2013.04.13

嫌いなわけじゃなかった

食いしん坊のせいか、食べられないものは無いのだが、苦手な食品はいくつか存在している。 苦手という表現も微妙で、「自らは選ばないもの」で「出されれば、残さない」一方、「美味しいとは思えない」とか「どうしてこれを食べているのか良く分からない」といった、案外複雑な入り混じった気持ちを抱く食品だ。

その中のひとつが「桜フレーバーのもの。」 塩漬けの桜の花や葉は大丈夫で、普通に美味しくいただける。 なのに、桜の香りだけを強調したもの・・例えば、桜ラテとか、桜シロップなどを利用した食品は、飲み込むのが辛い。 要するに、エッセンスの形で濃縮したり、人工的に合成したりされると、だめなんだろうと思う。 と、ここまで書いて、自分でも「あっ、そうか。」と思ったのは、抹茶でも同様のことが言えて、濃茶は美味しく飲むのに、抹茶風味のアイスやお菓子の一部には苦手なものが存在する。 ちゃんと桜の葉や抹茶だけを使って作ってもらえれば美味しいのに、そこに人工的なエッセンスを加えたものが苦手なのだ、きっと。 原材料費を節減するためには、色とフレーバーだけ添加するのが手っ取り早いのは、良く判るのだけれど。

香りに対する感覚はすぐに麻痺しがちで、どんどん使う量がエスカレートしてしまう。 人様に提供する料理を作っていた時には、かなり気にし計算していた。 食べ物の場合は、温度によって感じ取る香りの強さも変わるので、作り手にとって怖い。

近隣のソメイヨシノ。 花はすっかり散ってしまったが、明け方に暖かい小雨が降った後で、木の傍を通ったら、ふんわりと桜の香りがした。 散って道に落ちて朽かけている花びらからなのか、枝に残されているガクからなのか、それとも芽生えたばかりのホヨホヨした若葉からなのか、濡れた幹からなのか、そこまでは分からなかったものの、桜並木を歩いていて幸せな気分になった。  いじらない、そのままの状態ならば、やっぱり私は桜の香りも好きなんだなと、再確認できて、ちょっと嬉しかった。

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2013.04.06

桜を見送る・2

消耗する日々が続いていた。 ずっとマイペースで仕事をしていた私にとっては、俗世間の年度末というものが、これほどまでにクレージーなものとは知らなかった。 悔しいからあんまり弱音は吐きたくないのだが、いやぁ、きつかったな・・。

私の住んでいる地域は、北摂と呼ばれる地域に属するが、桜は東京よりも一週間ほど遅かった。 先週の中ごろがちょうど満開。 今日は爆弾低気圧が通過中で、外は強い風が吹いているから、『花散らしの雨』になってしまうのだろうと思う。 春は駆け足で通り過ぎてゆく。

荒れた天候であることを言い訳にして、今日は少し昼寝をさせてもらった。 ずっと体の奥に疲れが染み込んでしまっているようで、だるさが抜けないから、ここらで一回ちゃんとクリアしておきたかった。 眠りが浅かったのだろう。 夢の中で携帯電話が鳴って、慌てて起きたら、実際は着信も無く・・。 いつの間にか、自分はひどい職業病に罹っているらしいことが判った。 やれやれ、だ。

仕事上、結構外に出ることが多く、先週は京都大学附属病院へ行った。 いかにも京都という場所にあって、周辺でたくさんの観光客がフラフラと春を満喫している。 あまり風情を楽しむ時間も与えられてはいないが、それでも帰り際に、目をつけておいたお菓子屋さんで、お土産を物色した。 生八ツ橋の皮と餡がそれぞれ数種類に工夫され、組み合わせを自由に選んで詰めてもらう、という、新しいスタイルだ。 お店に行ったのが18時過ぎだったので、売り切れ商品も多かったが、それでも、皮の生八ツ橋に真っ黒なゴマと淡いブルーのもの2種類、それに餡はアンズとカスタードを選んで、箱詰めしてもらった。 通常の生八ツ橋よりも厚くてしっかりと食べ応えのある皮、そこに餡が2種類あるので、2×2通りの組み合わせを楽しむことができる。 見た目も洒落ているし、お土産としてはなかなか良い感じで、美味しかった。 お店の名前は「nikiniki(ニキニキ)」、有名な「聖護院八ツ橋」がプロデュースしているらしい。

