なんだかピンとこないけど。
(おせち料理を作り揃えて、年越し蕎麦も食べて、お正月用の食器も準備して、屠蘇散も漬け込んで・・でも、年越しの実感がいまひとつ湧かないのは何故なのか。)
月並みではありますが、今年もご来訪いただきまして、どうもありがとうございました。 数時間後に幕開けする新しい年に、素敵なことがたくさんありますように。 穏やかな年でありますように、祈らせていただきます。 リーボー
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月並みではありますが、今年もご来訪いただきまして、どうもありがとうございました。 数時間後に幕開けする新しい年に、素敵なことがたくさんありますように。 穏やかな年でありますように、祈らせていただきます。 リーボー
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前述の記事ではないが「正しく日常に追われている間に」、もう気付けば今年も数日しか残されていない。 明日からはゆっくりとおせち料理作りに着手する予定で、そうこうしていればきっと自分の気持ちの上でも、新年を迎える感じが作られてゆくことになるのだろう。 今日現在はまだほとんど実感が無いけれども。
クリスマス・イブには教会で夜半ミサの後のパーティがあるというので、準備のお手伝いをさせてもらってきた。 手伝いに参加できる人が参加できる時間に、それぞれ勝手に来て勝手に帰ってゆく。 前の人が作りかけている続きの料理を引き継いで、仕上げて盛り付け、終わらなかったものは私も次の人にバトンタッチしてきた。 いつも最初から最後まで自分で作っているから、こういう作り方は面白く新鮮に思える。 残念ながらパーティに参加していたら最終バスに間に合わないので、実際にどんな味付けになったのか、どんなお皿が並んだのか、全容を知ることができなかったのが残念。 教会に足繁く通って何かに付け手伝ってくださる女性たちの多くは、百戦錬磨の「主婦の達人」揃いだから、もう、安心してお任せ状態だ。 中には料理の準備をする人たちの為に、わざわざお汁粉を炊いて鍋ごと持って来て下さる方もあり、この冬初めてのお汁粉をいただく。 熱々のはじけた小豆からは冬の香りがした。 寒い冬には、あったかくて甘いものはじーんと心と体に沁みる。
教会の外国人コミュニティーの皆さんは、年末に「餅つき会」をするという。 今時日本人でも餅つきをする家は少ないのに。 日本の文化が日本人ではない方々によって伝承されてゆくようで、捻じれた不思議な想いだ。 聞いてみたら、「お餅はみんな大好き。」だそうだ。 「イソベマキ(磯辺巻き)、最高!」だって。 なんだか嬉しかった。
今年も小田和正さんの「クリスマスの約束」を、眠かったけれどちゃんと見た。 まさかBUZZの曲が蘇って聴けるとは思いもよらなかったので、私にとっては何よりのサプライズ・プレゼントになった。 昔のある一時期、テレビのコマーシャルで使われていた曲のバックコーラスは、ほぼ、BUZZかOff courseのどちらかみたいな状況になっていて、両者が混じったり合わさったりして歌っていた曲もいくつかあったように記憶している。
参加者みんなで歌い上げた作品は、一昨年のものよりも今年のほうが、完成度が桁違いに高かったし、アレンジも細部まで作り上げられたものだったけれども、「みんなで文化祭みたいにハチャメチャになりながら何とかこぎつけた感」が少なかっただけに、きれい過ぎて完成されすぎていて、ちょっとだけ残念だった。 (・・って、凄い贅沢な文句つけてますね、私。) お仕事で音楽やっている人達が集まった上手さは、すさまじい。 プロの力を見せ付けられた気分。 ♪愛は~あるのか~い~、ってね。 ありますよ、聞こえましたよ、ちゃんと。 頭の中で「ケンとメリーのスカイライン」がシャーッと走り抜けていきましたもん!(あー、なに書いてんだか。 失礼しました。)
今夜は、しんと冷え込んだ厨房のボウルの中で、干しシイタケが水に泳いでいる。 蓄えたものを放つ時の大きな力で、おせちの御煮しめを美味しくしてもらおう。 ちなみに戻しているシイタケは去年のもの。 新年になったからといって、全てがリセットできるわけではないにしても、せっかく区切りをつける習慣を持っているんだから、気持ちの上ではサッパリしたい。 「状況に係わらず、気持ちは自分の持ち様だ」、と、自分に言い聞かせつつ。
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12月も中旬になってしまい、一体何をしていたかといえば左程のことも無くて自分でもガックリなのだけれど、こういう感覚そのものが年取ってきた証拠なのだろうな、とも思えて、苦笑する。
