみんなそんなにひとりが嫌なのか。」と、思った。

そして、今回の震災。 またしても誰も彼もが「ひとりじゃない」の大合唱で、ふと「紅白歌合戦」のことを思い出した。 「ひとりじゃない」のフレーズを聞いたり読んだりしない日は無かったんじゃないだろうか。 結果、またしても私の中では、強い違和感だけが取り残されている。 いや、応援メッセージを送ること自体に別に異論は無い筈なのだが。

結論を書いてしまうと、「人は誰しも、ひとりじゃないか。そんなの当たり前だろう。」ということだ。 ひとりで生まれてこなかった人が居るだろうか? ひとりじゃなく死んだ人を見た人が居るだろうか? 心を寄せることができても、共感することができても、ひとつの価値観を共有することができたとしても、ひとりひとりは別々の筈で、隣の人をそのまんま経験したり共有することはできない。 違うことを考え、違う人生を生きている人同士だからこそ、相手を思いやる気持ちに価値があり、それが相手を慰めるの力を生むのではないのか。

せいぜいこちら側から言えるとすれば、「あなた(方)のことを案じている者がここに居ます。」とか、「あなたのことを気にかけています。」であって、「あなたはひとりじゃない。」では、あまりにおこがましくはないか。 いったい何様か?と返したくなる。

単に「気の合う誰かと一緒に過ごすこと」がみんなの言う「ひとりじゃない」状態なのだとしたら、あまりに薄っぺらい。 いつも一緒に過ごすか、メールやおしゃべりを途切れることなく続けて、相手との安全な関係を言葉で確認し続けなくては不安でならないだろう。 別々の行動、沈黙やひとりでじっくり考える時間は、相手への信頼が確立されていなければ不可能だからだ。 お互いが自分の持つ寂しさを背負った上で寄り添うからこそ、相手の寂しさにも思いを馳せることができるのではないか。 自分が自分の力で立っていない人は、どんなに足掻いたって相手を支えることはできない。 共倒れになる。

恋人が居ようが居まいが、家族が在ろうが無かろうが関係なく、みんな本質はひとり。

極端なことを言えば、私は、ひとりで生きることのベースにある寂しさをしっかり背負って独立できていない相手を、心から信頼することはできない。 それを背負えないと、生きてゆく責任も果たせないし、自由も全うできないと思うから。 だから、「あなたはひとりじゃない」という表現を使いたくないのだろう。 「誰だってひとりですよね。 ひとりは寂しいし自分で決めなくちゃならないし、大変ですよね、うん。 でも、あなたのことを気にかけていますよ、わたし。」・・これが関の山。  

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コメント

厳しいご意見ですね。。。(微笑)

震災直後から、オブラートでくるんだような情報と「がんばろう」「絆」「応援しています」「一人じゃない」などのメッセージに、ちょっと違和感を持ってしまう私です。

それはそれでいいんだろうなぁと思いつつ、自分では情報を集めたりもするけど、知れば知るほど、黙っていたくなる昨今です。

今日は聖金曜日だわ。

投稿: かおる | 2011.04.22 10:44

かおるさん

厳しいですか・・求めすぎていますかね。 「多分これは通じないだろうな」と思いつつのアップでした。 時々そういう記事もあります。 「紅白歌合戦」を見ながらの違和感が、こんな時にこんな形ではっきり何処かに繋がったのは、自分でも驚きでした。 思いもよらない場所への帰結。 何がどうなるか分からないものです。 そうだったのか、みたいな。

やっとイースターが来ますね。
そういえば、日本では「聖金曜日」が英語圏では「Good friday」で、このgoodが以前はとても疑問でした。 なんでご災難の最たるものがgoodなのかと。(補足 キリスト教ではイースターつまり復活祭の直前の金曜日を、イエス・キリストが十字架にはりつけになって体制派によって死刑に処されたことを象徴する日として、これを特別に記念します。 それが聖金曜日と呼ばれます。) 単語も含めて言葉や表現は、その背景にある考え方を理解していないと、とんでもなくちぐはぐになることを覚えておかなくては、と、思うわけです。 逆に、どんな言葉を使うかは、図らずもその人の生き方や考え方の集約を明らかにしたものになるのでしょう。

・・大斎なので、お昼ご飯何にしようかな、と、考えつつ。

投稿: リーボー | 2011.04.22 11:37

>厳しいですか・・求めすぎていますかね。 「多分これは通じないだろうな」と思いつつのアップでした。 

うーーん、どうなんでしょう。
少なくとも、私はわかったつもりですけどね。
ひとりの寂しさ、苦しみ、責任を知っている人とでなければ、本当の関係は結べないから。
大抵の場合、傷や闇が深いほど、それをわかってもらおうとするのは無理ですね。


どんな言葉でも、言われる相手や流れ、出会った時によって違うよね。
まあ、私は連呼されるのは性に合わないみたい。
みんながいいと思っているものをあまりよいと思わないとかね。ひねくれているのかもしれないです。

でも、そういうメッセージに救われる人もいるんだろうなと思う。

受難日の祈祷会に行きました。
神さまは一人一人に声をかけ、一人一人と向き合おうとしてくださっているのでしょう。
神さまに問われている関係において、人は一人だし、神さまと向き合っている関係においては、ひとりじゃない。

投稿: かおる | 2011.04.22 17:18

かおるさん

そうですね、同じ言葉でもその場の状況によって、相手に伝わる内容はかなり変わってきますね。 歌詞やメディアで流されるメッセージの多くは一方通行なので、余計に気になったりしたのかも知れません。

連呼されてしまうと「うるさーい!」の気持ちが前面に出てしまい、内容について考える本来のすべきことが置き去りにされることが、私にもあります。 逆効果という状況になっていることも。 あと、みんながいいと言っているものは、「とりあえず疑ってみる」みたいな・・ははは。

書き込んでくださったコメントの最終段落については、ここで書くと長くなりそうですし、ちょっと考えたいこともあったりしますので、またの機会にさせてください。

投稿: リーボー | 2011.04.22 21:04

>最終段落については、ここで書くと長くなりそうですし、ちょっと考えたいこともあったりしますので、またの機会にさせてください。

まじめに考えてくださりありがとうございます。
確かに長くなりそうですね。
私にとってもこの辺りの話は、長らく考えてきたところがあったりして、一口には言えないかも。
まったく急いでいませんので、また、時間がある時にでも。。。(^^)


投稿: かおる | 2011.04.23 11:03

かおるさん

ありがとうございます。 お言葉に甘えて、そうさせていただきます。

こう・・何と言ったらいいのか・・、「ゆっくり醸し出したいテーマ」って存在しますよね。 時間をかけたり、現在進行形で経験を積むこと自体が、既にご馳走みたいな・・。(あー、やっぱり上手く書けない! 止めておきます。)

投稿: リーボー | 2011.04.23 12:59

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