週末に、少しスピリッツを呑みながら、なんとなく見てしまう番組がある。 「おとな旅 あるき旅」という30分番組で、JR西日本がスポンサーだから、近畿地方のローカル番組だろう。 大阪からJRに乗って移動し、そこでフラフラ楽しむといった気軽な旅番組で、レギュラーは俳優の三田村邦彦さんと、若い女性が一人。 アナウンサーだったり、タレントさんだったりしている。 特筆すべきは、旅に出ている三田村さんの呑みっぷり。 「仕事中だから・・」などという台詞はこの番組には存在しないらしく、朝から呑みまくっている。 駅前の商店街で揚げたてのコロッケをつまみにビールをぐぐっと・・なんていうのは、文字通り「朝飯前」で、地酒の文字を見れば必ず試飲と称して呑みまくり、お昼ご飯でも呑み、夜は夜でちょっと高めの食事とお酒。 しかも、三田村さん、ビールでも日本酒でもワインでも、何でもお好きみたいで、何が来ようがアルコールならウェルカムといった姿勢を、決して崩さない。 酔っ払うわけでもなく、でも、かなり美味しそうに呑んでいる。(いや、あれは、本当に美味しく呑んでいるのに違いない、と、私は勘ぐっているのだが。) あんな豪快な番組は、東京系列では見たことがないぞ。 なんだか、BSを見ているのかと勘違いしそうな勢いがあって、面白く、「また呑んでるよ~」などとツッコミながら、ほぼ毎週見てしまっている。 見ているこちら側も、また呑んでいるのだから、ボケがツッコミしているようなものだが。

あんまり仕事には呑まれないように気をつけないとまずいな、と、そんなことを思いつつ、満開の桜を見送っている。

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2013.03.10

イカナゴ愛

相変わらず、買い物に出かける度に(こちらにとっては)驚きの発見があって、エキサイティングな状態が続いている。 特に食べ物に関しては、時期が変わればまた新たな「えっ?!」が出現するので、季節を一巡しないと落ち着けないかな、と、最近では覚悟するようになってきた。

特に海産物ジャンルでは、「えっ?!」が多い。 ここまで違うとは・・状態である。 日常の食文化は、これほどまでに狭い範囲の中で展開されていたものだったのかと、思い知らされている。

店先で、視野の隅っこの方に、『黒くて、でれーんとした、生の何か』がパックに入って並べられているのを認識した。 「何だろう?ナマコかな?」、と、思って、近づいてみれば、フグだ。 フグが一匹、そのまんまパックに載せられて上からラップでぴたっと閉じ込められ、しら~っと普段着の顔して並べられているのだ。 当たり前のように、「とらふぐ ○○○○円」などと、シールが貼られている。 さすがに傍には、お店からのメッセージのポップがあり、「こちらの商品は、調理しないとお売りできません。 店員にお申し付けください。」 ・・うーん、「そりゃぁそうだな」なんて、うかうかと感心してしまった。 で、お刺身コーナーでは、当然「フグの薄造り(てっさ)」も並んでいる。 有田焼のお皿なんかにではなく、普通の発泡スチロールの安っぽいトレイに並べられて、である。 関東とではだいぶ扱いが違うのが面白い。