落ち葉掃きに追われ、上京しながらお歳暮の手配等を済ませつつ、実家に顔を出して両親の様子を伺い、またまたこちらの父が入院してぱたぱたと手続きをして、あとは「今夜何を作って食べようか」とクリスマスカードを書きながら迷い、次に出掛ける機会にやるべきtodoリストを思いつく度に書き出しておき・・そんなものだ。 なんだか情けない。
義父が順調に呆けてきたのは、特別昨日今日に始まった事ではないにしても、入院はそれなりにストレスになっているようで、呆け具合が凄い。 栄養や薬を体に流し込んでもらいながら、本人はいびきをかいていて、起こしても焦点が定まらない視線を泳がせて、意思の疎通もままならなければ、無意識の謎の動作(不穏な無駄な動作)を繰り返すばかりで、ちょっと前まで内容はともかく、形なりにも会話らしきものをやり取りできた様子と比べたら、雲泥の差だ。 もうそろそろ回復期で体力的には余裕が出て来たのか、ベッド上で安静を保てないようで、医療スタッフとしては目が離せないから、少々の抑制を余儀なくされ、重症患者さんが入るナース室直結の病室で治療を受けている。 あー何の為に、誰の為に、とか、働いてくださっている皆さんを含めた社会的負担のことなどと考えてしまうと、こちらにもドドド~!と結論の出ないダメージが来て、昨夜はノックダウン状態だった。 家族だから割り切れないのか、私の中にある中途半端な優しさが邪魔をしている。
頭で解ってはいるのだ。 この世には自分にはどうしようも出来ない物事が確かに存在し、それはどんな結果であろうとも、甘んじて受け入れなくてはいけなくて、いくらじたばたほざいた所で、結果にはなんら影響を及ぼさないことも。 解っているのにどうしてダメージを受けてしまうのか、本当に悔しい。
『ますたあ』にことわって、虎の子の入眠導入剤を一錠飲んで早々に寝た。 年に数回使うか使わないかの薬だから、速攻で効く。 寝て寝て寝たら、朝には元の私に戻っている自覚があったので、一安心する。
こういう過程を経験していること自体が、いつかきっと何かの価値になるのだろうと信じて、目の前のなんだかんだに追われて過ごすのが正しいんだろう。 今日は風が強くて外が荒れている。 またわさわさと落ち葉が積もっているに違いない。 今夜は牡蠣を中華風に炒めようかと思っている。
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この時期には「喪中につき・・」というお決まりの葉書が、毎日ポストに落ちる。 今年は例年に無く届けられる数が多くて、しかも近しい人からのものが目立っている。 いつからということも無く、何とはなしに「自分達もいつの間にか親を看取る世代になったんだなあ」とは感じてはいたが、葉書が届けられることで、それが現実のものとしてまざまざと身近に思えて、ずっしり重たい。 急に冷え込んだ気候と相まって、胸に沁みる。
印字されていた「岳父」という単語に見覚えが無く、調べてみたら「奥様の(実家の)お父様」を指す言葉だそうだ。 既婚者の場合、喪中葉書はご主人の立場で書かれているので、わざわざそのような呼び方になるらしい。 これだけ結婚も夫婦のあり方も男女平等に見える世の中になっていても、まだこんな風に「あちらの家に嫁ぐ」といった昔ながらの形態を引き摺った習慣や言葉が、隠された罠の様に日常の何気ない所に潜んでいるのだなあ、と、つくづく思った。
私と同性の女性で既婚者の友人や知人は、実家のご両親を見送ることになっても、その時にはわざわざ知らせない事がほとんどだ。 男性の既婚者は知らせる方が多いのに。 多分これも嫁という立場故なんだろう。 年末の喪中葉書でいきなり知る事も多くて、「大変な時にお役に立てなかったな」と、後から残念に思いながら祈るしか術が無い。
調べてみれば、後からお悔やみを持って行っても、それを喪主や実家サイドに届けて、それからまた返礼などといった手間を余計にかけることになってしまうので、どうしてもという場合は「忌中お見舞い」という形で、お嫁さんである友人の好物などを贈ってあげる方法があるという。 なんともややこしい感じは否めないが、お嫁さんの立場にある人を慰めてあげたいのが、目的の本望であることは確かなので、それで割り切れば良いのかも知れない。
どうもこの手の常識に疎いので、日頃から苦労している。 常識を知った所で、自分が納得できないのなら、実は知らない方が拘らずにすむ分だけ幸いなのだ、と、いうことにしておきたいのが、正直な気持ちだ。
静かに祈る。 天に召された方々の為に、見送った方々の為に。 祈りの内にしんと静まった私は、きっと冬の空気にすっぽりと埋もれていて、今の季節に相応しいに違いない。 自分が冬のパーツのひとつになっていると自覚する瞬間がある。
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