2008.01.08

特発性内耳障害

浜崎あゆみさんが特発性内耳障害で片耳の聴覚を失っていることを告白した、というニュースが、いたるところで取り上げられている。 私も同じ病気、同じ状態なので、なんだか他人事でない気持ちでニュースの行方を追いかけている。

「特発性」という単語は、一般的に言い換えれば「現在の医学では原因が絞り込めていない」ことを指す。 つまり、「なんだか判らないけれど内耳がやられている」、ということ。 ストレスとの因果関係は以前から指摘されているけれど、ストレスが多い人がみんななるという話でもない。 主治医によって、特発性内耳障害という病名になる場合もあれば、メニエール(氏)病と言われたりもするし、状況によってはその前に蝸牛型とか余計な単語がくっついたりもするが、どれもみな原因が判らず、「これをやれば治る」という根治療法が確立されておらず、悪化してゆくケースもあるし繰り返して起こる場合もありうる点では一致していて、病名に係わらず病態もほぼ同じと考えてよい。

内耳というのは、鼓膜の奥にあるカタツムリ型の器官で、感覚器官としていくつかの役割を担っている。 ひとつは「音の情報を受け取って脳に伝えること」、もうひとつは「平衡感覚を感じること」、最後は「回転運動の加速度を感じ取ること」。 なので、ここをやられた状態が悪化すれば、「聴覚障害が出る」「眩暈が起きる(床と天井がぐるぐる回るような回転型のめまい)」ことにつながる。

内耳の中にはリンパ液が満たされている。 このリンパ液が何かの理由で増えてしまい、内側からぱんぱんに膨れると、当然内圧が高まり、その結果繊細な神経がダメージを受けてしまう。 これが「内耳がやられた状態」な訳だ。

一番最初に異常の自覚を感じるのは、耳がぼんやりした感じ(耳に水が入った時の様だったり、トンネルや飛行機の離着陸の際の耳の閉塞感にも似て、耳に綿を詰められてような感じ)、耳鳴り、めまいなどが多く、この最初の段階では「回復させるために有効な治療法」がある程度確立されているので、ここでちゃんと耳鼻科医の診察を受け、適切な治療を受けることが、何よりも大事になる。 めまいが起きれば驚いて、たいていの人は受診するのだが、耳がぼんやりするだけでは、日常生活への影響が少ないので、そのまま受診せずに様子を見てしまう場合が多く、そうこうしている間に手遅れになってしまう・・そこが問題なのだ。 副腎皮質ステロイド剤や利尿剤(尿の量を増やすことで、体内の余計な水分を抜く。)、ある種のビタミンや血液の循環を良くする薬などと共に安静を強要されたりするが、症状を自覚してすぐに受診すれば、多くの人はとりあえず元の状態に戻ることが出来る。

その後は、再発の予防ということになる。 投薬など医師から指示される治療の継続はもちろんだが、自分で自分の生活を見直すことも大事だ。 症状が出たという事は「体がSOSのサインを発した」という意味なので、働き方や食事・睡眠などの習慣を見直したり、心理的に自分にストレスを与えるような癖が無いか、見直す良い機会を与えられたと思って、チェックして出来るだけ改善する姿勢が大事。

それでも、どうしても症状が繰り返し起きたり、治らない場合もあって、そうなると繰り返す度に残念ながら聴力は少しずつ落ちてゆく。 これは「本人が何をした、何をしなかった」のレベルを超えて、そういう病気なのだから仕方ない。 それでも、その頃には病気との付き合い方が判ってくるものなので、それなりに工夫できる点も体得できるように思う。

浜崎あゆみさんは、あれだけ忙しく活躍しておいでだったから、初期の段階で受診の機会を逃してしまったのかもしれないし、安静がどれだけ確保できたのかも判らない。 お気の毒なことだ。

