it (今年も『クリスマスの約束』を見て その2)
なるべく頑張って書いてみるつもりではいるが、何せ力不足につき、やっぱり昨年末のテレビ番組「クリスマスの約束」をご覧になった方にしか伝わらないかもしれないことを、初めにお詫びしておくことにする。 ごめんなさい、題材がコアで。
この番組は基本的には小田和正さんが「やりたいことをやる番組」で、ソロでの活動が長くなってしまった氏が、年齢やジャンルを超えて音楽という共通項でお互いを認め合いながら一緒に何かやりませんか、という感じで、ここ数年はゲスト・ミュージシャンたちを呼んでコラボレートしながら、その準備の過程をドキュメントタッチでまとめ、ステージでライブとしてお客様に見せる形態をとっていた。 で、昨年の番組においてはついに21組のミュージシャンたちが一堂に会し、小田氏と同年代の人から二十代の人まで、それぞれの持ち歌をワン・フレーズずつ当人と全員が唄いまくるという20分オーバーの楽曲を披露してくれた。
まず数組の「実行委員会」が招集され、「何のためにやるのか」「やって楽しいのか」「ちゃんとできるのか」などの討論を経て、しまいには「それは番組として成立するようなものなのか」と、首をかしげるテレビ局のプロデューサーを説得し、すったもんだの末のゴーサイン。 練習を始めてみれば、それぞれ売れっ子で時間が揃わないわ、楽譜を読んで来ないわ、歳のいった人は覚えが悪いわ、前回の練習内容を忘れているわ、キーが合わないわ、編曲に無理があるわ・・で、それぞれがそれぞれに寝不足、悩み、苛立ち、欲求不満等を抱え、でも参加表明しちゃったのは自分なんだし、そこには自分の責任もある訳で逃げられない状況の中、励ましあったり慰めあったりしながらプロ意識と根性を発揮し、それを小田氏が食事会やったり壮行会やったりしながら盛り上げてバックアップし、最終的にはちゃんと完成度の高い楽曲をお客さまに披露することに成功した上、唄った21組の当人たちも力を合わせて苦難を乗り越えたことに感動、見ていたお客様やテレビの前の人たちもなんだか感動して、万々歳という結果になった。
私もボロボロ泣きながら見ていたし、変なドラマなんかよりよっぽど感動したのは、昨年末に書いた記事の通りだ。 ただし、なのである。 手放しで100%すっきりできない、何か余計なものがずーっとこびり付いてきたのも、また正直な気持ちだった。 99.8%までは到達していて多分それは最高点なんだけれど、0.2%だけ何かの負の感覚。
これは憶測だが、多分人間というものは「このやり方」が好きだ。 このやり方をすれば自分も感動できるし、人がこれをやっているのを見れば感動できることを知っている。 そして、結果として出来上がった作品を見れば「このやり方」がちゃんと使われてできたものなのかを、一発で見分けることまでできる。 なぜか分からないが、多分誰でも。
例えば団体でやるスポーツの類、オーケストラやバンド、演劇、映画、選挙、みんな「このやり方」の応用なのではないだろうか。 学校で行われる合唱コンクールや体育祭、文化祭等の行事も、実は本来は「このやり方」を体得して感動する経験を学ぶ目的だろう。 寺社のお祭り、地域おこしと呼ばれるもの、NPOなんかも「このやり方」を使う。 そして、もっと書くと、会社だったり自衛隊だったり、宗教だったり、国家だったりもする。(某国で国家主席に見せるために行われるのマスゲームや軍事パレードを思い出してほしい。)
目的はそれぞれに大いに違えども、「このやり方」を正しく使えば人々は動き、感動し、力を発揮し、喜べるのだ。 「このやり方」の唯一のポイントは、「それぞれがそれぞれの持ち場で自分の責任を果たすこと」である。 「くそーっ!」と思いながらも「なにくそ!」と踏み留まり逃げずに頑張る、「くだらない」とか「つまらない」とか「だるい」とか言ってないで、とにかくやってみる、そこである。 過程において自分の責任から逃げ出そうとする者も必ず現れるのが常だが、「一緒に頑張ってみよう」と肩を抱いて歩き出すようなリーダーシップを発揮する人も、またたいてい現れてくるのが不思議で、つまり集団が勝手に自律してきたら、もう成功は間違いがない。
もちろん個人でそれをやっても素晴らしいものは出来上がるが、団体の力が同じ方向に集約された時には、単に頭数を倍算した以上の、言うなれば「化ける」ようなパワーが発するもののようだ。 これも経験上、何となく理解している。
「このやり方」に名前はあるのだろうか。 社会学あたりで扱っている??
小田氏に誘われて参加した20代のミュージシャンたちの多くは、学生時代の行事でも「だるい」と言って動かなかった人が多いのではないかと思いながら見ていた。 今の世の中の学生たちが、そんなに熱く学校生活を送っているとも思えないような気がしたので。 その若者たちを相手に、引っ張って、「このやり方」を経験させた小田氏の尽力とパワーには、頭を下げるしかない気持ちだった。
でも、0.2%だけ、「これはもはや『小田教』だな・・」とも思ったのだ。 みんな純粋なだけに、特に。
何がどう違うのか私にも分からないが、私たちの上の世代である小田氏の年代は、私たちよりも熱い学生生活を送って「このやり方」による感動を私たちより濃く体験しているようだ。 なにせ「学生闘争」の時代である。 政治だって動かしちゃったんだから! そして、それより温度の低い私の世代でも、今の20代よりは濃い学生時代を過ごしているらしいことは、自分たちの子供の様子を見ていれば想像がつく。 だんだん薄くなった中で、小田氏がガツンと一発、「このやり方」の見本を見せて、「ほら、こんな濃い感動が作り出せるし、感動を与えられるんだぞ。」、と、やってみせた。
自分自身の経験では、「このやり方」を知っているのといないのとでは、人間として差があるという気がする。 今その中に居なくても、いざという時にすぐに思い出せるのである。 まるで自転車に乗る方法や泳ぐ方法のように。 「辛さから逃げずに自分の責任を果たせば、その向こうには感動が待っている」 「逃げそうになっている人を手伝うことができたら、感動はもっと大きくなるかもしれない」・・偉大なる成功体験の一種なのだろうか。
そして、冷静に「このやり方」を客観視すれば、マルチ商法や怪しげな宗教、極端な思想などから身を守るのにも役立つ。 自分がその中にいるときの熱さや大きな潮流のような集団の力を、「これはあの時のあれと似ている」と、独特の感覚を伴って思い出せるからだ。 経験を積めばその先がどちらに向かっているのか見えるようになり、もっと力があれば、その矛先をある程度までコントロールすることさえも可能になる。 ちょうど、今回の小田氏の役割のように。
「このやり方」と、それにこのやり方が生む感動は、人間と切っても切れない何かであり、DNAに刻まれた性(さが)ような何かなのかもしれない。 私が感じた0.2%の負の感覚は、間違った使い方をしたら人間としての存在に関わるような、その警告によるものなのではないかと思う。 宇宙戦艦ヤマトの波動砲みたいに、使ったらしばらく他のことができなくなってしまうような、危なげな決定的な何かなんじゃないかと思う。(例えが古すぎたか!)
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