件の記事でも取り上げた「カマスゴ」、その幼魚の「イカナゴ」も、今まさにシーズンな様子だ。 お魚屋さんは「ご予約イカナゴ」を扱っていて、まるでクリスマス・ケーキの予約みたいに、用紙に住所・電話・氏名・受取日と時刻、そして、希望Kg数が書き込まれた予約票が、レジ前に束ねられている。 キロ単位で買うものなのか?!というのも驚きだが、店内では『イカナゴ釘煮用材料コーナー』が設置され、醤油やザラメ糖、味醂や酒が揃えて並んでいるのも、なかなか驚きの光景。 一般家庭で、キロ単位で、イカナゴの釘煮を作っているのか。 凄い! きっとそのための大きな鍋なんかも、奥から引っ張り出されてきているんだろうな。

たまたまちょうど、予約したイカナゴを受け取りに来ていたお客さんがあったので、遠巻きに見ていたら、大きな透明のビニール袋にみっちり詰め込まれた、透き通った生イカナゴが受け渡されていた。 ぱっと見た感じでは5~7Kgくらいか。 スイカくらいの大きさに膨らんだビニール袋。 で、その中にみっちりとシルバーに光るイカナゴ。 なかなかインパクトの強い光景だった。

新聞の地方面で紹介されていた投書には、初老の男性が集まる料理教室で、今月は『イカナゴの釘煮』の作り方を教わって来た、と、あった。 どれだけ『イカナゴLove状態』なんだ?!、と、当初は驚き、今では感心しているような不思議な状態だ。 まだ、自分で煮る勇気は無いので、そのうち、出来合いのものをちょっと買ってきて食べてみよう。 食べたら愛が伝染するかな。


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2013.02.26

阪急そばを初体験

持続的に「東京っぽい蕎麦」を探していて、ウェブ某所の書き込みに「『阪急そば』は(味が)東京寄り」というのを見つけたので、過日、散策のついでに『ますたあ』と入ってみた。

阪急そばとは、阪急線の駅にある駅蕎麦のことで、小田急の「箱根そば」とか、「あじさい」等とほぼ同様の感じだ。 駅蕎麦に女性一人だと私は少々抵抗があるが、実際に足を踏み入れれば、女性一人客も複数見かけられて、案外そういう使い方もされているのかも知れない。

ほとんどのメニューで蕎麦とうどんが選べるようだった。 券売機の表示は「うどん・そば」と、うどん表記が先の、うどん優先表示になっていて、「やっぱりなぁ」と思わず笑う。(東京だと「そば・うどん」なんですよ。) とりあえず、初体験なのでオーソドックスな天ぷらそばを注文してみた。

確かにつゆはちょっと色が濃い目で、それなりにカツオの風味も。 肝心の蕎麦は不思議な感じで、蕎麦の色をしているのに、味と香りだけ見たら「蕎麦の顔をした細~いうどん」だ。 そして、かき揚げ風のてんぷらには、桜海老ではなくて細く切ったソフトなスルメが入れられていた。 駅蕎麦でも、やはり充分に関西風なのが面白かった。

雪のちらつく寒い日に、ほっこりあったまって300円也。 安い! ご馳走様でした。

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2013.02.22

薄皮を剥ぐように

そろそろ少しずつお仕事の話も書けるかな、どうかな?、みたいな感覚が、自分でも妙だ。 この歳になって、初めての関西に引越しして、毛色の違う仕事に就き、どうにかこうにか半年が過ぎた。 じたばたとしている間は『無駄な消耗』が多いから、家に帰ってきても、ご飯を作って食べて、お風呂に入るのが精一杯で、あっという間に眠くなってしまい、新聞も読めないような状況が続いていた。 ほんの少しずつではあるが、ようやく薄皮を剥ぐように、自分らしくいられる時間が作れるようになってきたところ。 歳をとると適応能力が落ちるのか、慣れるのに時間がかかって情けなくなるが、まあこれが今の実力なんだろう、と、諦めの気持ちで、やれやれと溜息が出る。