でも、私も片耳の聴力はほとんど無いけれど、とりあえず日常生活に不便は感じない。 頭蓋骨を通じて反対の耳で聴いて補っていたり、健常な耳が以前に比べて敏感に反応して、脳の中で補正回路をかけているらしい。(おかげで急に大きな音に接すると、必要以上に驚いて飛び上がったりするのだが。 例えば風でドアがバタン!と閉まる音とか、他人に近くで急にくしゃみされたりはかなり苦手。) 彼女は歌手なのでモニターの使い方などそれなりに工夫は必要とされるだろうが、やりようによっては何とかできるのではないだろうか。

たいていは片耳だけで済むことが多いものの、稀に両耳に起きる場合もあると聞く。 仕事の忙しさが仇にならないように、工夫しながら、歌手生命を無駄に縮めるようなことのないよう、祈りたい気持ちだ。

経験者として、ひとつだけもう一度強調させて欲しい。 みなさんも耳がぼんやりすることがあったら、とりあえずなるべく早く一度耳鼻科を受診して!!

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2007.09.08

不思議に思うこと

いろいろな地域で、救急車に乗った妊婦さんが、受け入れ病院を見つけてもらうことができずに、俗に言うタライ回しにされた問題が報道されている。

私の住んでいる地域でも、やっと「来てくれる産科医」が見つかって、なんとか外来が再開されたばかり。 それも独りだけでは、こなせる医療の絶対量に限界がある。 患者として仕事っぷりを見ているだけでも切なくなるような現状だ。 「居てくれるだけでも、ありがたや~」と思わずにはいられない。 どう考えたって、臨床に出て、まさに現場で踏ん張ってくれている産科医の数は足りないだろう。 それを社会的問題にするのは当然の成り行きである。

しかし、一方で、妊娠してから何十週も経過していたり、ましてや臨月に入っているというのに、「かかりつけ医が居ない」とは一体どういうことなのか?!、と、ニュースを見ていて思う。 ちゃんと基本的な妊婦健診を受けているのだろうか?、母子手帳の交付はされているのだろうか?、それにも増して、いったい何処でどのようなお産をしようと考えていたのか? その具体的イメージはちゃんとできていたのか? そこが産科医が足りないことにも増して、大きな問題だと思う。 何故その人たちが受診していなかったのか。 お金が無かったのか、時間が無かったのか、受診すべきことを知らなかったのか、何も考えていなかったのか。 急患受け入れ態勢以外の、妊婦側の原因もしっかり分析して対策を講じないと、大変なことになる。

妊娠や分娩は基本的に自然なことではあるが、一歩間違えば母子共に命取りになることなので、「ちゃんと自然に、順調に経過していること」を確かめてゆく必要がある。 日本でもかつてはお産を巡って命を落とす割合(周産期死亡率と呼ぶ)が高かったが、妊娠経過中に何度か医学的チェックを受けて、自然の経過の範疇からはみ出していないことを確認することが徹底され、また、異常が見つかった母子への管理・治療技術が進歩した結果、命を落とす割合は世界に誇れるほど激減した。 そのプロセスを無視して、いきなり陣痛が来て初対面の病院に運び込まれたのでは、妊婦さんも医療従事者も妊娠経過を理解できていない分だけ、リスクが高まる。 つまり、赤ちゃんもお母さんも命にかかわる危険が高くなることだって当然だ。 そのリスクを病院側に一方的に押し付けていたら、ますます産科医の成り手は減るに違いない。 挙句の果てに訴えられたのでは、身体がいくつあったってもたないだろう。

赤ちゃんは生まれてから自分(たち)の子供になるのではなく、お母さんの胎内で育っている時から、もうちゃんと自分(たち)の子供だろう。 この感覚は妊娠を自覚した一般的な女性なら、誰でも理解できる感覚だと思う。 私の拙い経験においても、言葉を越えた感覚として理解できるものなのだ。 それを人は母性と呼ぶらしい。

