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2011.08.27

そうだったんだ

たまに、いや、結構な頻度で目にするステッカー。 車のリア・ウィンドゥ辺りに、後続車からよく見える感じで貼ってある「Baby in car」。 あれは貼ることにどういう意味があるのか、全く理解していなかった。

「子供も一緒だから(何か失礼なことがあっても、ちょっと)大目に見てください」とか、「急ブレーキをかける危険があります」とか、そんな意味だと思っていた。 後続車を運転する立場からすれば、「前の車に万一ぶつけると、損害補償額が大きくなりそうだな」などと思い、車間距離を多めにとったりするような、そんな感じだったり。

ところが、全く違っていたらしい。 あれは、事故に巻き込まれた時にレスキューの人に知らせる為とのこと。 体の小さい子供はシートの隙間にはまってしまったりして見落とされ、救助してもらえなかったりするリスクが高くなるので、「車内のどこかに子供が残されているかもしれない」というサインとなるものだと。

知らなかったよ、そんな意味だったとは。

中にはステッカー自体に損害賠償保険付きという商品もあるとのこと。 ふーん、そんなことになっていたのか。 (検索かけると沢山出てきますので、興味のある方は調べてみるとよろしいかと。)

物事を知らなさ過ぎとはいえ、なかなか驚きだった。

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2011.08.20

夏の読書

● 山岸明子 著 「こころの旅 発達心理学入門」(新曜社 2011年6月初版)を読む。 発達とは「年齢と共に心身の構造や機能を変化させていく過程」だそうで、「消失・衰退のプロセスを含む」もので、「高齢者が身体的機能を衰退させていくのも発達的変化である」のだそうだ。 思わず「へぇ~」、と、固まった。 前向きで嬉しいじゃないか! こういう、自分にとって『目から鱗』的な内容に出会うと、ゾクゾクするような嬉しさが込み上げてくる。 たまには昔習った(筈)の知識のかけらも、色々な意味で更新しておかないと、な。 この本はとても解りやすく、読んでいてストンと身近な経験に落ちてくる感じが良い。 おすすめ。

● 急に気温が下がって、庭でも秋の虫が鳴き始めた。 相変わらず極端な気候。 変化が大き過ぎやしないか。

● 何故かちゃんとした根拠もないままに、いつかは読まなくては、と、思い続けてきた、島田雅彦氏の『無限カノン 3部作』を一気に読んだ。 読み終えて、私が何故読まなくてはならなかったかの理由が、よく分かった。 客観的な表現でここに書くことは相当に難しく、相応しい表現力も持ち合わせていないのが、とても残念だ。 読んだところで、通じる人と通じない人とがはっきりと分かれそうではあるけれども、そこには「恋を永遠のものとする為の方法」が解説されていた。 「彗星の住人」 「美しい魂」 「エトロフの恋」 全て新潮社刊。

● 知っていることとできることが別のものであるように、自分のしてきたことの意味を、後になって知ることもある。 「こんなところに繋がっていたのか?!」と、理解した時のゾクゾクする感じは、冒頭に書いたそれと同類だ。 だからこそ、本を読むことは楽しいのかも。  

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2011.08.08

梅干から食育について考える

ようやく梅干(正確には梅漬けの状態)を干す。 3日間連続した晴れが必要とのことで、雨と湿度の様子を伺っていたら、いつの間にか8月になってしまっていたのだ。 朝から梅干をザルに並べて日向に出し、赤紫蘇の葉は一枚ずつ広げて干し、そうこうしている間に梅干を片っ端からひっくり返し、洗濯もして、と、なんだかんだ慌しい感じになって、気付けばもうお昼ご飯の時間だ。 いやぁ昔の主婦たちはみんなこんなに時間や手間のかかることをちゃんとやっていたんだな、と、つくづく思ってしまった。 今では、選びさえしなければどこのスーパーでも梅干が、それほど高い値段でもなく簡単に買えてしまう世の中なわけで、工業化とか産業革命のこととか、漠然と昔学校で習ったことを思い出しながら、その恩恵に思いを馳せていた。