ブログにも「何を書いたらいいのか判らない」ような状況が続いて、もう更新できないんじゃないかと、自分で危惧していた。 こちらも少しずつ、少しずつ、と、いった感じで。

職場ではピアスが禁止されている。 暫く外したまま放っておいたら、穴が塞がりそうになってしまったのに気付き、慌てて夜の間だけ付けることにした。 情け無いことに、ピアスを付け外しする、そんなことすらできない状況だったのだ。(いや、本当に、このまんま呆けてしまうんじゃないかと自分が心配になるような状況で。 トイレは流し忘れるは、電気はつけっぱなしにするは・・で、『ますたあ』にずいぶん怒られたりして。) おかげでここ最近では、ピアスを付けると、条件反射のように、家に帰ってきたんだな、自分のための時間なんだな、と、思えるようになってきた。 一種のトリガーみたいなものか。

これだけ客観視できるようになってきたら、多分大丈夫。 答えの無い仕事なので、ストレスフルな職場であることは確かだが、嫌ではないし、おかげさまで私に求められている役割もある。 ・・それが社会にとって本当に必要なのかと問われると、そうでもないのかも知れないので、答えに困窮してしまうのだが。 この困窮している感じそのものが、今の私の仕事の象徴なのだろうと思う。 その内に、ちょっとずつ書けるようになるといいな。

久しぶりに晩酌を休んで、休肝日のシラフの夜8時。 日曜日の午後は仕事だが、明日の土曜日はお休みなので、晩酌に頼らなくてもリラックスできるのが嬉しい。 逆にこんな夜は、お風呂上りにビールを楽しむべきなのかも。 と、酒飲みの言い訳。

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2013.02.02

捉え方

久しぶりに「おでん」を炊いた。 理由は単純。 「ちくわぶ」を見つけたから、だ。 以前にも書いたが、大阪で暮らし始めてから、やはり「ちくわぶ」が売られている所には、なかなかお目にかかれない。

別に関東圏で生活している時でさえ、「ちくわぶ」なんて、そんなに意識していなかった具材なのだけれど、手に入らないことが判ると急に手に入れたくなる、この不思議さ。 ・・無い物ねだりの他の何物でもない。

でも、やっと手に入れて食べたら、一仕事終えて肩の荷が下りたような気分になる。 それが美味しいとか不味いとかの問題ではなく、もう、食べたことだけで満足しているような状態。 いったい何なんだか。 ちょっと自分に呆れ気味だ。

まぁ、私の食い意地が張っているせいもあって、食べ物の面から大阪の暮らしを考えてみると、根本の違いは「出汁」との付き合い方なんだと学習した。 東京の出汁が味重視なのに対して、こちらの出汁は香り重視だ。 で、それぞれに見合うような味付けの差が、そこに乗っかっている印象である。 旨みの濃さだけを比べれば、東京の方がはるかに濃い。 でも、ふたを開けた瞬間のふわ~っとした香りは、「えっ?!」と、たじろぐ程に素晴らしい。

それを「香りの程には旨みが無い」などと表現してしまっては、元も子もなくなるので、「後味や引き際がきれい」というくらいに表現しておくのが無難だと思う。 どちらがどう、とは、単に好みの問題になるし、育ってきた環境が違えば、味覚の要素に対する優先順位も、当然違う筈だ。

とりあえず、最近の課題は「美味しい蕎麦屋さんを見つけ出すこと」だ。 やっぱりこちらは「うどん文化圏」で、件の香り高い出汁を適当に含んで、ふっくらとしたうどんは美味しい。  お蕎麦を、味も出汁も濃いつゆに、ちょこっと浸して啜る・・これは、こちらでメジャーな麺つゆでは難しいだろうというのは、容易に想像される。 あのつゆでは、お蕎麦には合わない!