妊娠経過を診てもらうことは、自分の身体を守ることに留まらず、宿った命を守るためにもとても重要で、尚且つ親になる立場の人にとって、子供への基本的な義務なのだ、という意識を強く持っていただきたい。

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2007.08.07

タダでは起き上がらない

今回の入院について何度かやり取りした数名の方に、揃いも揃って「リーボーは肝が据わっている」というようなことをメール上で指摘されてしまった。 一般の人はもっと驚き怖がるものなのだろうか?、と、首を傾げつつ、よくよく思い出してみると、入院中にも主治医や医療関係者から、「落ち着いている」というようなことを言われていたことに行き着く。

正直なところ、怖いことは何も無かった。 ちゃんと病状も把握できていたし、受けるべき医療行為がいかなるものか、理解できていたし。 情報収集にはネットが偉大な力を発揮してくれた。 これについては、主治医にも感謝すべき部分が多いと思う。 とにかく何から何までちゃんと説明してくれる方だったので、治療の過程を医療従事者と患者で共有できたのだ。 実は、手術中も意識を落とさないままだったので、(もちろん、私が希望すれば、目覚めた時にはすべて終わっている状況で、やってもらうこともできたわけだが、『どちらを選ぶか?』と問われて、私は起きているほうを選んだ。)今から何をするだの、何という名前の薬を何の為に使うだの、今どこを切っているだの、ほとんどライブ状況で教えてもらうことが出来た。 もちろん手技に忙しい状況では、手術室の看護師さんが話しかけてくれていた。 手術中でさえそんな感じだったから、回復期の入院生活においても当然、自分の体で何が起きていて、どう経過することが予想されるかなどなど、細かく理解することができていたのだ。

基本的に、解っていれば余計な不安を抱く必要が無い、という部分で、患者である私の考え方と、主治医の考え方が一致できたのだろう、と、思う。 ただし、当然ながら、(殊、医療分野においては)中には「知らない方が安心できるので、お任せする。」という考え方の患者さんも居られると思うから、その辺りはマッチングの問題なのだろうが。 体のサインとしてあまりよろしくない内容についても、しっかり話してくれる主治医だったので、逆に私としては余計な心配をせずに済んだし、元々前向きタイプなので、「じゃあどうするか?」という段階に、すぐに踏み込むことができたし、患者として何をすればよいか・何ができるのか、どんな情報を看護師さんにフィードバックすれば良いのかの理解も容易だった。 最もありがたいことだったように思う。

とにもかくにも、人生では、たくさんのいろいろな経験をしておかないと損、というような価値観が、私の中にはあって、不調だろうが病気だろうが入院だろうが、その一環である。 せっかく滅多に無い経験ができることを思えば、タダで起き上がってくるのは勿体無い話で、「何でもかんでも、とにかく味わってやろう」みたいな気持ちが、一番正直なところかな、と、いう自覚がある。 その辺りを汲んでくれた(のか??)主治医には、大変感謝の気持ち。

それを、一般的には「肝が据わっている」と表現するのかも知れない、と、ちょっと苦笑しつつ。 妙な患者だったのかな、私・・?? なんだかそっちの方が今頃不安だったりして。 