自分で作った梅干ならば、そこそこ酸っぱくてしょっぱくても文句を言いつつ食べてしまうのだろうけれど、買ってきたものが思うような味の梅干でなかったら、簡単にポイと処分してしまう人が出てきても不思議はないだろうな、とも、思う。 きっとそこには思い入れの差がある。 別に梅干に限ったことではなくて、生鮮食品でもお菓子でも、衣類でも雑貨でも、身の回りの全ての物がそうなのではないか。 グリーンカーテンで成ったゴーヤは、やっぱり苦くても食べるだろう。 でも、お店で出されたゴーヤチャンプルーは、嫌がる子供もいるかも知れない。

きっと思い入れが形成されるためには、ある程度の時間と、手間隙の先行投資が必要なのだ。 人はそれに変わるお金という新しい価値を手にしたが、動物的な心の部分はさほど昔から変化していないと見えて、やっぱりある程度の時間とゆっくりな変化を求めているような気がする。 物事の結果に納得するためには、順番にプロセスを踏むことが大事なことは、実は変わっていない。 高価な商品を手に入れた場合でも、まとまったお金を蓄えるために費やした時間が長いほうが満足感も高いような気もするし、(滅多にないが)高くてもポンと買ってしまったものは、買った時点で満足してしまったような記憶もある。

自分で手間隙かけなくても、親や家族・親戚が手間隙かけて作っている様子を目の当たりにして育てば、幼い子供たちも疑似体験が出来たかも知れないが、もうこの時代、みんな働きに出てしまっていては、その機会もなかなか得ることは難しいだろう。 食べ物を育てて収穫するなどというレベルはもっての外、料理にかける時間だって確保できないのが現実なのではないか。 ハレの日でなくても外食は当たり前だし、買ってきた物をそのまま並べるだけの食卓だって仕方が無い。 そりゃあ、好みじゃなかったら残しちゃうよね、と、思う。 この料理を食べるだけの思い入れが、既にそこには存在していないのだから。

梅干の面倒を見ながら、本当の「食育」は、お金で結果だけを手に入れずに、食べ物に時間と手間隙をかけて、食べることへの思い入れを形成することなのではないかと、そんなことに思いを馳せていた。

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2011.08.01

日常がワンダーランド

画像で見る種々の天災・人災の様子、読んだり見たりする俗に言うところのニュース・・・全てのものが、あり得ないくらいに強烈過ぎて、逆に漫画チックに感じられてしまう。 不謹慎なのは百も承知で、もう苦笑するしかないというものばかりに思えるのは、受け取る側の私の問題なのだろうか。

それこそ子供の頃から、自動車がどこそこに突っ込む事故などは、数え切れないほど起きているだろう筈なのに、白昼のスーパーマーケットの正面玄関から、何の迷いもないように真っ直ぐがーっと頭から入っていって、しかも、突き当りの壁まで。 ドアだの何だのをなぎ倒して、一台の自動車がすっぽりと収まっている写真。 頭だけ半車両分とかお尻だけ突っ込んでいるなら解るのだが、あそこまで見事に。

すごい高さの陸橋から中刷りになっている中国高速鉄道の車両。 埋めただの掘り返しただの。 新潟の豪雨で橋脚ごと押し流された橋の残骸。 その上、この場に及んで「9月以降も。」などと言い始めるこの国の首相。

世の中を一体どういう言葉で括ればよいのか。

霧が立ち込めている雨上がりの夕方、庭の隅にある大きな楠の根元になにか居るのを見つけた。 野ウサギが一匹。 狸かハクビシンかと思ったが、あの耳は誰が見てもやっぱりウサギだ。 凛と背筋を伸ばして佇んでいる。 「ウサギが居るよ。」 「えっ?どれどれ?」 「本当だ。 信じられない。」 「しかも、逃げもせずどっしりと。」 「うん、こんな近くで野生のウサギを見たこと無いね。」

『ますたあ』が声を潜めて言う。 「これって、幻じゃないよね。」 私は答える。 「多分ね。 だって二人で見てるもん。」 「そうだよね。」 「うん。」

あのウサギを追いかけていったら、アリスのように別の世界に落ちてゆくのだろうか。 それとも今見ている全てが実は既に別の世界で、本来の世界に戻る扉が見つかるのだろうか?

時々現実かどうか分からなくなる瞬間があって、怖い。

 

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