でもねぇ、無いものねだりで、やっぱり食べたくなるんですよ、関東風のお蕎麦。 だから、お店を見つけておかないとな、と、なる。 わがままとも言えるし、変化に適応しきれなくなった中年の哀しみとも言えるし、食への拘りとも言えるし。 とほほ・・まっ、良いか。

当然ながら、私の炊くおでんは関東炊きだ。 兄からもらった美味しい日本酒と合わせて、週末の夜をリラックスして過ごす。 何よりの贅沢かもしれない。

てな感じで、それなりに元気にやっておりますです。
 

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2012.11.09

自販機、こわい。

大阪では、電車の切符を購入する際、行き先ボタン(液晶)を押す前に、予めお金を投入することを求めてくる自販機が多い。 お金を入れてからでないと、操作をさせてくれないのだ。 だから、行き先までいくらかかるのかを先に知っておく必要があり、私のように慣れていない者は切符売り場の上にある路線図と首っ引きで、駅名を探すことになる。 まごまごしていると、後ろに並んでいる人にも気を遣うし。 出張会議などで移動する機会が多く、その度毎にあんまり面倒くさいものだから、最近はすっかりICOCA(SUICAのJR西日本バージョン)に頼りきりだ。

これは、電車に限ったことではなさそうで、この前たまたま入った食券式のごはん屋さんの券売機にも、先にお金を入れてくださいと、わざわざ人工音声で言われてしまった。

ひとつの対処法としては、お札を投入しておけば、足りなくなることをあまり気にせずにいられるので、そこそこ自由な感覚で購入することができる。 ・・で、それを無意識のうちに繰り返してしまうと、お財布がコインでジャラジャラと重たくなる。

東京でも、例えばジュースの自販機などでは先にお金を投入するので、システムが違うという訳でもないのだろうが、どれでも120円か150円というように金額が均一だったり、一目瞭然でないものを扱っている場合は、やはり不便だと思う。


なにか、根本の考え方が違うのかもしれない。 少しずついろいろと観察・考察しながら、楽しんでいる。 

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2012.11.06

そうなのね

こちらでは、「ヒレ(またはフィレ)肉」は「ヘレ肉」という表記で売られている。 カタカナだとまだ解るが、ひらがなで「へれ」と書かれると、いまだに頭の中で一瞬、んっ??っとなる。

「かぼちゃ」は「なんきん」だ。

そして、本当に「ちくわぶ」売っていない! 

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2012.03.03

せめぎ合い

まだ雪かきの後の筋肉痛が体のそこかしこに残っている。 花粉症もそこそこ。 微熱を抱えてみたり、なんだかちょっと気分不安定になったり。 冬と春のせめぎ合いだ。 気候も体の中も。 毎年同じにしらっと変わらない姿のお雛様が、対照的に安定さの象徴に思える。

過日、輸入食品を扱うお店で、インドネシアの「パーティ用トマトソース」を安売りしていたので、レトルトのパックをひとつ買ってみた。 袋には英語で『茹でたパスタの上に、温めてかければ、子供も大好きなパスタ料理がすぐできる!』的なことが書かれていたので期待していたのだが、色はともかく味のほうはどこがトマトなのかよく分からなく、妙にスパイシーで、その上思いっきり砂糖甘い。 とてもパスタにかける勇気は持てず、そのまんま冷蔵庫でお休みいただいた。 今夜は「ひな祭りメニュー」を全く無視して酢豚を作る予定だったので、ふと思い出して使ってみることに。 酢やケチャップを足し、鶏ガラスープの素と紹興酒で割って、醤油を垂らし、なんとなく酢豚っぽい味になってきたところで、後は素材を加熱しながら勘を頼りに微調整。 出来上がりだけを食べたら、それなりの出来栄えではあったが、なんだか作る段階でくたびれてしまい、自分の中では美味しさも半減したようだった。 まだ、冷蔵庫にたっぷり休んでいる「パーティ用トマトソース」・・さて、何に化かすべきか。