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2007.07.04

そんなものなのかな

数ヶ月中に小さな手術を受けることになった。 簡潔に書くと、子宮を取る予定だ。

今後どういう方針で行くか、婦人科の医師と相談している中で、医師が「子宮を取るということは、つまり、生理が来なくなり出血しなくなるということになります。」と言うので、即座に「それは、助かります!」と、反応したら、「いや~あ、それが、そう簡単には助からないんですよ。」 「はあ?」 「自分は男なんで『オンナゴコロ』のことは、どうも解らないんですが、子宮を無くしてしまうと、喪失感に苛まされる患者さんが、ね、そこそこ居られるんですよ。」 「えー?!・・そんなもんですか?」 「生理が来る時には『面倒くさい』だの『厄介だ』だのって散々文句言ってたくせに、いざ、来なくなってしまうと急に『来なきゃ来ないで寂しい』って。 それで術後にブルーになって鬱の治療を始める方もあるくらいですから。」 「うわあ、それは嫌ですね。 今はまだ、そんな気持ちになるなんて全く想像もできませんけど。」 「うーん、その時にならないと理解できないものなのかもしれませんよ。 まあ、ね、助産婦さんとか看護婦さんとか、女性の病棟スタッフが話し相手になってくれるとは思いますけどね。 なにせ『オンナゴコロ』には疎いもんで・・。」

早速家に戻ってから検索をかけてみると、確かにそういった患者さんを看護したという看護研究論文がいくつも見つかった。 残念ながら、患者側が自分の喪失感を綴ったページは見つけることができていないが。 世間的にはそういう事例は少なくないみたいだ。

どうせもう役立てる予定もないのだから、とっとと取ってサッパリしたい・・などと、お気楽に考えていたし、早く閉経しないかな、なんてのん気に思っていただけに、そんな感覚は未知の世界で全くの予想外だったので、聞いていてちょっと怖くなった。 そんな時に限って、普段は蓋をしている自分の本性が出てしまうようで。 げげげ。

貴重な経験ができそうだから、自分がどんな風に心理的に変化するのか、半分楽しみに覗いてみたいと思っている。

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2007.03.05

サプリメント

多分、有資格者としての意見を期待されてのことだろうと思うが、結構な頻度で「○○のサプリメントはどう?」、と、聞かれる。 この「どう?」はなかなか曲者の問いかけで、相手がどんな内容を求めているのか判断しなくてはならないから、こちらも一瞬戸惑う。 「『どう?』ってどういうことで?」と質問させてもらうと、大抵は誰それさんが飲み始めたら調子が良いというので、自分も試そうかと思うが迷っている、といった状況が多い気がする。 こんな時の私の答えは大抵、「興味があるなら試してみたら? で、一週間続けて何も変化がなかったら止めればいいんだし。」だ。

サプリメントも薬も同じだが、何がその人に効くかは実際に使ってみないと評価できない。 しかも、それは一人一人微妙に違っていて、例えば同一成分の薬であっても、A社の製品は効かないのにB社のものは効く、なんていう事が臨床では普通に起こり得る。 医家向けの薬ならそれを処方した主治医が効果を評価することになるので、患者も自覚的に効き目を感じているかどうか、ちゃんと話せば良い。 それ式に考えると、サプリメントや市販薬の類は、飲んだり使ったりした本人が効き目の評価もしなくてはならないのは当然のことである。 他人が使って効いたものが自分にも有効かどうかは、実際に使ってみなくては判らないのだ。

仕事が忙しいシーズンには徹夜に近い状況が続いていたので、『ますたあ』や私も栄養ドリンクを事前に用意していたが、そんなものでも『ますたあ』に効くものと私に効くものは違っていた。 それも金額の問題ではなく、10本600円台で買って来た激安ドリンクでも、効くものは効くのである。 同様に私達は風邪薬も胃腸薬も鎮痛剤もそれぞれ自分に向いたものを使い分けている。

今朝の新聞にコーワから新しく売り出された「パニオンコーワ錠」の大きな広告が出ていた。 売り文句の主成分は医家向けから市販薬に初めてスイッチされたATPである。(・・さあ生物の時間を思い出してください。 人は細胞内のミトコンドリアでクエン酸サイクルを回し、その過程から取り出したATPつまりアデノシン3リン酸を生命エネルギーとして利用しているのでした、よね。) 市販薬のパニオンにはATPにビタミンB群を添加してエネルギー代謝改善剤として売り出されたようだ。 指定された一日量を内服して60mgのATPを摂取できるとのこと。

