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2012.02.27

学ぶこと

明け方、ウグイスの初鳴きの声で目を覚ます。 なかなかオツだな、と、予定より早い時間に起こされた事に対して頭にくることもなかった代わりに、冷え込みの強さに怯んで毛布の中に潜り込んだ。 今期の寒さは手ごわい。 

それでも、立春を過ぎたらちゃんと花粉は飛び始めたようで、春は近づきつつあるのだなあ、と、実感させられる。 薬もだいぶ進歩したみたいで、体の奥で「無理して押さえ込んでいる感」のちょっぴりを除けば、副作用も殆どない上、薬効持続時間も延びて、ありがたい限りだ。 嫌なものは嫌に違いないけれど、この程度ならばなんとか一緒に生活していってもいいかな、という、ぎりぎりの辺りまでは持ちこめている。

去年NHKのドラマで司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」を、うっかり連続して見てしまい、「ひえぇ、私、日露戦争のこと何にもわかっていない!!」、と、焦りまくってから、実家の父が持っていた全6巻を取り寄せ、暇を見つけては読んでいる。(別にこちらの図書館で借りてもよかったんだけど、いろいろな意味で古い本で読みたかった。 活字のフォントひとつとっても現在のものとは全く違っているし、なにせ私が幼児だった時代の代物なので、紙もそれなりに黄ばんでいるし。 それがまた、本の内容の古さとマッチしていて良い感じを醸し出している。 こういうのを電子書籍で読んでしまうのとは、何か違ったものを余計に受け取れそうな気がした。)

それがまた、たくさんの意味で私にとっては衝撃的で、目から鱗がぽとぽと落ちまくっている。 私が戦争に向かうロシアと日本の過程から学ぶという、ひどくお粗末なレベルであることはさて置き、「戦争」というものを形成するありとあらゆるパーツが、俗に呼ばれる「戦争」とは全く違う分野のどこかのパーツと、必ず類似形をしていることが驚きだ。 つまり、人間がやってきた(いる)最大の過ちとされる「戦争」のパーツは、現代社会でも全く同じように存在し、それを利用して人間は社会活動を続けていることになる、ということに繋がった時のショックたるや、久々の衝撃だった。 本の中の「えっ?そうだったの?」が、本質だけ見れば朝刊のニュースとあっさり重なってしまう怖さ。

「戦争」に対しての個人的誤解もたくさん見つかって、司馬氏の書いた本からの見方と比べるだけでも、そのギャップはたくさんの箇所に及ぶ始末で、今まで自分が如何に歴史というものを軽視してきたか、今になってツケがまとめて回ってきた感じだ。(受験歴史と言えば年表を覚えることが、まず第一だったので、そんなものは必要なときに調べればわざわざ覚える必要はないと、勝手に解釈し続けて生きてきた結果がこれだ。 起きた史実の本質を抽出することにその意味があったなんて、最初の段階でどうして気づけなかったんだろうか。 自分に呆れる。)

機会があればもう少し具体的に説明しながらここに書くこともやぶさかではないけれど、現代社会のあまりに広範囲の内容に類似形のパーツが分散している為、どこから手を付けたらよいものか気が散ってしまい、やがて、いちいち説明するのが億劫になるという負の連鎖が続いている。 本の主人公の一人であり、やがて海軍で活躍する若かりし日の秋山真之氏ではないが、どうも自分には愚直にコツコツと続けてゆくのが苦手な部分があり、それも私の人生に災いしているのかもしれない。 ある意味要領が良過ぎるのだ。

とにもかくにも、もうちょっと日本史や世界史をちゃんと勉強しておけばよかったと、今更ながらに反省しきりの早春。

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