庭にはまだ「吹雪饅頭」程度に雪が残っている。 晴れないばかりでなく、気温が低くて湿度も高いから洗濯物が乾かない。 予報では、すっきりするにはまだ数日かかりそうだ。 そんな簡単には冬は去らないということなのだなあ、と、妙に納得してしまう。 

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2012.02.27

学ぶこと

明け方、ウグイスの初鳴きの声で目を覚ます。 なかなかオツだな、と、予定より早い時間に起こされた事に対して頭にくることもなかった代わりに、冷え込みの強さに怯んで毛布の中に潜り込んだ。 今期の寒さは手ごわい。 

それでも、立春を過ぎたらちゃんと花粉は飛び始めたようで、春は近づきつつあるのだなあ、と、実感させられる。 薬もだいぶ進歩したみたいで、体の奥で「無理して押さえ込んでいる感」のちょっぴりを除けば、副作用も殆どない上、薬効持続時間も延びて、ありがたい限りだ。 嫌なものは嫌に違いないけれど、この程度ならばなんとか一緒に生活していってもいいかな、という、ぎりぎりの辺りまでは持ちこめている。

去年NHKのドラマで司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」を、うっかり連続して見てしまい、「ひえぇ、私、日露戦争のこと何にもわかっていない!!」、と、焦りまくってから、実家の父が持っていた全6巻を取り寄せ、暇を見つけては読んでいる。(別にこちらの図書館で借りてもよかったんだけど、いろいろな意味で古い本で読みたかった。 活字のフォントひとつとっても現在のものとは全く違っているし、なにせ私が幼児だった時代の代物なので、紙もそれなりに黄ばんでいるし。 それがまた、本の内容の古さとマッチしていて良い感じを醸し出している。 こういうのを電子書籍で読んでしまうのとは、何か違ったものを余計に受け取れそうな気がした。)

それがまた、たくさんの意味で私にとっては衝撃的で、目から鱗がぽとぽと落ちまくっている。 私が戦争に向かうロシアと日本の過程から学ぶという、ひどくお粗末なレベルであることはさて置き、「戦争」というものを形成するありとあらゆるパーツが、俗に呼ばれる「戦争」とは全く違う分野のどこかのパーツと、必ず類似形をしていることが驚きだ。 つまり、人間がやってきた(いる)最大の過ちとされる「戦争」のパーツは、現代社会でも全く同じように存在し、それを利用して人間は社会活動を続けていることになる、ということに繋がった時のショックたるや、久々の衝撃だった。 本の中の「えっ?そうだったの?」が、本質だけ見れば朝刊のニュースとあっさり重なってしまう怖さ。

「戦争」に対しての個人的誤解もたくさん見つかって、司馬氏の書いた本からの見方と比べるだけでも、そのギャップはたくさんの箇所に及ぶ始末で、今まで自分が如何に歴史というものを軽視してきたか、今になってツケがまとめて回ってきた感じだ。(受験歴史と言えば年表を覚えることが、まず第一だったので、そんなものは必要なときに調べればわざわざ覚える必要はないと、勝手に解釈し続けて生きてきた結果がこれだ。 起きた史実の本質を抽出することにその意味があったなんて、最初の段階でどうして気づけなかったんだろうか。 自分に呆れる。)

機会があればもう少し具体的に説明しながらここに書くこともやぶさかではないけれど、現代社会のあまりに広範囲の内容に類似形のパーツが分散している為、どこから手を付けたらよいものか気が散ってしまい、やがて、いちいち説明するのが億劫になるという負の連鎖が続いている。 本の主人公の一人であり、やがて海軍で活躍する若かりし日の秋山真之氏ではないが、どうも自分には愚直にコツコツと続けてゆくのが苦手な部分があり、それも私の人生に災いしているのかもしれない。 ある意味要領が良過ぎるのだ。

とにもかくにも、もうちょっと日本史や世界史をちゃんと勉強しておけばよかったと、今更ながらに反省しきりの早春。

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