実は私の耳鼻科の主治医は、私に持病である内耳疾患の発作が起きると、医科向けのATP製剤を処方していた。 こちらは「アデホスコーワ」という名前だが、一日量にして3g・・つまりパニオンの50倍量。 しかし、残念ながらそれだけの量を飲んでいたにも拘らず、耳の発作と同時に常日頃から私の体に起きていた肩こりも霜焼けも疲労感に対しても、何ら改善への良い影響を及ぼさなかったのである。 つまり、私の体には効かなかったのだ。 もちろん主治医に相談の上アデホスの内服は中止された。 そんな経緯があるから、どんなに広告を見てもパニオンは買わない。 だからと言って、決して誰にも効かないということではなく、効く人には効くのだろうと思う。 だからこそ承認されたのだと思いたい。 一般向けのスイッチ薬といっても、それだけでは誰にでも効く理由にはならないことを示す例になると思う。

経済的状況が許されるのであれば、とりあえず試してみて、もし効果が感じられないのであれば、漫然と飲み続けるのは避けるべきだろう。 摂れば摂る程よい、という種類のものではない。 サプリメントと言えども飲み合わせで弊害が起こるケースもあるから、しっかりと知識のある人に相談して、多少面倒くさくてもちゃんと心して、サプリメントとの付き合いをするべきだと思う。 だって他でもない自分の体なんだから。

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2007.01.27

高眼圧症への訣別 その3

(続きですので、初めての方は順番にお読みください。)

今回の件で、いくつか思うことがあった。

情報の力についてだ。 インターネット網によって、こんな山の中に暮らしていても、先端的な医療の情報を手にすることができる。 そこから「自分が受けたい医療のイメージ」をまとめ、そのために適した医療機関を選ぶ・・もうそんな風に時代は変わってきたのだと、身につまされた思いがした。 情報網を活用していない医師よりも、情報網を活用している患者側が主導権を持つ、そんなことが平気で起こっている。 それは長年日本の医療の根底にあった任せきりの感覚が、通用しなくなってきていることを示すだろう。 自分の医療を患者が選ぶのを、医療従事者が専門家として手伝う、そういった考え方を両者に求めることに繋がるのではないか。

そこには患者側の責任も必要だ。 自分の体のこと、自分の病気のことを、自分で学び、ある程度の知識を持っていなければ医療を選択することができない。 医療従事者と情報を共有するために、基本のオペレーション・システムになるであろう、解剖学(何がどこにあって、どんな構造をしているのか)と生理学(どんな働きをしていて、何を作り出しているのか)の基礎知識は、もっと万人が身に付けていてもいいのではないかと思う。 そしてそれも多くの場合、インターネット経由の情報で事足りるはずだし、必要になってから情報を集めたとしても十分間に合う。 そこがクリアできている人は、「あるある大辞典の納豆パニック」に巻き込まれることも無かったであろう。

情報を集めるのも、活かすのも、取捨選択するのも、受け取る側の役割である。 そこを放棄して全て鵜呑みのままでは、自分が不利益を被ることになりかねない、そのことを肝に銘じておくべき世の中なのではないか。

今の私に残された課題は、ずっとかかりつけていた町医者の眼科医に、この事実を伝えるべきかどうかだ。 お世話になってきた感謝の気持ちはあるし、地理的に近い場所の医者との付き合いは大事にしておきたい気持ちもある。 でも、「あなたの提供できない医療技術によって、私は治療の必要がなくなりました」とも伝えるのも、相手をバカにしているようで気が引けるし、かといって相変わらず近くにいるのに「諸般の事情で受診しません」となれば「どうしたの?」とくるのも当然である。 都市部ならたくさんの患者が出入りしているから、受診しなければそれだけで済む話なのだが、田舎では世間が狭く、良くも悪くも人情味が深いので、ちょっと気が引けているのである。

