梅干から食育について考える
ようやく梅干(正確には梅漬けの状態)を干す。 3日間連続した晴れが必要とのことで、雨と湿度の様子を伺っていたら、いつの間にか8月になってしまっていたのだ。 朝から梅干をザルに並べて日向に出し、赤紫蘇の葉は一枚ずつ広げて干し、そうこうしている間に梅干を片っ端からひっくり返し、洗濯もして、と、なんだかんだ慌しい感じになって、気付けばもうお昼ご飯の時間だ。 いやぁ昔の主婦たちはみんなこんなに時間や手間のかかることをちゃんとやっていたんだな、と、つくづく思ってしまった。 今では、選びさえしなければどこのスーパーでも梅干が、それほど高い値段でもなく簡単に買えてしまう世の中なわけで、工業化とか産業革命のこととか、漠然と昔学校で習ったことを思い出しながら、その恩恵に思いを馳せていた。
自分で作った梅干ならば、そこそこ酸っぱくてしょっぱくても文句を言いつつ食べてしまうのだろうけれど、買ってきたものが思うような味の梅干でなかったら、簡単にポイと処分してしまう人が出てきても不思議はないだろうな、とも、思う。 きっとそこには思い入れの差がある。 別に梅干に限ったことではなくて、生鮮食品でもお菓子でも、衣類でも雑貨でも、身の回りの全ての物がそうなのではないか。 グリーンカーテンで成ったゴーヤは、やっぱり苦くても食べるだろう。 でも、お店で出されたゴーヤチャンプルーは、嫌がる子供もいるかも知れない。
きっと思い入れが形成されるためには、ある程度の時間と、手間隙の先行投資が必要なのだ。 人はそれに変わるお金という新しい価値を手にしたが、動物的な心の部分はさほど昔から変化していないと見えて、やっぱりある程度の時間とゆっくりな変化を求めているような気がする。 物事の結果に納得するためには、順番にプロセスを踏むことが大事なことは、実は変わっていない。 高価な商品を手に入れた場合でも、まとまったお金を蓄えるために費やした時間が長いほうが満足感も高いような気もするし、(滅多にないが)高くてもポンと買ってしまったものは、買った時点で満足してしまったような記憶もある。
自分で手間隙かけなくても、親や家族・親戚が手間隙かけて作っている様子を目の当たりにして育てば、幼い子供たちも疑似体験が出来たかも知れないが、もうこの時代、みんな働きに出てしまっていては、その機会もなかなか得ることは難しいだろう。 食べ物を育てて収穫するなどというレベルはもっての外、料理にかける時間だって確保できないのが現実なのではないか。 ハレの日でなくても外食は当たり前だし、買ってきた物をそのまま並べるだけの食卓だって仕方が無い。 そりゃあ、好みじゃなかったら残しちゃうよね、と、思う。 この料理を食べるだけの思い入れが、既にそこには存在していないのだから。
梅干の面倒を見ながら、本当の「食育」は、お金で結果だけを手に入れずに、食べ物に時間と手間隙をかけて、食べることへの思い入れを形成することなのではないかと、そんなことに思いを馳せていた。
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