実はこれは、情報弱者に対する感覚にも似ていて、インターネットに接続できる環境下にありながら、情報を収集したり分析できなかったり、そうしようとしていない人と話をする時に、非常に困る感覚とそっくりなのだ。 善い人とか親切な人とかそういう分類ではなく、情報を使える人とそうでない人とでは、明らかに考え方や生活の様子、価値観に違いが生じているような気がする。 お互いに分かり合うのは簡単ではない。 「通じない」とお互いに思ってしまうからだ。

とにかく、『高眼圧症』で治療中であり、尚且つ眼底検査に異常がなく、視神経乳頭に萎縮もなく、当然ながら矯正視力がちゃんと出て、眼圧が20mm.Hg台後半ぐらいの値で収まっている方は、どこかで一度『角膜』の厚みを計ってもらうことをおすすめしたい。 その後の人生が変わるかもしれませんよ。

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高眼圧症への訣別 その2

(続きとなっております。 初めての方は『その1』からどうぞ。)

前回アップしたような眼圧に対する考え方の最近の変化を知ったのは、ウェブ上で、だ。 どうも、高眼圧状態だからというだけで、点眼薬でコントロールするのは時代遅れになってきたみたいだ、と、感じ始めてきた。 眼圧を下げる薬は交感神経や副交感神経に作用するものが多く、ずっと使い続けるとなればいくら点眼薬といえども、副作用が気になるし、私が使っていた薬の片方は、点眼したらその後で必ず顔を洗い、瞼や目の周りに残っている薬を洗い流すようにしないと、色素沈着を起こしてクマができる、という厄介なもので面倒くささも大きかった。 しかし、ずっとかかりつけの町医者の眼科医院では(もちろん眼科専門医の認定も取っている医師だが。)、『角膜』の厚さを測定する検査機器も無いし、そのような眼科医療の風潮を知ってか知らずか、「眼圧をコントロールできている患者を、わざわざ新しい医療に進めることも無い」という姿勢がミエミエだから、ここに通っていたのでは無理だな、と、思わざるを得ない状況だった。

去年の秋の終わりに処方してもらった点眼薬を使い切るのをタイミングにして、私は重い腰を上げて、ちょっと遠くにある別の眼科医に受診した。 ウェブ上の情報によれば、そこの医院長は新しい治療法に積極的に取り組んでいることが判っていたから、例えそこに『角膜』の厚さを測る機械が無くても、「こういう検査を受けてみたい」と話をすれば紹介ぐらいはしてもらえるだろう、と、踏んだのである。

外来担当の医師は、私の病歴を一通り読んだ後で、眼圧が30mm.Hgを超えたことが無いことを確認し、眼底や『視神経乳頭』に全く異常が無いことを検査で調べた後で、「あなたのような人は『角膜』が厚い場合があるので、測ってみませんか?」とのこと。 しかも、症例を集めるためと医院長がレクチャーを受けるために、ふた月に一度外部から緑内障に詳しい眼科医を招いていて、その人がちょうど明日来るから、『角膜』のデータと合わせて判断してもらったらどうでしょう?、とのこと。 こちらが考えていたようにスイスイとことが運んで、願ったり叶ったりだった。

かくして測定された私の『角膜』の厚さは、0.6mm.と0.7mm.、つまりタイヤタイプだったわけだ。 見かけ上の高眼圧だったことが証明されて、点眼薬ももちろん中止。 ただし誰でも年齢と共に眼圧は上昇してくるので、自覚症状が無くても、念のため年に一度くらい受診してください、とのこと。 それから長期に渡り眼圧を下げる薬を使い続けてきたので、目が正常な状態に慣れるまでしばらくかかるだろうと、注意事項を説明された。 症例を集める医師側にも歓迎され、レクチャーを受けている医院長も実際に分厚い『角膜』を見ることができて喜ばれ、私も長年の憂鬱から開放され、見事に三者同時に万々歳! 結果としては願ってもない受診となり、めでたし・めでたし。

(もうちょっと続きます。)

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2007.01.26

高眼圧症への訣別 その1

実は1月25日は、私にとって記念すべき日となった。 それは、ひとつ持病が消えた日であり、20年近く余儀なくされた2種類・一日3回の点眼薬から開放された日でもあったのである。

下されていた診断名は『高眼圧症』という。 とっても簡単に言えば、目玉の圧力が上がってしまう病気だ。 目玉の中には『房水(ぼうすい)』と呼ばれる涙のような水がゆっくりと流れていて、瞳の外へ排出されてゆく。 何らかの理由で房水の生成が促進されたり、排出が上手くいかなくなったりすると、房水が溜まって水ヨーヨーがパンパンに膨らむように目玉の内圧が上昇する、これが『高眼圧』。 高眼圧の状態が長く続くと、水ヨーヨーの壁のウィークポイントがダメージを受け始める。 目玉の場合、このウィークポイントは、奥のやや下にある『視神経乳頭』と呼ばれる、文字通り視神経の束の出入り口だ。 その結果、視野が欠けたり、物が見えにくくなったりするのだが、こうなると俗に『緑内障』と呼ばれるようになる。 つまり『高眼圧症』は『緑内障』の前段階と考えて、『緑内障』に移行しないように眼圧をコントロールするのが常套的な医療とされている。(最近では『正常眼圧緑内障』といって、眼圧が高くないにも係わらず、『緑内障』の症状が出る患者さんもたくさん存在することが判り、大きな問題となっているのだが。)

で、眼圧を測定する時は、目玉のいちばん外側、つまり『角膜』と呼ばれる、虹彩(目の茶色いところですな)の外側をドーム状に覆っている膜(コンタクトレンズが乗っかる部分とも言える)で測定する。 そこにピンポイント的に風を当てたり、角膜の表面に直接端子を当てて、どのくらいの力で膜が凹むか、を計ることになる。

前置きが長くなって申し訳ないが、私は20代のある夜、ふきんの消毒をしようとしてキッチンハイターという塩素系漂白剤の飛沫を眼に入れてしまった。 救急外来を受診し10日ほどの処置で事なきを得たのだが、その際に「ハイターのダメージは完治したけれど、それとは別に、眼圧が高いから近医でしっかり診て貰う必要がある」との指摘を受けたのである。 『視神経乳頭』に異常も無いし、視野も欠けてはいないが、高い眼圧を放って置く訳にはゆかない・・とのことで、眼圧を下げる点眼薬を使うことになった。 それ以来のお付き合い、つまり、かれこれ20年近く点眼薬をさし続けて来た訳だ。 点眼薬を使い切った時に受診して、『視神経乳頭』の状態をチェックしながら、年に二回ほど視野の詳しい検査を受ける、その繰り返し。 眼圧を下げる薬も様々で、自分に合う薬が見つかるまでは試行錯誤だし、新しく点眼回数が少ない薬が認可されたとあれば試してみたり・・と、長い道のりだった。 しかも、一回の受診で保険適応でも5000円近く必要だし、待ち時間も含めると結局一日がかりに近い。 それでも目が見えなくなることは避けたい一心で、真面目な患者だったと思う。 これが一生続くのかと思うと、仕方が無いとは言え、正直面倒くさかったし憂鬱に思う時もあったのは事実だ。

ところが、である。
『レーシック』という名前を聞いたことがおありだろうか? 「近視を手術で治す」と書けば、ピンと来る方も居られるだろう。 アメリカであっという間に広まり、日本でも始まりつつある治療だ。 まだ安全性が確立されていないという理由で、保険の適応にはなっていない。(30万円近くかかるらしいが。) 実はこれは、近視の状態に応じて『角膜』を薄くレーザーで削り、レンズの屈折率を変えることで近視を矯正するという手術なのだ。 よってその患者の『角膜』がどのくらいの厚みで、どのくらい削れば良いのか、事前に正確に調べる必要がある。 そのための検査機械が開発され、レーシック手術の普及と同時に検査機械も改良研究され、値段も下がり、使いやすく安全になっていった。 当然ながら、たくさんの患者のデーターが学会などで集積されてゆく。 すると、今まで考えられていたよりも『角膜』の厚みには、個人差が大きいことがわかってきた。

標準的には0.5mm.とされていた角膜が、実は薄い人もいれば厚い人もいる、となったわけである。 つまり薄いゴム製の水ヨーヨーもあれば、タイヤのような分厚い水ヨーヨーも存在することが判ってきた。 となると、『角膜』が凹む圧力で測定していた眼圧も、その厚みによって測定値に大きな差が生ずることになる。 薄いゴム製の水ヨーヨーは指で押せばすぐに凹むが、タイヤのような水ヨーヨーを凹ませようとしたら大変な力が要るのと同じ。 なので、測定された眼圧の数値を、『角膜の厚さ』に応じて修正しなくてはいけない。

実は『高眼圧症』の診断の元、治療を受けている人の中には、この『角膜』の分厚いタイプの人がかなり含まれていることがわかってきたらしい。 実はその人達は「見かけ上、眼圧の検査結果が高い圧力に測定されているだけで、本当の眼圧は高くない」ので、当然治療も必要がなくなる。 もちろんその判別には慎重な検査や経過観察が必要ではあるが。

つづきます。)

目の構造その他は、こちらのサイトによくまとめられています。 興味のある方はどうぞ。 

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2004.12.14

難しいのは百も承知で

かかりつけの眼科へは2~3ヶ月に一度受診する。 特別なことがなければ5種類の検査を受けて、点眼薬を処方してもらう。 伊豆に来てからかかり始めた眼科とも、もう十年のお付き合いになってしまったので、相手もこちらもすっかり顔なじみだ。

年末で忙しくなる前に受診を済ませておこうと思って出かけた日は、たまたま待合室が混んでごった返していた。 日を改めようかと思い、受付に「今日は混んでますね」と挨拶すると、「大丈夫。 ほら、おじいちゃん・おばあちゃんを連れてきた家族が一緒に待っているだけで、受診する人は多くないから、そんなには待たないわよ。」とのこと。 なるほどよく見ると、お年寄りと付き添いの家族がセットになっている。

30分足らずで診察室に呼ばれ、他の患者の診察で暗室に移動する途中の医師に「変わりない?」と話し掛けられ、指でオーケーのサイン。 笑顔で頷いて暗室に入った医師を横目に、こちらは視力チェックが始まる。 途中で若い看護師さんが「ふふふ」と笑い出したので、何かと思ったら、「こんなにシャキシャキ進んでこっちまで楽しくなっちゃう。」と言う。 「朝からほとんどお年寄り相手だったから、反応が遅くて。 視力検査ひとつでも10分もかかったりするんですよ。 そのテンポに慣れていたから、こんな風にすぐ答えが戻ってくると新鮮!」 聞いていた他の看護師さんも笑っている。 「暗室に移動して戻ってくるだけで、また10分だもんね。」 「質問と違う答えが返ってくるしね。」 「そうそう、世間話が始まっちゃって先生も一苦労。」 医師までが「あなたみたいな患者が多ければ、もっと効率良く診察を進められるんだけどね。」と、苦笑していた。 よっぽどその日はお年寄りが続いていたのだろう。 スタッフの苦労が目に浮かぶようだ。

誰でも年を取って、反応が鈍くなり、体を動かすのも遅くなり、心の視野も狭くなる。 いつかは自分もその中のひとりだ。 そんな人の割合が高ければ高いほど、やはり社会や経済の効率は悪くなる。 生産性も下がるし、利益率も下がる。 高齢化社会の一端を見せ付けられたような気がして、ちょっと溜め息が出た。

ときどき自分は何をすべきかと考えて、頭を抱えることがある。

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